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2023年12月の5件の記事

2023年12月31日 (日)

今村克彦(ダンススクール経営)。戦国武将のことを熱く語りながら子供を寝かしつける。

 誤字脱字ばっかりのブログを書いているうちに、今年も暮れようとしています。

 最近のワタクシは経年劣化が激しくて、何をやっても集中できずに失敗続き。もうブログなんかもやめちゃえばいいんですけど、直木賞に対する関心だけは、どうあっても頭から離れません。今日もまた、間違いをおそれずにダラダラと書いていきます。

 さて、「直木賞と親のこと」のテーマでやっていても、話題は昔のハナシがほとんどです。たしかに人生は先ゆき短い。だからって過去を振り返っていてどうするんだ。少しぐらい最近のことにも目を向けなきゃ腐っていく一方だぞ。ということで、ここ最近の受賞者(とその親)のことで、何か一週分書けないかなと考えてみました。

 受賞者は小説家たちです。その親は、基本的には一般人の場合が多く、そのなかから選ぶのは難しいんですよね。と思っていたところ、いるじゃないですか有名な父親が。第166回(令和3年/2021年・下半期)を受賞したのは、ごぞんじ今村翔吾さん。その父親は、公に顔も出していて、いろいろと盛んに活動している方です。

 今村克彦。昭和32年/1957年6月23日、京都府生まれ。といいますから、令和5年/2023年末現在で66歳。克彦さんのほうが直木賞をとったって遜色ないぐらいの年齢です。

 天理大学を卒業して昭和56年/1981年から京都府内で小学校の教師になります。以来教職は24年間つとめましたが、その間に「関西京都今村組」というダンスチームを立ち上げました。ダンスの好きな子供たちに熱血指導、狂気狂乱、雨あられ、その現場を見たわけではないのでテキトーなことは書けませんけど、その熱のこもった活動はまわりを巻き込んでいき、京都におもろい先生がおるぞ、と次第に話題になっていきます。

 克彦さんが初めて出した著作が『今村組346人 俺を教師にしてくれた奴等たち』(平成10年/1998年9月・たかの書房)です。長男の翔吾さんがまだ中学生ぐらいの頃のことですから、本を出した人、としては翔吾さんにとって父親は大先輩に当たります。

 翔吾さんも父親の背中を見て育った子供のひとりです。テレビでも講演でも、すでに翔吾さんのパーソナリティはたくさん見られていますが、それを見てもわかるとおり、まあ、熱苦しいというかウザいというか、何事もパワフルに立ち向かえば何とかなるさ、という強烈な個性を放っています。父・克彦さんの影響が垣間見えるところです。

 小説家になるまえの翔吾さんの履歴のなかで、ダンススクール講師という一項があるのも、もちろん克彦さんがそういう仕事に携わっていたからです。ハナシによれば、ちょうど翔吾さんが大学を中退して何をめざして生きていけばいいのかウロウロしていた頃、おまえも顔を出してみなよと克彦さんに誘われたんだとか。

 また、克彦さんは小学校の教師を辞めて、自分の理念をビジネスに昇華させてワッショイワッショイやりはじめたんですけど、それが49歳のときでした。そうだ人間は、多少年をとってからでも新しいフィールドを切り開いていけるんだ。翔吾さんもまた、30歳をすぎて夢だった小説家になる挑戦を始めます。その辺もやはり父の背を追いかけています。

 とまあ、そのあたりの翔吾さんの「直木賞をとるまでの成り上がり成功談」は、こんなブログで取り上げるまでもないでしょう。ともかく、伊豆文学賞とって、九州さが大衆文学賞とって、祥伝社から作家デビューして、角川春樹小説賞とって、直木賞の候補になって……とそれらはみな、ここ10年以内の出来事です。

 そして翔吾さんは直木賞を受賞しました。令和4年/2022年1月のことです。当然ながら取材陣は、有名な(?)父親のところにもコメントをとりに行きました。われわれ直木賞ファンのために、行ってくれました。

 『京都新聞』記者の阪口彩子さんが紹介するのが、克彦さんと次男の龍太さん(翔吾さんの弟)のお話です。

「翔吾さんもダンススクールでは小さい子どもが泣いたら片手で抱っこしながら踊ったり悩みに向き合ったりと、常に子どもの視点で接していたという。克彦さんは「弱い者に光を当てるような視点が作品に生かされている」と語る。

