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2024年1月の5件の記事

2024年1月28日 (日)

鈴木正弘(開業医)。医者になることを期待していた息子が、まさか直木賞の受賞者に。

 昨年(令和5年/2023年)も何人かの直木賞受賞者が亡くなりました。西木正明さんもそのひとりです。訃報が流れてきたのが年末の12月、ついこのあいだのことです。享年83。

 西木さんの直木賞受賞は第99回(昭和63年/1988年・上半期)ですから、ざっといまから30数年まえのことです。また今週も昔むかしのハナシですみません。

 昭和63年/1988年とは、いかなる年だったのか。……それはもう人によって印象はバラバラ、こんな一年だったと、誰が何を言い張ってもたいてい通用するとは思いますけど、西木さんをハタから見たときに、外せないキーワードが2つあります。「直木賞」と「父親」です。

 西木さんのお父さんは、そこまで全国的に有名な人ではありません。もちろんワタクシもほとんど何も知らないんですが、西木さんの回想をたどってまとめてみると、こうなります。

 鈴木正弘。明治42年/1909年4月1日、秋田県仙北郡西明寺村生まれ。実家は「正左衛門」という屋号の農家だった、ということですが、正弘少年は、いいや、おれは医者になりたいんだ、と懸命に勉学に励んで、秋田中学、新潟医科大学と進みます。

 その新潟で、秋田高女を出た小室アキさんというかわいい(?)女性と知り合ったところ、お互いが惚れ合う間柄に。モゴモゴ、ングングしているうちに子供ができてしまって、昭和15年/1940年、新潟の地で男の子を世に生み出します。父親の「正」と母親の「アキ」をとって「正昭」と命名。それがのちの西木正明さんです。

 まもなく正弘さんは大学を卒業して、東京の前田外科病院に職を見つけます。しかし日本はすでに戦争状態、昭和17年/1942年、正弘さんも軍に引っ張られて軍医となり、南方パラオに派遣されます。残されたのは妻のアキさんとまだ2歳だった西木さんです。また、アキさんのからだの中にはいずれ生まれる、西木さんの妹もいましたが、ともかく次に家族が揃うのは戦争が終わった昭和20年/1945年暮れ。秋田に復員してきた正弘さんを角館駅で出迎えたときだ、ということです。

 正弘さんは、故郷の西明寺村でたったひとりの医者として医院を開業します。土地の人たちの健康を一手にみなければならない貴重な役目です。長男の西木さんも、いずれは親父さんの後を継いで、村で唯一の医者を継げ、とまわりの人たちからも期待されていましたし、正弘さんもそんな思いで教育を受けさせました。

 ところが西木さんは、まったく医学に興味がありません。そんなものよりおれはマスコミの世界でヒリヒリした人生を送りたいんだ。と、思いっきり青年病を発揮させて、おやじ、おれは医者にはなれない、許してくれ、と父に頭を下げて早稲田に進学します。

 それまでおやじさんはいつも厳しくて、このときも反対されるかと覚悟していたそうですが、意外にも、そうか、おまえの好きな道に進みなさい、と正弘さんは温かく送り出してくれたらしいです。……なぜそんなに温かかったのか。理由の一端を知るのは、西木さんが物書きになってからでした。

 西木さんが初めて本を出したのは昭和55年/1980年。直木賞の候補にもなった『オホーツク諜報船』です。そのとき父の正弘さんは70歳すぎでしたが、西木さんが驚くほどに、息子が本を出したことを喜んだそうです。そりゃあ、親なら子供が何か一つ事を成し遂げたら喜ぶのが普通だろう、とは思うんですけど、西木さんは叔父からこんなハナシを聞かされて、びっくりします。

「お前の親父さんは、若い頃文学を志し、事情が許せば小説家として人生を過ごすことが夢だったんだぞ。だから、お前がその道に入り込んだ時、あいつは俺がやろうとして出来なかったことに立ち向かっている、と言ってよろこんでいたんだ。」(平成8年/1996年3月・中央公論社刊『私の父、私の母 PartII』所収 西木正明「父の夢」より)

 親は何でもかんでも子供にしゃべるわけじゃない、自分の若い頃のハナシとなればなおさらで、西木さんはこのとき初めて、作家になるというのは父の夢で、それを自分が受け継いだかたちになったんだ、と悟ります。ええハナシや。

