西山三済(実業家)。息子がやっている小説家という仕事を、まるで認めない父親。
令和5年/2023年ももうじき終わります。ということで、唐突にクイズです。
久米正雄、吉川英治、中山義秀、柴田錬三郎、新田次郎、井上ひさし、山口瞳、黒岩重吾、渡辺淳一。以上9人、彼らに共通することがあります。いったい何でしょうか。
全員、直木賞の選考委員だった。……というのは、うちのブログで出しているクイズだから当り前なんですけど、もう一つ共通点を付け加えると、彼らはみんな、その選考委員の在任中に亡くなった人たちです。
いやいや、人の死のことをクイズにするとか、ちょっと趣味が悪かったですね。すみません。
そして今年、彼らの列に新たに加わってしまったのが伊集院静さんです。第107回(平成4年/1992年・上半期)、42歳のときに直木賞を受賞。第144回(平成22年/2010年・下半期)、60歳のときから直木賞の選考委員を拝命して、以来13年。途中、くも膜下出血で倒れて一度だけ選評を書けなかったときがありましたが、記録上は選考会には毎回出席。全26回の選考を務め上げました。お疲れ様でした。
伊集院さんといえば、小説でもエッセイでも、父親・母親のことを数多く書いたことで知られています(たぶん)。せっかく、ブログのテーマが「直木賞と親のこと」です。取り上げないわけにはいきません。
父・西山三済。というのは日本に帰化したあとの氏名で、生まれたときは趙三済。1921年、日本の年号でいうと大正10年に、いまでいう大韓民国慶尚南道で生をうけました。13歳のときに母親から下関行きフェリーの切符をもらって、たったひとりで日本にやってきます。昭和9年/1934年ごろのことです。
とにかく懸命に働きます。職場は炭鉱や港湾などで、荒くれ者が跋扈する肉体労働者の世界でしたが、ナニクソととにかく真っ正直に仕事をしてお金を貯め、やがては自ら海運業を営むようになります。
山口県防府市三田尻で、塩田の親分だった朝鮮人の娘と出会ってひとめ惚れ。強引にアタックし、結果、結婚にまで至ります。三済さんの家にはその後6人の子供が生まれましたが、娘が三人つづいたあとで昭和25年/1950年に初めて生まれた男の子に、三済さんはようやく男が生まれた、おれのあとを継がせるやつができた、と喜びます。「忠来」と名づけられたその子が、のちに帰化して西山忠来。伊集院静さんです。
三済さんは子供を可愛がらなかったわけではなかったみたいですが、基本的には仕事が第一。子供のことは妻の容子さんにまかせっきりのまま時が流れます。当然、いちばん上の息子は事業の後を継いでくれるだろう、と思っていたんですが、そう簡単に事は運びません。すくすくと成長するにつれて、忠来さんは完全に父親に反発するようになり、おれは親父のようにはならない、と高校を卒業して東京の大学に進みます。おれは野球選手になるんだ、と忠来さんは本気で考えていました。
と、そのあと忠来さんの人生には、もういろいろありすぎるほど、いろいろあって、途中芸能ニュースを騒がせたり、貧乏になったりしながら、もの書きになって直木賞をとるわけですが、ここは伊集院さんの人生を書く回ではないので、ばっさり省きます。
父の三済さんのことです。長男の忠来さんは家を放っぽり出して上京、その次の次男は、不運にも海の遭難事故によって16歳で早逝。だいたいその頃から手広くやっていた事業もうまく行かなくなり、ガタガタと傾きはじめます。
それでも、三済さんはそんなことでヘコたれるタマではありません。目的はカネじゃない、真っ当に生きて、人の役に立つことが大切なんだ、と最終的に病にたおれるまで、何らかの事業をやり続けたんだそうです。平成20年/2008年1月28日没。享年91。
ということは、平成4年/1992年に伊集院さんが直木賞を受賞したとき、まだ三済さんは存命でした。
息子の受賞を喜ばなかったわけはないとは思いますけど、とにかく三済さんは「小説家」という稼業があやしい虚業に思えて仕方ない。小説を書くという仕事を、長く認めなかった、と伊集院さんのエッセイにも出てきます。
「父が私にしてくれたことでもっともよかったと思えるのは、彼が小説家という仕事を世の中では無用のものだと考え、長い間、一人前の仕事として認めなかったことである。
あるとき、こんなふうに言われたことがあった。
「男は起業して、人とともに働き、人のためによい仕事をして、
皆をしあわせにする。お前の仕事はお前が
よければそれでいい仕事に見える。違うのか」
もし父が、小説家の私を「お前は素晴らしい」と手放しで褒めそやしていたら、私も、そうか俺は素晴らしいんだと勘違いし、身を持ち崩していたかもしれない。」(令和4年/2022年4月・集英社刊、伊集院静・著『タダキ君、勉強してる?』より)
案外、直木賞を受賞したと言われても、それがどうした、と認めなかったかもしれません。
そういう父の考えを「もっともよかった」と書く伊集院さんも伊集院さんです。小説を書いてそれで賞をとったから、それが何だ。まったくだ。いったい直木賞とは何なんでしょう。伊集院さんと父親のエピソードを見るたび、直木賞の意味を考えさせられます。
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