鈴木正弘(開業医)。医者になることを期待していた息子が、まさか直木賞の受賞者に。
昨年(令和5年/2023年)も何人かの直木賞受賞者が亡くなりました。西木正明さんもそのひとりです。訃報が流れてきたのが年末の12月、ついこのあいだのことです。享年83。
西木さんの直木賞受賞は第99回(昭和63年/1988年・上半期)ですから、ざっといまから30数年まえのことです。また今週も昔むかしのハナシですみません。
昭和63年/1988年とは、いかなる年だったのか。……それはもう人によって印象はバラバラ、こんな一年だったと、誰が何を言い張ってもたいてい通用するとは思いますけど、西木さんをハタから見たときに、外せないキーワードが2つあります。「直木賞」と「父親」です。
西木さんのお父さんは、そこまで全国的に有名な人ではありません。もちろんワタクシもほとんど何も知らないんですが、西木さんの回想をたどってまとめてみると、こうなります。
鈴木正弘。明治42年/1909年4月1日、秋田県仙北郡西明寺村生まれ。実家は「正左衛門」という屋号の農家だった、ということですが、正弘少年は、いいや、おれは医者になりたいんだ、と懸命に勉学に励んで、秋田中学、新潟医科大学と進みます。
その新潟で、秋田高女を出た小室アキさんというかわいい(?)女性と知り合ったところ、お互いが惚れ合う間柄に。モゴモゴ、ングングしているうちに子供ができてしまって、昭和15年/1940年、新潟の地で男の子を世に生み出します。父親の「正」と母親の「アキ」をとって「正昭」と命名。それがのちの西木正明さんです。
まもなく正弘さんは大学を卒業して、東京の前田外科病院に職を見つけます。しかし日本はすでに戦争状態、昭和17年/1942年、正弘さんも軍に引っ張られて軍医となり、南方パラオに派遣されます。残されたのは妻のアキさんとまだ2歳だった西木さんです。また、アキさんのからだの中にはいずれ生まれる、西木さんの妹もいましたが、ともかく次に家族が揃うのは戦争が終わった昭和20年/1945年暮れ。秋田に復員してきた正弘さんを角館駅で出迎えたときだ、ということです。
正弘さんは、故郷の西明寺村でたったひとりの医者として医院を開業します。土地の人たちの健康を一手にみなければならない貴重な役目です。長男の西木さんも、いずれは親父さんの後を継いで、村で唯一の医者を継げ、とまわりの人たちからも期待されていましたし、正弘さんもそんな思いで教育を受けさせました。
ところが西木さんは、まったく医学に興味がありません。そんなものよりおれはマスコミの世界でヒリヒリした人生を送りたいんだ。と、思いっきり青年病を発揮させて、おやじ、おれは医者にはなれない、許してくれ、と父に頭を下げて早稲田に進学します。
それまでおやじさんはいつも厳しくて、このときも反対されるかと覚悟していたそうですが、意外にも、そうか、おまえの好きな道に進みなさい、と正弘さんは温かく送り出してくれたらしいです。……なぜそんなに温かかったのか。理由の一端を知るのは、西木さんが物書きになってからでした。
西木さんが初めて本を出したのは昭和55年/1980年。直木賞の候補にもなった『オホーツク諜報船』です。そのとき父の正弘さんは70歳すぎでしたが、西木さんが驚くほどに、息子が本を出したことを喜んだそうです。そりゃあ、親なら子供が何か一つ事を成し遂げたら喜ぶのが普通だろう、とは思うんですけど、西木さんは叔父からこんなハナシを聞かされて、びっくりします。
「お前の親父さんは、若い頃文学を志し、事情が許せば小説家として人生を過ごすことが夢だったんだぞ。だから、お前がその道に入り込んだ時、あいつは俺がやろうとして出来なかったことに立ち向かっている、と言ってよろこんでいたんだ。」(平成8年/1996年3月・中央公論社刊『私の父、私の母 PartII』所収 西木正明「父の夢」より)
親は何でもかんでも子供にしゃべるわけじゃない、自分の若い頃のハナシとなればなおさらで、西木さんはこのとき初めて、作家になるというのは父の夢で、それを自分が受け継いだかたちになったんだ、と悟ります。ええハナシや。
『オホーツク諜報船』から8年後。すでに西木さんは手いっぱいの仕事を抱え、もう直木賞なんかとらなくてもいいや、と思っていたところ、第99回受賞が決まります。昭和63年/1988年7月、このときまだ父の正弘さんは79歳でご存命でした。
しかしその年の11月19日、正弘さんはあの世に旅立ちます。よしよし、小説家として食っていくというおれの夢を、よくぞかなえてくれたな。と西木さんに声をかけてから逝ったのかどうなのか。いまワタクシの手もとに資料が揃っていないので、よくわかりません。
ただ、息子の直木賞受賞を喜ばなかったわけがありませんよね。長いあいだ、山村でひとり医者として奮闘してきた男が、最後の最後で出会った幸せな出来事。それが第99回直木賞だったのだと思います。
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