 『オホーツク諜報船』から8年後。すでに西木さんは手いっぱいの仕事を抱え、もう直木賞なんかとらなくてもいいや、と思っていたところ、第99回受賞が決まります。昭和63年/1988年7月、このときまだ父の正弘さんは79歳でご存命でした。

 しかしその年の11月19日、正弘さんはあの世に旅立ちます。よしよし、小説家として食っていくというおれの夢を、よくぞかなえてくれたな。と西木さんに声をかけてから逝ったのかどうなのか。いまワタクシの手もとに資料が揃っていないので、よくわかりません。

 ただ、息子の直木賞受賞を喜ばなかったわけがありませんよね。長いあいだ、山村でひとり医者として奮闘してきた男が、最後の最後で出会った幸せな出来事。それが第99回直木賞だったのだと思います。

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2024年1月21日 (日)

植村惣八(古着商)。息子から東京に出てこいと言われてもかたくなに大阪を離れなかった頑固親父。

 いつも直木賞が発表されると、それから数週間はからだのフシブシが痛いです。いわゆる「直木賞疲れ」というやつです。

 こないだの水曜日に第170回(令和5年/2023年・下半期)が発表されました。まだ数日しか経っていないので、疲労感に苦しんでいます。うちのブログもふだん通りに戻るつもりですけど、手もちのネタもそんなにありません。なので、今週は「直木賞と親のこと」のテーマの番外編です。そもそも直木賞がいまここにある原因のモトのモト、直木三十五さんのことです。

 直木さんはふだんから人を食ったような、なかなか常人が付き合いづらいタイプの人間だったらしいんですが、そうであっても人の子です。父がいれば母もいます。直木賞の父親・母親は、この賞をつくろうぜと言い出した菊池寛さんや佐佐木茂索さんだったと言われますが、直木さん本人がこの世に生まれていなかったら、その計画もなかったと思うと、直木さんの両親もやはり直木賞の親、と言っていいのに違いありません。

 父・植村惣八。嘉永3年/1850年生まれ。実家は大和国、奈良県北部の大野あたりでは名の知られた名家の植村さんちで、惣八の父・常右衛門さんは郡山藩で侍講を務めていたといいます。

 惣八さんも子供のころは、〈ええとこの坊っちゃん〉のように育てられたのではないかと思いますが、詳細はよくわかりません。ともかく息子の直木さんがのちに書いたところによると、江戸幕府がガタガタと音を立てて崩れ、藩政なる制度がなくなっちゃうのが、惣八さんが10代後半のころ。ちょうど青年から大人に差しかかる頃合いです。植村家もただ飯食らいの子供たちは邪魔者扱いされたんでしょう、こんなとこにいたってしょうもないわ、と惣八さんは単身大阪にやってきて、大丸屋呉服店にもぐり込みます。

 しかし、呉服店の仕事もどのくらい続いたものか。24~25歳になる頃には、大丸をやめて、そのときの商売の知識を活かして自分で服を商う店を始めます。住まいは大阪市南区安堂寺町2丁目の長屋。いまでいうと、地下鉄の「谷町六丁目」駅から歩いて数分のところだった……と伝えられています。

 そこで惣八さんはお嫁さんをもらうことになりますが、それが直木さんの母親の〈しづ〉さんです。文久2年/1862年、大野にあった植村家より東寄りにあった下水村の出身で、名家・植村家に嫁いできたと思ったら貧乏くさくて狭っ苦しい家だったんで驚いたんだとか何だとか。二人が結婚したのは明治16年/1883年のころで、惣八さん32歳、しづさん21歳。

 以来、大阪の下町でコツコツ古着を扱いながら、つつましい暮らしを続け、そして子づくりに励んだ結果、明治24年/1891年、結婚8年目でようやく、かわいいかわいい男の子を授かります。宗一、と命名されたその植村家待望の長男が、いずれ紆余曲折の末に小説家になる直木三十五さんです。

 直木さんも東京に出てきて以降は、やたらと逸話の多い変人ですが、親父さんもまたかなりの偏屈者でした。こないだ紹介した村松梢風さんが、直木さんのことを書くところで、親父・惣八さんのことをこう書いています。

「直木の父は一生涯古着の小商人で終つたけれども、余程変人で、世話好きで依怙地な人だつたさうである。

(引用者中略)

とにかく大変貧乏だつたらしい。(引用者注:直木は)子供の時分玩具を持つて遊んだ記憶がないといふ。又菓子など買つて貰つたこともないといふ。」(昭和26年/1951年6月・創元社刊、村松梢風・著『近代作家伝 上巻』「直木三十五」より)

