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2023年11月の4件の記事

2023年11月26日 (日)

青島ハナ(弁当屋女将)。自分がモデルになった息子の小説が直木賞をとって、授賞式に出席。

 自分の親のことを題材にしてものを書く。……おそらくこれまで、いろんな人が親についての小説を発表してきました。

 そのなかで直木賞の候補になったものもあります。さらには受賞しちゃったものまであります。「直木賞と親のこと」と言ったら、やはりそれらを取り上げないわけにはいきません。

 今週は、〈親もの〉小説で受賞した代表といっていいこの人、青島幸男さんのことです。

 昭和56年/1981年、タレントで国会議員だった青島さんは、さらさらっと小説を書き、ほぼ難なく直木賞を受賞しました。あまりにも難がなさすぎる、人生うまく行きすぎだ、と羨ましがる人が続出したそうです。

 青島さんのことを気にくわない人は一定数いたかと思います。ただ、作品の内容がなかなか文句がつけづらい。細腕ひとつで青島さんを育て上げた、かよわくもたくましいご婦人を主人公にしていたからです。

 青島ハナ。明治39年/1906年生まれ。干支は丙午。実家は東京・板橋で駄菓子屋を営む商い人でしたが、16歳のとき、日本橋堀留で手広く弁当を売って栄えていた「弁菊」の3代目、跡取り養子の青島次郎さんと出会います。

 それから二人は互いに惚れ合う仲に。しかし次郎さんの両親は、駄菓子屋の小娘を嫁にする気なんて毛頭ありません。二人の思いが成就する日はこないんじゃないかと、そのまま時は過ぎていきますが、好き合う感情がけっきょく勝って、ハナさん21歳で「弁菊」に嫁入り。譲治さん、幸男さんと二人の息子を生み落とし、昭和のはじめ、日本が戦争に突入していくワサワサした時代に、弁当屋の女将としてひたすらに働き、生き抜きます。

 ……といった感じのハナさんの半生を、幸男さんが小説化したのが『人間万事塞翁が丙午』です。だいたいハナさんが結婚する頃から、夫の次郎さんが昭和37年/1962年、59歳で亡くなるまでのことが、ほぼ現実にあった事象に沿って描かれます。

 幸男さんの最初の構想では、おふくろの生きているうちに、好きだったおやじのことを書き残しておきたい、と父・次郎さんの物語だったはずですが、書き始めてみると、とにかく母・ハナさんが血を通わせて躍動し、あっちへ行ったりこっちへ来たり、苦労のし通しなのにまるでへこたれない人物として前面に出てきてしまったそうです。〈親もの〉小説というより、完全な〈母親もの〉小説になりました。

 この小説を書きはじめたとき、幸男さんははっきりと直木賞をとろうと意識していた、と言われています。直木賞の候補にあがった中山千夏さんの活躍に刺激され、井上ひさしさんにお願いして創作のレクチャーも受けたそうです。

 ただ、そのとき、どうしてテーマを〈親〉のことにしたのか。やはりその題材選びが受賞への大きなカギとなったのは否定できません。これなら、テレビや報道で自分にまとわりついた毒っ気も薄らぐにちがいない。と、幸男さんが自覚していたのかどうかは知りませんけど、おのずと〈親〉の小説に手をつけたところが、幸男さんの才の一つだ、と言っておきたいと思います。

 さて、『人間万事~』は首尾よく直木賞を受賞しました。授賞式は昭和56年/1981年8月です。小説のモデルとなったハナさん、75歳。かくしゃくとして元気に生きていました。

「受賞のあと、お袋が主人公というのでテレビ局が取材にきた。本人はテレビに出るのが好きだったので、気軽にインタービューに答えていた。

(引用者中略)

本当か嘘か、いつもチャランポランみたいなことばかり言ってるが、直木賞の意味は判っていたらしく、一番喜んでくれたのもお袋だったに違いない。

受賞式の日には、会場に一緒に行き、異例のことらしいが、「これが小説の主人公のモデルで私の母親のハナです」と紹介すると、神妙な顔つきで、うれしそうに礼をのべていた。」(『小説新潮』昭和59年/1984年6月号、青島幸男「丙午の母のその後」より)

