笹沢美明(詩人)。息子がどれだけ小説を書きまくって稼ごうが、興味なし。
直木賞の手を借りずに売れてしまった作家がいるとします。昔からいままで、たくさんいます。
その作家が、候補作の対象になり得る新作を書いたとして、果たして直木賞を与えるべきかどうか。昭和の頃には、ずいぶん話題になりました。
水上勉さんや陳舜臣さんは、それでも受賞が決まった人たちです。田宮虎彦さんとか長谷川幸延さんとかは、すでに一家をなした作家と見られて、賞には届きませんでした。第44回(昭和35年/1960年・下半期)から第65回(昭和46年/1971年・上半期)、都合4度候補になった笹沢左保さんも、直木賞側があげそこなった代表的な一人です。
こんなハナシが残っています。
「「六本木心中」は、(引用者注:第48回)直木賞候補作にあげられた。世評では「絶対の本命」視されたが、選をもれた。注文が多すぎて「立って書いている」といった〈武勇伝〉が、選考委員の神経をさかなでした、という説もある。」(『新評』昭和49年/1974年9月号「笹沢左保の“自己と他者”の関係」より―構成:井家上隆幸)
その説が正しいか間違っているかはともかくして、笹沢さんも田中光二さんとかと同様、デビューのときから「親」の話題がついてまわった作家です。父親は一般的にはそう有名ではないけど、一部の文学亡者には知られた詩人、美明さんでした。
直木賞と関係があるのかないのか、まあたぶん関係は全然ないですけど、美明さんは生活能力はないながらも長命を保ち、途中からは売れっ子作家の左保さんにおんぶにだっこで、いい飯くわせてもらって生きていました。本人はたぶん不服でしょうが、直木賞専門ブログに登場してもらいます。
笹沢美明。明治31年/1898年2月6日生まれ、昭和59年/1984年3月29日没。実家は横浜で生糸の貿易をして大金を手に入れた大金持ち。子供のころから甘やかされて育ち、文学なんちゅう毒にも薬にもならない趣味にうつつを抜かしても、とくに怒られることもなく、東京外国語学校を出てもまともに働こうとしません。家のおカネを使いながら、ドイツ文学の勉強に励みます。
やがて結婚、四人の男児をもうけます。三番目の子供が生まれたのが昭和5年/1930年11月、名前を〈勝〉とつけました。のちの笹沢左保さんです。
働きもせずに遺産を消費するだけの生活で、家族が増えればそれだけ出費もかさみます。いくら大金持ちだったと言っても徐々に生活は苦しくなるいっぽうです。しかも時代は戦争に突入、総動員令などという人権無視の法律ができたおかげで、美明さんもさすがに遊んではいられなくなります。40歳をすぎて初めて、会社に就職。ドイツ系資本の電機会社だったそうです。
ところが美明さんが何もなさないうちに、昭和20年/1945年の敗戦がやってきます。ああ、よかった、これで働かずに済むぜ、とさっさと仕事をやめ、けっきょくはまた無職の貧乏文学者の道に戻ります。まじのダメ親父です。
ちょうど息子の勝さんは反抗期のお年ごろ。生活能力の親父さんとは事あるごとに衝突し、こんなヤツみたいにだけはなりたくない、と自ら人生を切り拓こうともがきます。昭和26年/1951年に国家公務員試験にみごと合格すると、翌昭和27年/1952年に郵政事務官になって簡易保険局で働きはじめました。
すでにそのころ勝さんは、おれは将来もの書きになってやるんだ、と目をキラキラ輝かせて語ったいたとか何だとか。演劇サークルでは脚本を書き、あわせて組合活動にも加わります。昭和31年/1956年に佐保子さんと結婚。26歳、ここから勝さんの運命はぐいぐい上昇気流に乗り出します。
昭和33年/1958年に宝石賞に応募した作品が採用され、新人二十五人集に掲載されたとき、使われたペンネームが、妻の名を拝借した「佐保」。この年の11月、酒を飲んで歩いていたところ車に惹かれて大けがを負いますが、その入院生活が勝さんに本格的に小説を書かせる時間をもたらし、江戸川乱歩賞に応募した「招かざる客」誕生へとつながる、というわけです。
それで、左保さんは『人喰い』で直木賞候補になるは、日本探偵作家クラブ賞をとるは、で一気にプロ作家になってガツガツ稼ぎだしますが、では父親の美明さんはどうしていたのか。というと、まったく社会不適合が直る気配もなく、完全に左保さんに頼りっきりになりました。
『別冊文藝春秋』147号[昭和54年/1979年]に左保さんが発表した「詩人の家」は、子の作家が〈笹本三郎〉、父の詩人が〈笹本信郎〉となっていますが、左保さんが美明さんのことを書いたいわゆるモデル小説です。父親はこのように描かれています。
「父の信郎は、八十一歳。
母の不二子は、七十四歳。
この両親は、いまは笹本三郎に扶養されている。二人で日々を送りたいというので、笹本の自宅から遠くないところのマンションの一室に、両親を住まわせている。
(引用者中略)
笹本信郎は、プロ作家でいる息子のことに、ほとんど関心を示さない。もちろん文学について、語り合うようなこともなかった。自分のペンと息子のペンに共通するものはないと、笹本信郎は決めてかかっているのかもしれなかった。」(昭和54年/1979年6月・文藝春秋刊『詩人の家』所収「詩人の家」より)
こういう父親のことです。直木賞なんて、べつに芸術的でも文学的でもない賞のことは、おそらく興味もなかったんじゃないだろうかと思います。それを左保さんがとろうが落とされようが、どうでもいい。……という感覚は、完全なダメ親父なのかもしれませんけど、まっとうだと思えなくもありません。
左保さんと美明さん。やっぱりよくわからない親子の関係性です。
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コメント
私は19才の時、ある出版社の文芸部門で受賞しました。その時の審査員が笹沢左保さんでした。それだけにとても興味深く、読ませて頂きました。ありがとうございました。
投稿: 水口栄一 | 2024年7月15日 (月) 20時06分