 その惣八さんは、子供には立派になってもらいたいと、教育にかけるおカネは惜しまず出しますが、医者とか学者とか、そういう人になってもらいたかったらしくて、まさか文学を志望するとは思っていません。直木さんがおれは文学がしたいと言ったとき、惣八さんは猛反対。東京で何か文章をモトデに暮らしていくなんて、とうてい納得できるものではなく、直木さんが後年、小説でおカネが稼げるようになって、おやじやおふくろを東京に呼ぼうと画策しても、おれはそんなところ行くもんかいと、大阪を離れず、貧乏長屋のボロい家から動こうとはしませんでした。変人かどうかはともかく、依怙地な性格だったのはたしかでしょう。

 昭和9年/1934年2月、直木さんは亡くなります。享年は43。その年、菊池さんと佐佐木さんが頭をひねって直木賞をつくるところまでこぎつけますが、このとき、惣八さんもご健在。ということは、直木賞が始まったのをこの目で見届けたことになります。

 いったい、偏屈な惣八さんは、せがれの名前を冠した賞なんかができてしまって、何を思ったか。当時の大阪の新聞などを丹念に調べれば、何か父親のコメントが見つかるかもしれません。あのかわいい息子が偉いもんになった、と褒めていてくれたら、直木さんもきっと喜ぶでしょう。その後、惣八さんは次男の清二さんが引き取って、大阪から松山に移り、そこで人生を終えました。息子の倍以上を生き、享年は88歳だったとのことです。

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2024年1月17日 (水)

第170回直木賞(令和5年/2023年下半期)決定の夜に

 面白いですよね、直木賞。こんなに面白い出来事がこの世にあっていいのか、と毎回ため息をついちゃいます。

 今日、令和6年/2024年1月17日の夕刻、第170回直木賞(令和5年/2023年下半期)が決まりました。候補者やその関係者の立場になれば、楽しんでばかりもいられないんでしょうけど、単なる一直木賞ファンが彼らの側に立ったふりしてシャラくさいこと言っても仕方ありません。まったく面白いものは面白いです。

 その面白さの一端は、候補作すべてをダダダダっと集中的に読む、その行為(つまり「読書」ですね)がもたらしてくれるのは間違いありません。受賞が決まったあとに受賞作だけを読むことに比べたら、候補作を全部読むだけで、もうそれだけで、1万倍くらい面白いです(たぶん)。

 そんなふうに読書の楽しさを与えてくれる候補作が、賞をとった・とらなかった、とたったそれだけのことで、一方は大きく取り上げられ、一方は急激に注目度を奪い取られるんですよ、直木賞っつうのは。まったく不条理にもほどがあります。

 世のなかは理不尽さなことだらけです。もう耐え忍んで生きていくしかないんですけど、ただ、候補作を読んでいるあいだはどの小説も楽しかったことに間違いはありません。直木賞という舞台に出てきてくれて、ありがとう。賞をとれなかった作品たちに感謝を述べたい気持ちでいっぱいです。

 加藤シゲアキさんの『なれのはて』には、正直ぶっとびました。チャラチャラしたアイドルが小説書きやがって、とか馬鹿にして、はなから手を出そうともしないジイさんバアさんたちに鉄槌をくらわす、重厚で大人びた小説。でもまあ、こういういかにも直木賞っぽい作品もいいんですけど、加藤さんはミステリーでもSFでも何でも書きこなせる方だと思うので、今度はぶっちぎりで新鮮な小説が読みたいです。よろしくお願いします。

 「こんな力のある作家が世の中にはいるんですよ」。と、新しく教えてもらえるから、直木賞を見るのはやめられないんです。今回、嶋津輝さんの小説を初めて読んで、すげえ作家が小説界にはうじゃうじゃいるんだな、と感動すら覚えました。『襷がけの二人』、直木賞じゃなくても何かのかたちでもっと脚光を浴びてほしいです。ドラマ化、映画化されるとか。

 しかし、ここで宮内悠介さんに受賞してもらうめぐり合わせが、どうして直木賞に訪れなかったんだろう。うう。おじさんは悲しいです。『ラウリ・クースクを探して』、いいっすよね。人生って何なのか、ぐっと考えちゃいますよね。宮内さん、すみません、煩わしいでしょうけど、まだまだこれからも直木賞とお付き合いください。

