植村惣八(古着商)。息子から東京に出てこいと言われてもかたくなに大阪を離れなかった頑固親父。
いつも直木賞が発表されると、それから数週間はからだのフシブシが痛いです。いわゆる「直木賞疲れ」というやつです。
こないだの水曜日に第170回(令和5年/2023年・下半期)が発表されました。まだ数日しか経っていないので、疲労感に苦しんでいます。うちのブログもふだん通りに戻るつもりですけど、手もちのネタもそんなにありません。なので、今週は「直木賞と親のこと」のテーマの番外編です。そもそも直木賞がいまここにある原因のモトのモト、直木三十五さんのことです。
直木さんはふだんから人を食ったような、なかなか常人が付き合いづらいタイプの人間だったらしいんですが、そうであっても人の子です。父がいれば母もいます。直木賞の父親・母親は、この賞をつくろうぜと言い出した菊池寛さんや佐佐木茂索さんだったと言われますが、直木さん本人がこの世に生まれていなかったら、その計画もなかったと思うと、直木さんの両親もやはり直木賞の親、と言っていいのに違いありません。
父・植村惣八。嘉永3年/1850年生まれ。実家は大和国、奈良県北部の大野あたりでは名の知られた名家の植村さんちで、惣八の父・常右衛門さんは郡山藩で侍講を務めていたといいます。
惣八さんも子供のころは、〈ええとこの坊っちゃん〉のように育てられたのではないかと思いますが、詳細はよくわかりません。ともかく息子の直木さんがのちに書いたところによると、江戸幕府がガタガタと音を立てて崩れ、藩政なる制度がなくなっちゃうのが、惣八さんが10代後半のころ。ちょうど青年から大人に差しかかる頃合いです。植村家もただ飯食らいの子供たちは邪魔者扱いされたんでしょう、こんなとこにいたってしょうもないわ、と惣八さんは単身大阪にやってきて、大丸屋呉服店にもぐり込みます。
しかし、呉服店の仕事もどのくらい続いたものか。24~25歳になる頃には、大丸をやめて、そのときの商売の知識を活かして自分で服を商う店を始めます。住まいは大阪市南区安堂寺町2丁目の長屋。いまでいうと、地下鉄の「谷町六丁目」駅から歩いて数分のところだった……と伝えられています。
そこで惣八さんはお嫁さんをもらうことになりますが、それが直木さんの母親の〈しづ〉さんです。文久2年/1862年、大野にあった植村家より東寄りにあった下水村の出身で、名家・植村家に嫁いできたと思ったら貧乏くさくて狭っ苦しい家だったんで驚いたんだとか何だとか。二人が結婚したのは明治16年/1883年のころで、惣八さん32歳、しづさん21歳。
以来、大阪の下町でコツコツ古着を扱いながら、つつましい暮らしを続け、そして子づくりに励んだ結果、明治24年/1891年、結婚8年目でようやく、かわいいかわいい男の子を授かります。宗一、と命名されたその植村家待望の長男が、いずれ紆余曲折の末に小説家になる直木三十五さんです。
直木さんも東京に出てきて以降は、やたらと逸話の多い変人ですが、親父さんもまたかなりの偏屈者でした。こないだ紹介した村松梢風さんが、直木さんのことを書くところで、親父・惣八さんのことをこう書いています。
「直木の父は一生涯古着の小商人で終つたけれども、余程変人で、世話好きで依怙地な人だつたさうである。
(引用者中略)
とにかく大変貧乏だつたらしい。(引用者注:直木は)子供の時分玩具を持つて遊んだ記憶がないといふ。又菓子など買つて貰つたこともないといふ。」(昭和26年/1951年6月・創元社刊、村松梢風・著『近代作家伝 上巻』「直木三十五」より)
その惣八さんは、子供には立派になってもらいたいと、教育にかけるおカネは惜しまず出しますが、医者とか学者とか、そういう人になってもらいたかったらしくて、まさか文学を志望するとは思っていません。直木さんがおれは文学がしたいと言ったとき、惣八さんは猛反対。東京で何か文章をモトデに暮らしていくなんて、とうてい納得できるものではなく、直木さんが後年、小説でおカネが稼げるようになって、おやじやおふくろを東京に呼ぼうと画策しても、おれはそんなところ行くもんかいと、大阪を離れず、貧乏長屋のボロい家から動こうとはしませんでした。変人かどうかはともかく、依怙地な性格だったのはたしかでしょう。
昭和9年/1934年2月、直木さんは亡くなります。享年は43。その年、菊池さんと佐佐木さんが頭をひねって直木賞をつくるところまでこぎつけますが、このとき、惣八さんもご健在。ということは、直木賞が始まったのをこの目で見届けたことになります。
いったい、偏屈な惣八さんは、せがれの名前を冠した賞なんかができてしまって、何を思ったか。当時の大阪の新聞などを丹念に調べれば、何か父親のコメントが見つかるかもしれません。あのかわいい息子が偉いもんになった、と褒めていてくれたら、直木さんもきっと喜ぶでしょう。その後、惣八さんは次男の清二さんが引き取って、大阪から松山に移り、そこで人生を終えました。息子の倍以上を生き、享年は88歳だったとのことです。
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