 まあ異例でしょう。受賞作の主人公のモデルが、受賞式にやってきて頭を下げる。これで幸男さんに沁みついていた毒のイメージも……ってクドいですね。すみません。

 ただ、直木賞は長ながとやっていますが、これほど美しくハマッた母親は、賞の歴史のなかでもまず見かけません。青島ハナ、直木賞のゴッドマザー。とそんな称号を与えてもいいと思います。

 幸男さんの直木賞フィーバーから約3年。昭和59年/1984年3月26日没。

 生前、『人間万事~』は舞台化・ドラマ化され、ハナさん役は朝丘雪路さん、桃井かおりさんがそれぞれ務めました。こんなきれいな人がハナさん役でよかったですね、と長男の嫁に言われたハナさんは、「冗談じゃないよ、あたしの若い時はもっといい女だったよ」と憎まれ口で返したんだとか。

 さすがゴッドマザー。黙って神妙にしているタマではなかったようです。

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2023年11月19日 (日)

佐々井進・恵子(会社員とその妻)。忙しい息子の代わりに、町民栄誉賞の授与式に出席、コメントを残す。

 直木賞を受賞すると、その親が新聞記者の取材を受けて喜びを語る。語らせられる。……先週は第126回(平成13年/2001年・下半期)の唯川恵さんのことを取り上げました。今週もひきつづいて、そんなハナシです。

 受賞者の親、とくに東京ではない地方に在住している親に、新聞記者がインタビューをとりにいって、お祝いムードの記事がつくられるというのは、だいたい平成以降に根づいた日本の文化です。悪しき文化とも言えますし、まあいいじゃないか、と思えなくもありません。受け取り方は人それぞれです。

 昔うちのブログでも、地元の異常な盛り上がりに違和感を表明した受賞者のことを書きました。奥田英朗さんです。

 奥田さんが受賞したのが第131回(平成16年/2004年・上半期)のとき。受賞後には、岐阜県各務原市に住んでいる奥田さんの両親のコメントが、地方紙や全国紙の地方版で紹介されました。それらの記事によると、奥田さんは受賞直後に、母親の春子さんのところに電話をかけて、「とったよ。でも、騒がんでいいから」と言ったそうですが、両親が騒がなくても、地元メディアや出身校の人たちなどが、やたらめったら騒ぎまくり、奥田さんは相当困ったそうです。

 以来、岐阜県出身者、ということで直木賞をとった人は3人います。池井戸潤さん、朝井リョウさん、米澤穂信さんです。

 いずれの場合も、奥田さんのときと同様、地方のメディアは浮き足立ちました。当然のように実家や出身校などをズカズカと取材し、めでたいめでたい、と多くの紙面を割いています。

 そのうち今回触れるのは朝井リョウさんの両親です。

 第148回(平成24年/2012年・下半期)直木賞の受賞が決まったのは平成25年/2013年1月で、このとき朝井さんは23歳。ということは、両親だって若かったわけで、父の佐々井進さんは59歳、母の恵子さんは51歳でした。

 朝井さんと同時に受賞した安部龍太郎さんが57歳でしたから、親と子の世代が同時にとったのが、第148回直木賞の特徴だった、と言うこともできます(できるのか?)。

 進さんはサラリーマンで、恵子さんは主婦でありパートに働きに出る、というご家庭だったそうですが、両親ともに無類の読書好き。朝日新聞EduAに載っている記事には、朝井さんの本名の名前は、司馬遼太郎さんから一文字とった、とか、家じゅういたるところに宮部みゆきさん、東野圭吾さんの小説が置いてあったとか、書かれています。いいじゃんいいじゃん、佐々井家全体がもう、直木賞ワールドだったんですね。

 と、それはともかく、朝井さんの受賞報道と、そこに登場する両親の姿を見ていると、若くして直木賞をとると、あまりこれまで見かけないような「直木賞と親」の関係を見せてくれて、そこがまた新鮮です。