 さすがに毎回毎回、時代物が直木賞とったりしないよなあ。と思いながらも、村木嵐さんの『まいまいつぶろ』なら、そんな苦境を覆しちゃうかも、と頭をよぎっちゃったのはたしかです。いやあ面白い小説でした。また今後も候補になってくださると一読者としてうれしいです。

          ○

 それで、今回も大盤ぶるまいの二作授賞で、3期連続。あげたい人がわんさかいる、というのは、健全な精神の現われですよね(たぶん)。

 健全だと思います、河﨑秋子さんの作品を選んじゃうんですから。人によっては目をそむけたくなるはずの、容赦ない冷静な書きっぷり。これにイイぞと太鼓判を押す直木賞の感覚に、今回は納得しました。でもまあ、河﨑さんが文学賞をとったから何かを変えるような方とはとうてい思えません。もっともっとツラくてせつなくて救いのないもの、書き続けていってくれると期待しています。

 それと、嬉しいのはもう一人の受賞者が出たことです。ワタクシ自身、最近、生活がすさんでいるもんで、『八月の御所グラウンド』を読んで清らかな気分になりました。万城目学さんの、軽快でおかしくて、まったくブレない芯の強さが、ついに、いよいよ、ようやく、遅ればせながら、直木賞の委員に届いたんですよ。もう、じーんと胸に来ます。直木賞専門サイト&ブログを長年やってきてよかったです。

          ○

 今回の発表時刻は、以下のとおりでした。

  • ニコニコ生放送……芥:17時37分(前期比-15分) 直:19時08分(前期比+34分)

 芥川賞は前回より早めに、直木賞は逆に遅めに発表されたことで、直>芥の選考時間の長さが、また相当ひらきました。直木賞の選考委員のみなさん、お疲れさまでした。

 ちなみにワタクシは「直木賞を最大限、外から楽しむ」を人生の目標にしているので、今回は、一年ぶりに大阪・谷町にある直木三十五記念館の路地裏選考会に行ってみました。

 そしたら、いつも冗談まじりにテキトーなことをしゃべっている大阪のおじさん(=小辻事務局長)が、とるならコレとコレかな、と指さした2作品がズバリ的中。参会者も大盛り上がりでした。

 というか、なにしろ万城目さんは、直木記念館にとってはご当地、地元出身の小説家です。館の人たちも、この結果に半ば茫然としながら、涙を流して喜んでいました。こういう場所に立ち会うことができて、感慨もひとしおです。

 と、こう書いたあとは、もはや心は次の第171回(令和6年/2024年・上半期)に飛んでいっています。やっぱり候補作は5つよりも6つのほうが、6つよりも7つのほうが、断然面白いですよ、奥さん。次もどっさり候補作を読めることだけを楽しみに、数か月、命をつないでいきたいと思います。

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2024年1月14日 (日)

第170回(令和5年/2023年下半期)直木賞、候補者の親ってどんな人たち?

 もうじき決まる第170回(令和5年/2023年・下半期)の直木賞は候補者が6人います。

 作風も作家歴もバラバラです。このバラバラなところが直木賞の大きな特徴ですけど、それでもこの6人には紛れもない共通点があります。みんな父と母がいて、その子供として生まれた、ということです。

 ……と、半年まえの第169回のときも同じようなことを書いたような気がして、まったく芸がないんですが、いまうちのブログでは「直木賞と親のこと」のテーマで書いています。なので、せっかくですから、今週は候補者6人の親のことを取り上げることにしました。

 あなたの親は、どんな人ですか? と、候補者ひとりひとりに取材して回ろうかな、と思いましたが、いやいやもちろんそんな余裕もコネもありません。いつもどおり公に書かれた文章をもとにして、候補者それぞれどういうふうに自分の親のことを語っているのか見ていきながら、今週1月17日(水)の選考会を待ちたいと思います。

 以下、順番は年齢順にしようと思ったんですけど、やっぱり長く書きつづけていることに経緯を表しなければと思い直し、作家デビューが古い順番に挙げてみます。

          ○

■万城目学(47歳、平成18年/2006年デビュー)

 万城目さんは小説と同じく、エッセイも軽快で面白いので、すでに何冊もエッセイ集が出ています。

 親のハナシもそのなかにちょくちょく出てきますが、何といっても目を引くのが、いちばん最近の『万感のおもい』(令和4年/2022年5月・夏葉社刊)に収められた父親のエピソードです。