一方、子ども時代の教育も大きく影響している。「お父さんの話はいつも楠木正成や真田幸村だった」と龍太さん。歴史好きの克彦さんが、兄弟2人を寝かしつける時、絵本ではなく、「滅びの美学」などを話してきたという。翔吾さんが小説を書き始めた頃は克彦さんが講評するなど、作品の最初の読者として携わっていた。」(『京都新聞』令和4年/2022年1月27日「寝かしつけは「滅びの美学」 木津川出身 直木賞・今村翔吾さん」より ―署名:阪口彩子)

 ううむ、翔吾さんの直木賞への道は、やはり克彦さんなくしてはあり得なかったのだな、と胸に落ちるエピソードですね。ありがとう、『京都新聞』。

 しかしまあ、歴史好きの克彦さんが子供たちに寝物語で語ったのが「滅びの美学」というのが、妙にすごみを感じます。克彦さんも翔吾さんも、いまはガンガン前に出て、言葉に出し、行動に移していて、すばらしいな、と思うんですが、いずれ終幕を引くときがくるかもしれません。そのときは滅びの美学を見せてくれるんだろうと思います。

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2023年12月24日 (日)

西山三済(実業家)。息子がやっている小説家という仕事を、まるで認めない父親。

 令和5年/2023年ももうじき終わります。ということで、唐突にクイズです。

 久米正雄、吉川英治、中山義秀、柴田錬三郎、新田次郎、井上ひさし、山口瞳、黒岩重吾、渡辺淳一。以上9人、彼らに共通することがあります。いったい何でしょうか。

 全員、直木賞の選考委員だった。……というのは、うちのブログで出しているクイズだから当り前なんですけど、もう一つ共通点を付け加えると、彼らはみんな、その選考委員の在任中に亡くなった人たちです。

 いやいや、人の死のことをクイズにするとか、ちょっと趣味が悪かったですね。すみません。

 そして今年、彼らの列に新たに加わってしまったのが伊集院静さんです。第107回(平成4年/1992年・上半期)、42歳のときに直木賞を受賞。第144回(平成22年/2010年・下半期)、60歳のときから直木賞の選考委員を拝命して、以来13年。途中、くも膜下出血で倒れて一度だけ選評を書けなかったときがありましたが、記録上は選考会には毎回出席。全26回の選考を務め上げました。お疲れ様でした。

 伊集院さんといえば、小説でもエッセイでも、父親・母親のことを数多く書いたことで知られています(たぶん)。せっかく、ブログのテーマが「直木賞と親のこと」です。取り上げないわけにはいきません。

 父・西山三済。というのは日本に帰化したあとの氏名で、生まれたときは趙三済。1921年、日本の年号でいうと大正10年に、いまでいう大韓民国慶尚南道で生をうけました。13歳のときに母親から下関行きフェリーの切符をもらって、たったひとりで日本にやってきます。昭和9年/1934年ごろのことです。

 とにかく懸命に働きます。職場は炭鉱や港湾などで、荒くれ者が跋扈する肉体労働者の世界でしたが、ナニクソととにかく真っ正直に仕事をしてお金を貯め、やがては自ら海運業を営むようになります。

 山口県防府市三田尻で、塩田の親分だった朝鮮人の娘と出会ってひとめ惚れ。強引にアタックし、結果、結婚にまで至ります。三済さんの家にはその後6人の子供が生まれましたが、娘が三人つづいたあとで昭和25年/1950年に初めて生まれた男の子に、三済さんはようやく男が生まれた、おれのあとを継がせるやつができた、と喜びます。「忠来」と名づけられたその子が、のちに帰化して西山忠来。伊集院静さんです。

 三済さんは子供を可愛がらなかったわけではなかったみたいですが、基本的には仕事が第一。子供のことは妻の容子さんにまかせっきりのまま時が流れます。当然、いちばん上の息子は事業の後を継いでくれるだろう、と思っていたんですが、そう簡単に事は運びません。すくすくと成長するにつれて、忠来さんは完全に父親に反発するようになり、おれは親父のようにはならない、と高校を卒業して東京の大学に進みます。おれは野球選手になるんだ、と忠来さんは本気で考えていました。