 たとえば、朝井さんの地元、岐阜県垂井町ではそれまでそんな制度がなかったのに、直木賞の三文字に歓喜が突き抜けて、3月には町議会で町民栄誉賞の条例案を制定。4月から施行し、5月の審議会で朝井さんへの授与を決定します。本人は東京にいるので手渡すチャンスがなかなかなく、けっきょく翌年、平成26年/2014年1月7日の授与式には代理で、進さん、恵子さんが出席して、朝井さんに代わって、大変光栄なことだとコメントを残しています。

 直木賞の贈呈式にしてもそうです。

 受賞者の親が招待されるのは当たり前。これまでも、その親たちが贈呈式に出席して、さまざまな言葉を残してメディアに記録されたかと思います。

 朝井さんの場合、両親とそれから、朝井さんが幼少期からものを書くきっかけになったという姉、3人が出席。地元『岐阜新聞』がここぞとローカル愛を炸裂させて、こんな記事を載せました。

「 芥川賞・直木賞の贈呈式には、朝井リョウさんの父(引用者中略)と母(引用者中略)、姉(引用者中略)も出席。恵子さんは「どきどきしたが、スピーチもあの子らしくまとめてくれた」と笑顔で話した。

贈呈式に続く懇親パーティーの会場には、東京会館名物のローストビーフのコーナーに養老ミート(養老郡養老町)から仕入れたA5等級の飛騨牛が用意されたほか、フルーツのコーナーに岐阜県から贈られたイチゴ「美濃娘」が並べられ、朝井さんの受賞に花を添えるとともに岐阜県のPRにもひと役買っていた。」(『岐阜新聞』平成25年/2013年2月23日「朝井リョウさんに直木賞贈呈」より)

 後半の段落は、もうもはや直木賞とは遠く離れた話題のような気もします。ただ、この「何の関係があるんだ!?」感が混じるのも、直木賞の魅力なんだと思います。

 ともかく、直木賞にとっての「親」は、いまとなっては「地元・地域活性」と結びついた存在になっているのはたしかでしょう。もちろん岐阜以外の地域も、負けじとばかり、地元紙は出身作家が受賞すると、充実した紙面を後世に残してくれるのですが、それはまた追い追い振り返ってみたいと思います。

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2023年11月12日 (日)

坂本一夫・昌子(銀行員とその妻)。父の勤めた銀行に入り、母のペンネームを継いだ娘。

 平成が始まったのは平成1年/1989年。いまから24年→34年まえのことです。最近といえば最近です。

 平成1年/1989年、直木賞は第100回(昭和63年/1988年・下半期)を迎えました。そしてもうじき決まるのが第170回(令和5年/2023年・下半期)ですから、あと15年ほど経てば200回。要するに、昭和の時代の直木賞期間を、その後の平成以降が追い抜きます。意外に平成以降も長い歴史があるんだな、とついジジイ臭い感想を持っちゃうんですけど、じっさい、最近だ最近だ、とバカにしている場合じゃありません。

 いや、バカにしているわけじゃないんですが、平成期の直木賞のことは、うちのブログでも取り上げづらくて、あまり多く触れられていません。そんな偏向直木賞オタクに一槌を食らわす画期的な本が、最近出ました。

 本といってもデジタル書籍です。『平成の芥川賞・直木賞』(令和5年/2023年9月・読売新聞東京本社/読売新聞アーカイブ選書)といいます。Amazonのkindleストアとかで買えます。全部で3巻です。

 『読売新聞』に載った直木賞(ともうひとつの賞)の報道記事を、ただ機械的にずらずら並べただけのもの。……といえばそれまでなんですけど、いや、これにはマジで感動しました。受賞者のインタビュー、選考経過の振り返り、といったお決まりの記事の他に、候補者(けっきょくとれなかった人)のインタビューとか、受賞者の地元の人たちの声とか、この賞に関わる多種多様な記事がぎっしり詰まっているからです。