 万城目さんは書きます。作家としての自分をつくったのは、間違いなく父親だった、と。

「作家としての私を作ったのも間違いなく父だった。通勤の際の暇つぶしのために、父は三十歳を越えてから本を読み始めた。特に好きだった司馬遼太郎や山岡荘八や吉川英治の文庫本を読んだ端から本棚に並べていたため、それを中学生になった私が勝手に読み漁り、結果、作家になるための資産をたっぷりと蓄えることができた。」(『万感のおもい』所収「色へのおもい 第十色 二月」より)

 その父親が亡くなったのが平成28年/2016年2月。すでに万城目さんは5度、直木賞候補になっていて、そのたびにお父さんも期待したんじゃないだろうか、と思いますけど、いや、とれんかったものはしょうがない、と案外さっぱりしていたかもしれません。

          ○

■村木嵐(56歳、平成22年/2010年デビュー)

 今回の候補者のなかで、親もまた多少名前が知られている、といえば、宮内悠介さんと、この村木嵐さんということになるんでしょう。村木さんの父親は、映画監督だった南野梅雄さんです。

 平成22年/2010年、村木さんがデビューしたときには、何といっても「アノ司馬遼太郎の家の、最後のお手伝いさん」といった面が大きく取り上げられました。その後しばらく、インタビュー記事もたくさん書かれました。いくつかには、親のことも出てきます。

「――(引用者注:司馬遼太郎の)住み込みのお手伝いさんになる―と聞いて、ご両親は何かおっしゃいましたか

村木 「大丈夫か? できるのか? とにかくご迷惑をおかけしないように」と言われました。万一すぐに辞めるようなことになっても、いい経験ができると思ったようです。テレビの時代劇の監督をしていた父も司馬先生のファンでしたから。」(『産経新聞』平成25年/2013年10月21日大阪版夕刊「司馬さんがくれた夢(1)」より)

 父、南野さんの本棚には、司馬さんの本がずらり。村木さんも高校生の頃からそれらを数多く読んで、すくすくと(?)成長したとのことです。奇しくも万城目さんと少し話題がカブってしまいましたが、ううむ、やはり親の本棚は偉大ですね。

          ○

■宮内悠介(44歳、平成22年/2010年デビュー)

 まさか宮内さんがいまさら候補になるとは思っていなかったので(オイオイ)、宮内さんと親のことは、すでに2か月まえにブログで取り上げちまいました

 父親は作家の宮内勝典さん、母親は詩人の宮内喜美子さん。それぞれカワいいカワいい一人息子のことを数多く文章に残し、悠介さんが海外生活のなかでどういうふうに成長していったか、いまとなっては〈宮内悠介研究〉の大事な文献になっています。

 反対に、悠介さんも両親のことをいろいろな場所で、いろいろ書いているはずです。ただ、宮内さんってまだエッセイ集の類いは一冊もまとまっていないんですよね。何という文化的な損失。早くどこかの出版社、宮内さんのエッセイ集を出してください。

 今回は目についたなかから、宮内さんが母親のどじっぷりを甘ーく書いたエッセイを取り上げてみます。『3時のおやつ ふたたび』(平成28年/2016年2月・ポプラ社/ポプラ文庫)に収められた「チョココロネ」です。

 少年時代、ニューヨークのウクライナ人街に住んでいた宮内一家。母親がどこからか日本のチョココロネを調達してきたもんですから、悠介少年の目は輝きます。どうやったらおいしく食べられるか、思案した母親は、よし、フライパンで焼いてみよう、と主張。

「なぜだか嫌な予感がした。」「素晴らしいことを思いついたという顔を母がすればするほど、予感は確信に変わっていった。」「「母は絶対にこのパンを焦がす」」「と思った。」「家族という間柄では、ときおりこうした直感が働くものだ。ぼくは猛烈に反対し、そして母はぼくの反対を押し切り、やっぱりチョココロネを半分黒焦げにしたのだった。」

(引用者中略)

以来、母が何か素晴らしいことを思いついたという顔をして変なことを言い出したとき、」「「チョココロネ」」「とぼくは呪文を唱え、母もいったん立ち止まるようになった。」(『3時のおやつ ふたたび』所収「チョココロネ」より)

 微笑ましすぎて、喜美子さんのカワゆさがぐっと引き立っています。こんな文章をずらっと集めた宮内さんのエッセイ集、早く読みたいです。

          ○

■加藤シゲアキ(36歳、平成24年/2012年デビュー)