 と、そのあと忠来さんの人生には、もういろいろありすぎるほど、いろいろあって、途中芸能ニュースを騒がせたり、貧乏になったりしながら、もの書きになって直木賞をとるわけですが、ここは伊集院さんの人生を書く回ではないので、ばっさり省きます。

 父の三済さんのことです。長男の忠来さんは家を放っぽり出して上京、その次の次男は、不運にも海の遭難事故によって16歳で早逝。だいたいその頃から手広くやっていた事業もうまく行かなくなり、ガタガタと傾きはじめます。

 それでも、三済さんはそんなことでヘコたれるタマではありません。目的はカネじゃない、真っ当に生きて、人の役に立つことが大切なんだ、と最終的に病にたおれるまで、何らかの事業をやり続けたんだそうです。平成20年/2008年1月28日没。享年91。

 ということは、平成4年/1992年に伊集院さんが直木賞を受賞したとき、まだ三済さんは存命でした。

 息子の受賞を喜ばなかったわけはないとは思いますけど、とにかく三済さんは「小説家」という稼業があやしい虚業に思えて仕方ない。小説を書くという仕事を、長く認めなかった、と伊集院さんのエッセイにも出てきます。

「父が私にしてくれたことでもっともよかったと思えるのは、彼が小説家という仕事を世の中では無用のものだと考え、長い間、一人前の仕事として認めなかったことである。

あるとき、こんなふうに言われたことがあった。

「男は起業して、人とともに働き、人のためによい仕事をして、

皆をしあわせにする。お前の仕事はお前が

よければそれでいい仕事に見える。違うのか」

もし父が、小説家の私を「お前は素晴らしい」と手放しで褒めそやしていたら、私も、そうか俺は素晴らしいんだと勘違いし、身を持ち崩していたかもしれない。」(令和4年/2022年4月・集英社刊、伊集院静・著『タダキ君、勉強してる?』より)

 案外、直木賞を受賞したと言われても、それがどうした、と認めなかったかもしれません。

 そういう父の考えを「もっともよかった」と書く伊集院さんも伊集院さんです。小説を書いてそれで賞をとったから、それが何だ。まったくだ。いったい直木賞とは何なんでしょう。伊集院さんと父親のエピソードを見るたび、直木賞の意味を考えさせられます。

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2023年12月17日 (日)

三浦佑之(国文学者)。あまりに娘が人気作家になってしまい、「娘の七光り」だと自嘲する。

 直木賞を受賞した人の親が、すでに名前の知られた人だった……っていうケースは、けっこうあります。

 いや、だから何なんだ、という感じではあるんですけど、受賞を報じる新聞記事には、「ちなみに父親は(あるいは母親は)△△をしている□□さん。」と血縁のことが書かれてしまう。直木賞ではお約束の出来事です。

 第135回(平成18年/2006年・上半期)のときもそうでした。三浦しをんさんを紹介する記事を読み返すと、たいてい合わせて父親の名前も出てきます。国文学者の佑之さんです。

 三浦佑之。昭和21年/1946年8月21日生まれ。実家は三重県の山間部で製材業を営む家でした。

 大学は成城大学文芸学部に進み、中西進さんのゼミに参加。むむっ、コイツできるな、と中西さんに思わせるほどの優秀な学生だったそうで、日本古代の文学、とくに『古事記』研究の道に進みます。正真正銘、学究の人です。

 共立女子短期大学、千葉大学、立正大学と働き口を変えながら、コツコツと専門的な研究に勤しんで、論文・著作も数多く世に出します。なかでも平成14年/2002年6月に文藝春秋から出した『口語訳 古事記』は評判もよく、さすが国文学ひと筋にやってきた人は、すげえ仕事をやっちゃうんだな、と広く知られるようになった……のかどうなのか、わかりませんけど、娘のしをんさんが平成12年/2000年に作家・エッセイストとしてデビューして以降、二人そろって、それぞれの分野で本を出しまくります。

 ただ、一般的には何といっても「直木賞」の威光は強力です。平成18年/2006年7月、しをんさんが直木賞を受賞、佑之さんも自身のホームページ内の「近況報告」で「13日に、思いがけない出来事があって、わが家はてんてこ舞いです。」と、こそっと書いていて、娘のまわりに一気に訪れた異様な騒ぎを、呆然としながら目の当たりにします。

