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2024年1月 7日 (日)

村松そう(作家の妻)。夫の女性関係に心を痛め、最後は直木賞候補の息子の家で死を迎える。

 直木賞は、文学のよしあしを決める行事ではありません。

 いや、間違えました。文学のよしあしを決める“だけの”行事ではありません。

 文字に書かれた芸術的な感興とは全然関係がない、現実世界の地縁や血縁や仕事の縁など、生きている人間どうしのつながりが大きく影響を及ぼす行事です。そりゃそうです。人間のやっていることですから。そういうものなしに事業として成り立つわけがありません。

 これまでの直木賞の候補者たちを見ても、誰が誰とつながっていて、誰と誰が仲が悪かった、といった縁の糸がやたらめったら絡み合っています。そのなかの代表的な一例が、村松家と直木賞の関係性でしょう。これまでも何度かうちのブログで書いてきました。

 そもそも大正時代に現われた有能エンタメライター村松梢風さんは、直木三十五さんと同時代人。直木賞の基盤を(偏向したかたちで)築き上げた選考委員の小島政二郎さんとは、ツーカーの間柄。といった直木賞草創期のハナシから始まって、梢風の息子、村松喬さんは新聞で学芸記者をしていた人ですが、いっとき自分で小説も書いて、二度の直木賞候補に挙がっている。その甥にあたる村松友視さんは三度も候補に選ばれて、三度目でおっとびっくりの受賞までしてしまいます。村松一家の物書きたちは、直木三十五~直木賞の流れと切っても切り離すことができません。

 ということで、「直木賞と親のこと」のテーマでも、村松さんちのことを取り上げたいな。と思ったんですけど、第36回(昭和31年/1956年・下半期)と第37回(昭和32年/1957年・上半期)に候補になった村松喬さんの親といえば、当然ですけど、梢風さんです。

 まあしかし、いまさら有名人の梢風さんをブログに書いても面白くありません。なので、今回は喬さんのもうひとりの親……母親のことに触れたいと思います。

 村松そう。旧姓・桑原。明治27年/1894年生まれ、出身は静岡県磐田郡西浅羽。父親の桑原源六さんは西浅羽の村長を務めたこともある地元の有力者でした。実家では大切に育てられ……たんだと思われます。静岡静華高等女学校を卒業。明治44年/1911年、18歳のときに同県周智郡飯田村の村松家の放蕩息子、義一との見合いがセッティングされ、お嫁に行かされます。そこでいっしょになった義一が、後年、文筆家として名をなした梢風さんです。

 〈そう〉さんは、村松家に入るや、語呂が悪いからと助言を受けて〈その〉と改名させられます。その後、〈かほる〉だの〈薫〉だのと改名を何度もしたそうで、いまとなっては何と表記していいのかわかりませんが、とりあえずここでは最初の〈そう〉で通させてもらいます。

 梢風さんとのあいだにできた子供は男ばかり4人。長男の友吾さん(大正1年/1912年生まれ)のことは、昔、友視さんのことを書いたエントリーで少し触れました。村松友視さんの早逝したお父さんです。その下に、次男の道平さん(大正3年/1914年生まれ)、三男・喬さん(大正6年/1917年生まれ)、四男・暎さん(大正12年/1923年生まれ)と続きます。

 夫の梢風さんが、とにかく女好きの自由人だったおかげで、本妻の〈そう〉さんはずいぶんつらく悲しい思いをした、と伝えられています。長男の友吾さんを失い、孫の友視さんを押しつけられて、郷里の静岡県で二人暮らしを強いられ、たまに帰ってくる梢風さんとはとくに親しげに話すこともなく、ただコツコツと孫のしつけと教育に当たっていた日々のことは、友視さんが繰り返し繰り返し書いてきました。最近では『ゆれる階』(令和4年/2022年10月・河出書房新社刊)にその辺のことがみっちりと出てきます。

 『ゆれる階』は、友視さんの自伝的な小説です。内容は、ご自身のことが中心ではあるんですけど、とにかく一族郎党のことが事細かく出てくるので、叔父にあたる喬さんの動向にもたくさん触れられています。

 喬さんが小説を書いて直木賞候補になった……みたいなことは出てきません。しかし、喬さんと選考委員だった小島政二郎さんの奇縁について書かれています。昭和36年/1961年頃のエピソードです。

 昭和36年/1961年2月、梢風さんが亡くなります。すると、すぐさま友人だった小島政二郎さんが、梢風さんとその女関係を題材に「女のさいころ 小説・村松梢風をめぐる女たち」という読物を『週刊新潮』に連載しました。昭和36年/1961年5月15日号から昭和37年/1962年8月13日号にかけてのことです。

 これを読んで、梢風さんの愛人、フクエさん(鎌倉のおばさん)が大激怒。小島さんに裏切られたと歯をギリギリきしませ、訴えてやると息まいたそうです。そのとき、フクエさんの側に立って小島さんと『週刊新潮』に抗議を申し立てた村松家の代表が、喬さんだったと言うのです。

「この連載は完結したものの、フクエと喬叔父が“プライバシーの侵害”という理由で作者に抗議したせいか、単行本として世に出ることはなかった。

(引用者中略)

梢風の死の前後となる時期、フクエは喬叔父との連絡を密にとって、彼を自分のうしろだてとする姿勢が顕著になり、葬儀の次第などさまざまな事柄についても頻繁に相談していたはずだ。喬叔父もまた、東京に身をおき毎日新聞社学芸部という、文士である父梢風との職業的近さをもつ環境で仕事をしている立場にあり、本来の長男である私の父友吾が他界して戸籍上の長男となった次男の道平叔父が、東京からは遠距離にある京都という土地に住んでいる以上、梢風の息子代表としての役を果すべきという自覚が強まっていたのだろう。」(村松友視・著『ゆれる階』より)

 喬さんが直木賞候補になったのが昭和32年/1957年頃。小島さんの「女のさいころ」への抗議は、それから5年ほどたった昭和37年/1962年頃。直木賞で議題に挙げられたとき、小島さんも選考委員でしたが、喬さんの作品に対してはあまり選評を残さず、いったい味方だったのか敵だったのか、態度は不鮮明でした。そんな落選させられた小島委員への意趣返しの気持ちが、いやいや、まさか喬さんにあったかどうかは藪の中ですけど、こういうかたちで関わるとは、やっぱり村松家と直木賞はいろいろ縁で結ばれているんですね。

 と、全然、母親の〈そう〉さんと関係ないハナシになっちゃいました。当時、まだ〈そう〉さんはご存命で、ということは息子・喬の小説が直木賞候補になったことも知っていたはずですが、子供が夫と同じく小説を書いたことをどう考えていたのか、〈そう〉さんの心中は詳しくわかりません。

 夫・梢風が巻き起こしたことに、晩年の〈そう〉さんはほとんど関わりを持たないまま、長く静岡県清水の家で暮らしていましたが、京都の道平さんの家に預けられたのち、一人で旅に出かけ、最終的には東京の喬さんの家にやってきて、そこで息を引き取りました。梢風さんが亡くなった翌年、昭和37年/1962年のことでした。

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