 他の候補者はともかくです。いまここで、加藤さんのエピソードをうちのブログなんかが書く必要あるのか? と正直気が引けます。だって、加藤さんのことなら何でも知ってる、みたいな猛者がこの世には何百人(何千人?)もいるんですもん。こわいです。

 それとまあ、アイドルの方ですから、よほど強烈なゴシップでもないかぎり、加藤さん自身が両親のことをあしざまに語ったりするはずもありません。とりあえず、山ほどある加藤さんの関連記事のなかから、とくに父親のことを話しているものが以下のインタビューです。

「――息子の立場として、大人になった今の加藤さんに対し、お父さまはどんな思いを抱いているだろうと想像しますか?

「誇らしいと思いますよ…あははは~。去年は僕が(第42回吉川英治文学新人賞を受賞するなど)文学賞ラッシュだったこともあり、父も鼻高々だったでしょうね。それこそ、この間「今年はお前、何かいいことないのか?」みたいなこと言ってきましたから。図々しい親だなと思いながら(笑)、「そんなもん、そうそうねぇよ!」って」」(『TVガイドperson』115号[令和4年/2022年3月]「特集 加藤シゲアキ 愛は限りなく、知は力となる」より―インタビュー:江藤利奈)

 それで今回の候補作が、母親のふるさと秋田のことを描いていて、それが直木賞候補にまでなって、ワーワー話題になっているのですから、両親の鼻タカダカ具合もひとしおなんじゃないでしょうか。

 古今東西、小説家にとって親の存在は、多くの創作のみなもとです。これからも加藤さんは、両親にどこか通じる作品を書いていってくれるものと思います。

          ○

■河﨑秋子(44歳、平成27年/2015年デビュー)

 候補作家と親のこと。いま、このテーマを書くのに最もタイムリーなのが、河﨑秋子さんです。というのも、現在、父親のことについて雑誌に連載まっただ中だからです。

 集英社の出している『青春と読書』っていうPR雑誌があります。そこに昨年令和5年/2023年9月号から河﨑さんの新連載が始まりました。タイトルは「父が牛飼いになった理由」。「理由」に「わけ」とルビが振ってあります。

 河﨑さんの実家は北海道別海町で酪農業をしています。父親の崇さんが脱サラして始めた牧場なんだそうですが、満州で生まれた崇さんがどこをどうたどって、〈牛飼い〉の仕事を始めることになったのか。その経緯を娘の秋子さんがさまざまに取材して書きつないでいます。きっと連載が終わったら単行本になるんでしょう。『青春と読書』をなかなか毎月入手して読みつづける気力もないので、そのときを心待ちにしています。

 この連載は、全編にわたって父親のことを綴っています。なかから一節を引用してもあまり意味がないんですけど、もしも河﨑さんが直木賞を受賞したときに父の崇さんがどう反応するか、それがわかる記述だけ触れておきます。

「父は今年で八十二歳になる。

存命ではあるが、約十四年前に脳卒中により高次脳機能障害を発症、自我とそれまでの記憶のほとんどを失った。(引用者中略)十四年の間に孫が増えたことも、自分のきょうだいが亡くなったことも、私が作家になったことも、何一つ理解することはなく、また、覚えておくこともできずにいる。」(『青春と読書』令和5年/2023年9月号「父が牛飼いになった理由」第1回より)

 直木賞のことを聞いても、まるで理解できない寝たきりの生活だそうです。直木賞のことがわからなくなる人生なんて、ワタクシ自身は考えたこともありませんが、そうあっても人は生きられる。うん、勇気をもって生きていこうっと。

          ○

■嶋津輝(54歳、平成28年/2016年デビュー)

 嶋津さんはオール讀物新人賞を受賞して今年で7年め。出した単行本は、今回候補に挙がった『襷がけの二人』が2冊めで、まだそれほど公に発表された文章も多くありません。

 いや、多いのかもしれません。嶋津さんの書いたものをすべて把握できたわけじゃないんですが、果たして自分の親のことをどう書いている(ないしは語っている)のか。嶋津さんの場合、よくわかりませんでした。残念。

 ひとつネットの記事ですが、文春オンラインにある「本の話」のなかに、嶋津さんが「文豪の娘でありながら、芸者屋で女中をするほど家事の達人だった“作家・幸田文とわたしの関係”」というのを寄稿しています。