 しをんさんは、それからいっそう多くの読者に愛され、佑之さんは「アノ三浦しをんの父親」といった目で見られる機会が増えました。自嘲をこめて、佑之さんが「娘の七光り」と表現するにいたったのも、しをんさんに実力があったせいではあるでしょうけど、直木賞がひと役噛んでいたことは否めません。

 それから10年ほど時が経ちます。二人が同じ場所に立って人前で話をすることはありませんでしたが、平成29年/2017年2月18日、佑之さんが定年退職するのを機に立正大学が企画して、「親子対談 古事記を読み、物語を楽しむ」というトークイベントが開かれました。

 と、このイベントのことは、まだ6~7年まえのことでもあり、ネットを探せばいろいろと情報が出てきます。ありがたいぜネット社会。

 当時の新聞記事でも、その模様はこんなふうに紹介されています。楽しいイベントだったようです。

「「本居宣長より長く古事記を研究してきたけれど、駄文書き」という佑之さんに、「家でもずっと研究してたよね」としをんさん。幼い頃、公園でよく一緒に遊び、裁縫も得意な佑之さんにウサギのぬいぐるみを作ってもらった思い出も披露した。「(しをんさんの)作品は全て読み、イベントの追っかけもしてます」という佑之さんに「キモイ」と返すなど、息の合った温かなやりとりで会場を沸かせた。」(『朝日新聞』平成29年/2017年3月1日夕刊「古事記に親しむ父娘“競演” 三浦佑之さん×しをんさん、対談」より―署名:佐々波幸子)

 しをんさんのエッセイに出てくる父娘関係まんまですね。

 娘の作品をすべて読み、勝手にイベントにも足を運ぶというのは、なかなかのもんです。佑之さんの可愛さがにじみ出ていて、これをきっかけに佑之さんの読者人気も一気に爆上がったとか、上がらなかったとか。

 と、それはそれとして佑之さんは直木賞をどう見ていたのか。自分は自分でやることがあり、まったく別の世界だと傍観していたんだろうとは思います。ただ、祖父さんや親父さんも読書家だったらしく、昭和20年代から30年代、佑之さんが子供の頃には家に『オール讀物』があって、それを夢中になって読んでいた、というハナシもあります。

 あの頃の直木賞の世界が、めぐりめぐって今度は血縁の者に受け継がれる。……「直木賞と親のこと」を見ていると、だてに直木賞も長い期間やってきたわけじゃないんだな、と時代の重なりを感じられて面白いです。まあ、『古事記』が培ってきた長い蓄積には、まったくかないませんけど。

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2023年12月10日 (日)

笹沢美明(詩人)。息子がどれだけ小説を書きまくって稼ごうが、興味なし。

 直木賞の手を借りずに売れてしまった作家がいるとします。昔からいままで、たくさんいます。

 その作家が、候補作の対象になり得る新作を書いたとして、果たして直木賞を与えるべきかどうか。昭和の頃には、ずいぶん話題になりました。

 水上勉さんや陳舜臣さんは、それでも受賞が決まった人たちです。田宮虎彦さんとか長谷川幸延さんとかは、すでに一家をなした作家と見られて、賞には届きませんでした。第44回(昭和35年/1960年・下半期)から第65回(昭和46年/1971年・上半期)、都合4度候補になった笹沢左保さんも、直木賞側があげそこなった代表的な一人です。

 こんなハナシが残っています。

「「六本木心中」は、(引用者注:第48回)直木賞候補作にあげられた。世評では「絶対の本命」視されたが、選をもれた。注文が多すぎて「立って書いている」といった〈武勇伝〉が、選考委員の神経をさかなでした、という説もある。」(『新評』昭和49年/1974年9月号「笹沢左保の“自己と他者”の関係」より―構成:井家上隆幸)

 その説が正しいか間違っているかはともかくして、笹沢さんも田中光二さんとかと同様、デビューのときから「親」の話題がついてまわった作家です。父親は一般的にはそう有名ではないけど、一部の文学亡者には知られた詩人、美明さんでした。

 直木賞と関係があるのかないのか、まあたぶん関係は全然ないですけど、美明さんは生活能力はないながらも長命を保ち、途中からは売れっ子作家の左保さんにおんぶにだっこで、いい飯くわせてもらって生きていました。本人はたぶん不服でしょうが、直木賞専門ブログに登場してもらいます。