 作家になるまえに出会った幸田文さんの作品の魅力や、幸田さんと自分との関連性が書かれているんですが、そこにポロッとこんな表現が出てきます。嶋津さんが初めて新人賞の最終候補に残り、あっさりと落選したときのことです。

「結果は落選で、膨らんだ妄想ははかなく霧散した。私は「幸田文=私の運命のひと説」をすぐに捨て去ることができず、幸田文と私との共通項を見出すことで失意をなぐさめた。

ともに父親が厳しい。ともに離婚歴がある。出来のよい姉と末っ子長男に挟まれた真ん中っ子というところも同じ。なによりどちらも四十を過ぎてから筆をとった――。それ以外の共通していない数々の点には目をつぶり、このまま何も起こらないはずはないという寄る辺ない予感をよすがに、その後も細々と投稿生活を続けた。」ウェブ《本の話》の記事より)

 父親が厳しい……。文さんが書いた露伴の逸話を読んだうえでこう言っているぐらいですから、よほど嶋津さんのお父さんもガミガミ、ネチネチ娘を叱るタイプの人だったに違いありません。それは、今後、嶋津さんの活躍とともに徐々に明らかにされていくんだろうと思います。

          ○

 人さまの親のことを、人さまの文章から知って、何がどうなるというんでしょうか。よくわかりません。

 ただ、受賞する人によっては、上記のうちの親御さんの誰かがメディアの取材を受けて、コメントを語ることになるはずです。1月17日の選考結果と、そのあとの報道を期待して待っています。受賞者の親が、子供の受賞について何を語るか。

 直木賞のことなら何でもいいから知っておきたい。すみません、今回のブログも、もうワタクシが病気であることの証しです。

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2024年1月 7日 (日)

村松そう(作家の妻)。夫の女性関係に心を痛め、最後は直木賞候補の息子の家で死を迎える。

 直木賞は、文学のよしあしを決める行事ではありません。

 いや、間違えました。文学のよしあしを決める“だけの”行事ではありません。

 文字に書かれた芸術的な感興とは全然関係がない、現実世界の地縁や血縁や仕事の縁など、生きている人間どうしのつながりが大きく影響を及ぼす行事です。そりゃそうです。人間のやっていることですから。そういうものなしに事業として成り立つわけがありません。

 これまでの直木賞の候補者たちを見ても、誰が誰とつながっていて、誰と誰が仲が悪かった、といった縁の糸がやたらめったら絡み合っています。そのなかの代表的な一例が、村松家と直木賞の関係性でしょう。これまでも何度かうちのブログで書いてきました。

 そもそも大正時代に現われた有能エンタメライター村松梢風さんは、直木三十五さんと同時代人。直木賞の基盤を(偏向したかたちで)築き上げた選考委員の小島政二郎さんとは、ツーカーの間柄。といった直木賞草創期のハナシから始まって、梢風の息子、村松喬さんは新聞で学芸記者をしていた人ですが、いっとき自分で小説も書いて、二度の直木賞候補に挙がっている。その甥にあたる村松友視さんは三度も候補に選ばれて、三度目でおっとびっくりの受賞までしてしまいます。村松一家の物書きたちは、直木三十五~直木賞の流れと切っても切り離すことができません。

 ということで、「直木賞と親のこと」のテーマでも、村松さんちのことを取り上げたいな。と思ったんですけど、第36回(昭和31年/1956年・下半期)と第37回(昭和32年/1957年・上半期)に候補になった村松喬さんの親といえば、当然ですけど、梢風さんです。

 まあしかし、いまさら有名人の梢風さんをブログに書いても面白くありません。なので、今回は喬さんのもうひとりの親……母親のことに触れたいと思います。

 村松そう。旧姓・桑原。明治27年/1894年生まれ、出身は静岡県磐田郡西浅羽。父親の桑原源六さんは西浅羽の村長を務めたこともある地元の有力者でした。実家では大切に育てられ……たんだと思われます。静岡静華高等女学校を卒業。明治44年/1911年、18歳のときに同県周智郡飯田村の村松家の放蕩息子、義一との見合いがセッティングされ、お嫁に行かされます。そこでいっしょになった義一が、後年、文筆家として名をなした梢風さんです。

 〈そう〉さんは、村松家に入るや、語呂が悪いからと助言を受けて〈その〉と改名させられます。その後、〈かほる〉だの〈薫〉だのと改名を何度もしたそうで、いまとなっては何と表記していいのかわかりませんが、とりあえずここでは最初の〈そう〉で通させてもらいます。