 笹沢美明。明治31年/1898年2月6日生まれ、昭和59年/1984年3月29日没。実家は横浜で生糸の貿易をして大金を手に入れた大金持ち。子供のころから甘やかされて育ち、文学なんちゅう毒にも薬にもならない趣味にうつつを抜かしても、とくに怒られることもなく、東京外国語学校を出てもまともに働こうとしません。家のおカネを使いながら、ドイツ文学の勉強に励みます。

 やがて結婚、四人の男児をもうけます。三番目の子供が生まれたのが昭和5年/1930年11月、名前を〈勝〉とつけました。のちの笹沢左保さんです。

 働きもせずに遺産を消費するだけの生活で、家族が増えればそれだけ出費もかさみます。いくら大金持ちだったと言っても徐々に生活は苦しくなるいっぽうです。しかも時代は戦争に突入、総動員令などという人権無視の法律ができたおかげで、美明さんもさすがに遊んではいられなくなります。40歳をすぎて初めて、会社に就職。ドイツ系資本の電機会社だったそうです。

 ところが美明さんが何もなさないうちに、昭和20年/1945年の敗戦がやってきます。ああ、よかった、これで働かずに済むぜ、とさっさと仕事をやめ、けっきょくはまた無職の貧乏文学者の道に戻ります。まじのダメ親父です。

 ちょうど息子の勝さんは反抗期のお年ごろ。生活能力の親父さんとは事あるごとに衝突し、こんなヤツみたいにだけはなりたくない、と自ら人生を切り拓こうともがきます。昭和26年/1951年に国家公務員試験にみごと合格すると、翌昭和27年/1952年に郵政事務官になって簡易保険局で働きはじめました。

 すでにそのころ勝さんは、おれは将来もの書きになってやるんだ、と目をキラキラ輝かせて語ったいたとか何だとか。演劇サークルでは脚本を書き、あわせて組合活動にも加わります。昭和31年/1956年に佐保子さんと結婚。26歳、ここから勝さんの運命はぐいぐい上昇気流に乗り出します。

 昭和33年/1958年に宝石賞に応募した作品が採用され、新人二十五人集に掲載されたとき、使われたペンネームが、妻の名を拝借した「佐保」。この年の11月、酒を飲んで歩いていたところ車に惹かれて大けがを負いますが、その入院生活が勝さんに本格的に小説を書かせる時間をもたらし、江戸川乱歩賞に応募した「招かざる客」誕生へとつながる、というわけです。

 それで、左保さんは『人喰い』で直木賞候補になるは、日本探偵作家クラブ賞をとるは、で一気にプロ作家になってガツガツ稼ぎだしますが、では父親の美明さんはどうしていたのか。というと、まったく社会不適合が直る気配もなく、完全に左保さんに頼りっきりになりました。

 『別冊文藝春秋』147号[昭和54年/1979年]に左保さんが発表した「詩人の家」は、子の作家が〈笹本三郎〉、父の詩人が〈笹本信郎〉となっていますが、左保さんが美明さんのことを書いたいわゆるモデル小説です。父親はこのように描かれています。

「父の信郎は、八十一歳。

母の不二子は、七十四歳。

この両親は、いまは笹本三郎に扶養されている。二人で日々を送りたいというので、笹本の自宅から遠くないところのマンションの一室に、両親を住まわせている。

(引用者中略)

笹本信郎は、プロ作家でいる息子のことに、ほとんど関心を示さない。もちろん文学について、語り合うようなこともなかった。自分のペンと息子のペンに共通するものはないと、笹本信郎は決めてかかっているのかもしれなかった。」(昭和54年/1979年6月・文藝春秋刊『詩人の家』所収「詩人の家」より)

 こういう父親のことです。直木賞なんて、べつに芸術的でも文学的でもない賞のことは、おそらく興味もなかったんじゃないだろうかと思います。それを左保さんがとろうが落とされようが、どうでもいい。……という感覚は、完全なダメ親父なのかもしれませんけど、まっとうだと思えなくもありません。

 左保さんと美明さん。やっぱりよくわからない親子の関係性です。

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2023年12月 3日 (日)