 梢風さんとのあいだにできた子供は男ばかり4人。長男の友吾さん(大正1年/1912年生まれ)のことは、昔、友視さんのことを書いたエントリーで少し触れました。村松友視さんの早逝したお父さんです。その下に、次男の道平さん(大正3年/1914年生まれ)、三男・喬さん(大正6年/1917年生まれ)、四男・暎さん(大正12年/1923年生まれ)と続きます。

 夫の梢風さんが、とにかく女好きの自由人だったおかげで、本妻の〈そう〉さんはずいぶんつらく悲しい思いをした、と伝えられています。長男の友吾さんを失い、孫の友視さんを押しつけられて、郷里の静岡県で二人暮らしを強いられ、たまに帰ってくる梢風さんとはとくに親しげに話すこともなく、ただコツコツと孫のしつけと教育に当たっていた日々のことは、友視さんが繰り返し繰り返し書いてきました。最近では『ゆれる階』(令和4年/2022年10月・河出書房新社刊)にその辺のことがみっちりと出てきます。

 『ゆれる階』は、友視さんの自伝的な小説です。内容は、ご自身のことが中心ではあるんですけど、とにかく一族郎党のことが事細かく出てくるので、叔父にあたる喬さんの動向にもたくさん触れられています。

 喬さんが小説を書いて直木賞候補になった……みたいなことは出てきません。しかし、喬さんと選考委員だった小島政二郎さんの奇縁について書かれています。昭和36年/1961年頃のエピソードです。

 昭和36年/1961年2月、梢風さんが亡くなります。すると、すぐさま友人だった小島政二郎さんが、梢風さんとその女関係を題材に「女のさいころ 小説・村松梢風をめぐる女たち」という読物を『週刊新潮』に連載しました。昭和36年/1961年5月15日号から昭和37年/1962年8月13日号にかけてのことです。

 これを読んで、梢風さんの愛人、フクエさん(鎌倉のおばさん)が大激怒。小島さんに裏切られたと歯をギリギリきしませ、訴えてやると息まいたそうです。そのとき、フクエさんの側に立って小島さんと『週刊新潮』に抗議を申し立てた村松家の代表が、喬さんだったと言うのです。

「この連載は完結したものの、フクエと喬叔父が“プライバシーの侵害”という理由で作者に抗議したせいか、単行本として世に出ることはなかった。

(引用者中略)

梢風の死の前後となる時期、フクエは喬叔父との連絡を密にとって、彼を自分のうしろだてとする姿勢が顕著になり、葬儀の次第などさまざまな事柄についても頻繁に相談していたはずだ。喬叔父もまた、東京に身をおき毎日新聞社学芸部という、文士である父梢風との職業的近さをもつ環境で仕事をしている立場にあり、本来の長男である私の父友吾が他界して戸籍上の長男となった次男の道平叔父が、東京からは遠距離にある京都という土地に住んでいる以上、梢風の息子代表としての役を果すべきという自覚が強まっていたのだろう。」(村松友視・著『ゆれる階』より)

 喬さんが直木賞候補になったのが昭和32年/1957年頃。小島さんの「女のさいころ」への抗議は、それから5年ほどたった昭和37年/1962年頃。直木賞で議題に挙げられたとき、小島さんも選考委員でしたが、喬さんの作品に対してはあまり選評を残さず、いったい味方だったのか敵だったのか、態度は不鮮明でした。そんな落選させられた小島委員への意趣返しの気持ちが、いやいや、まさか喬さんにあったかどうかは藪の中ですけど、こういうかたちで関わるとは、やっぱり村松家と直木賞はいろいろ縁で結ばれているんですね。

 と、全然、母親の〈そう〉さんと関係ないハナシになっちゃいました。当時、まだ〈そう〉さんはご存命で、ということは息子・喬の小説が直木賞候補になったことも知っていたはずですが、子供が夫と同じく小説を書いたことをどう考えていたのか、〈そう〉さんの心中は詳しくわかりません。

 夫・梢風が巻き起こしたことに、晩年の〈そう〉さんはほとんど関わりを持たないまま、長く静岡県清水の家で暮らしていましたが、京都の道平さんの家に預けられたのち、一人で旅に出かけ、最終的には東京の喬さんの家にやってきて、そこで息を引き取りました。梢風さんが亡くなった翌年、昭和37年/1962年のことでした。

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