出久根修・とき(懸賞マニアとその妻)。息子の文章に数多く登場し、直木賞の受賞のことばにも出てくる親。

 最近、ちくま文庫で『出久根達郎の古本屋小説集』(令和5年/2023年11月刊)というのが出ました。

 興味があって、つらつら読んでいたところ、「親父たち」というエッセイにぶつかりました。これの初出は『オール讀物』平成5年/1993年3月号。出久根さんが直木賞をとったのが第108回(平成4年/1992年・下半期)。要するに「親父たち」というのは、直木賞を受賞するとかならず書かされる記念エッセイだったわけです。

 うんうん、たしかに出久根さんって、父や母のことをたくさん書いてきた人だよなあ。となれば、うちのブログのテーマ「直木賞と親のこと」にぴったりなんじゃないか。……ということで、今週は出久根さんの両親について触れてみます。

 まずは父親についてです。出久根修。明治33年/1900年1月1日生まれ(戸籍上は1月2日生まれ)、昭和51年/1976年2月20日没。若い時分には郵便局に勤めていましたが、父の石太郎が、村役場に籍をおきながら、文学にも関心があり、自前で手動印刷機を買っちゃうほどの入れ込みよう。その石太郎から印刷機を譲り受けて、修さん、小さな印刷屋を開業します。

 日本が満洲に進出した頃には、印刷だけじゃなく教科書の出版にも手を出して、これがけっこう当たったのだ、と「紙クズの遺産」(平成6年/1994年10月・中央公論社刊『私の父、私の母』所収)には出ています。

 前後して、昭和3年/1928年4月4日、6つ年下の大塚ときさんと見合い結婚。男女合わせて3人の子供を生んだあと、少し離れて昭和19年/1944年、修さんが40歳を越したときに生まれたのが末っ子の達郎さんです。

 すでにその頃、修さんは本業の印刷屋を切り盛りするかたわらで、新聞、雑誌で盛んに行われていた懸賞という懸賞に応募する生活を送ります。俳句、短歌、小説、標語など、まあいまでもこういうものは『公募ガイド』を見れば全国各地でいろんなものが行われているんだな、とその数に半ば唖然としますが、昭和の時代、修さんが20代の頃から当然のように日本の社会に根づいた文化だったわけです。

 あわよくばそれをきっかけに文壇に出てやろう。と、そんな淡い夢をもつ人もいたかもしれません。懸賞でもらえる賞金、賞品を生活の足しにするための、いわば労働・仕事として懸賞をとらえていた人もいたでしょう。ただ、応募すること自体が楽しみで、日常の習慣に溶け込んでしまった人もたくさんいたかと思います。

 近代日本における投稿マニアたちの実態と歴史、というのはそれでそれで興味が沸いてきますが、ともかく修さんもその一人でした。戦後、達郎さんがものごころつく頃には、印刷屋もすっかり辞めて、基本的には懸賞応募を中心に生きていたそうです。

 その修さんは、達郎さんが東京でひとり立ちして古書店「芳雅堂」を開店した昭和48年/1973年には、まだ存命でしたが、2~3年後の昭和51年/1976年に他界。なので、達郎さんが小説を書いて直木賞の候補になったり受賞したりする未来は、知らずにこの世を去っています。

 いっぽう、修さんの連れ合いのときさんは、長生きしました。明治39年/1906年1月生まれ(戸籍上は明治38年/1905年12月31日生まれ)、平成7年/1995年4月没。先週取り上げた青島幸男さんの母ハナさんと同じ年に生まれた人ですが、〈丙午〉年の女性は嫁の貰い手が少ない、という迷信を忌避して、役所の届け出は前年大晦日にしたそうです。

 それはそれとして、達郎さんが直木賞を受賞したときは87歳。出久根さんの「受賞のことば」にも元気に(?)登場します。

「わが老母は八十七歳だが、受賞決定の日、医者の帰り、道ゆく人々に、「おめでとうございます」と声をかけられ、「おめでとう」と返した。旧正月の元日と勘違いしたのである。直木賞を説明するのに、往生した。」(『オール讀物』平成5年/1993年3月号)

 出久根さんが両親のことをよく文章に登場させる人だというのは、こういうところからもよくわかりますね。出久根さんが直木賞をとったということを、けっきょくときさんは理解できたのかどうなのか、その2年後に、同居する達郎さんの家で、達郎さんの夫婦に看取られて亡くなりました。

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