 全巻の「はじめに」を書いているのが、同社編集委員の村田雅幸さん。このデジタル書籍を編集した人です。村田さんといえば、うちのブログで何度か触れてきたように、文芸記者きっての直木賞大好きっ子(たぶん)なだけであって、直木賞の面白さは「受賞」だけではない、その他まわりのざわざわした騒ぎをひっくるめて直木賞は出来ているのだ、と熟知しています。直木賞ファンなら、この三冊は、絶対に買いでしょう。

 と、だらだらした宣伝はこれぐらいにして、ブログのテーマに戻ります。直木賞にまつわる「親」のことです。

 新聞報道の定番として、受賞したアノ人のご両親が喜びを語る、みたいな取材記事があります。

 個人情報スレスレの(というか、イヤな人はたぶん絶対イヤがるはずの)、両親が写真入りで作家である子供のことを語る記事。こういうのを「おめでたい」として世間に出してしまうところが、直木賞のおそろしさです。いや、楽しさです。

 『平成の芥川賞・直木賞』Vol.2の「綿矢、金原……若き作家たちの台頭 報道記録 平成11年~20年」に、こんな記事が出ていました。「直木賞に唯川さん 快挙喜ぶ父と兄 金沢の実家「焦らずに」とエール」。平成14年/2002年1月17日、『読売』朝刊石川県版に掲載されたもの、とのことです。

 唯川さんの父親、坂本一夫さんはこのとき86歳。といいますから大正5年/1916年前後の生まれです。母親の昌子さんは82歳で、同じくだいたい大正9年/1920年前後に生まれ、唯川さんが受賞したときは病院に入院中でした。

 一夫さんの言葉が、紙面に残っています。

「「大きな賞をいただき、責任は重い。大変だろうが、焦らず、皆の信頼にこたえる作品を書いてほしい」と興奮気味。」(『平成の芥川賞・直木賞』Vol.2より)

 父親としては百点満点のようなコメントです。まじめで質実、堅い人柄が(おそらく)よく出た記事かと思います。

 『読売』以外のメディアにも、一夫さんはいくつか紹介されていました。昭和30年/1955年に加州銀行(のちの北国銀行)に入行。この年、娘の恵さん(といっても、これはペンネームですが)が生まれます。一夫さんは家族のために、こつこつと真面目に働いて、最後は松任支店長を務めて昭和45年/1970年に定年退職。すくすくのびやかに育った恵さんも、短大卒業後に、かつて父がいた北国銀行に入って、うーん、私のいるところはここじゃない気がすると、もやもやしたOL生活を経験することになるんですが、性格や体形は、基本的に父親似だというのが、恵さん自身の感想です。

 いっぽう母親の昌子さんですが、結果、こちらのほうが恵さんの作家人生に大きな痕跡を残しました。銀行勤めでウツウツとしていた恵さんは、一念発起で小説を書いてコバルト・ノベル大賞に応募します。このとき、本名じゃなく何かペンネームを付けたいと思い、ふと思いついたのが母親のことでした。

「大正ひとけた生まれの母は、若いころはなかなかハイカラだったらしく、洋画座に通いつめていたという。その映画館では小雑誌を発行していて、母は観た映画の感想などをペンネームで投稿していた。その時使っていたのが「行川奎」である。さすがに母のペンネームをそのまま使うのは抵抗があった。そこで、「ゆいかわ けい」という読み方を変えずに、漢字を変えて使わせてもらうことにした。」(『信濃毎日新聞』平成16年/2004年10月3日 唯川恵「風の音に 母親譲り 看病して初めて気づく」より)

 おお、何とシャレた名前の付け方だ。まじめとシャレっ気の融合体、それが唯川恵の特徴ですけど、それはやはり父と母から来る、両親ゆずりということになるんでしょう。

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2023年11月 5日 (日)

宮内勝典(作家)。作家になったあとも一つの場所に腰を据えられず、異国で息子を育てることに。

 先日、どえらいニュースが飛び込んできました。何と、あの誰もが憧れるビッグな文化賞「南日本文化賞」を、作家の宮内勝典さんが受賞したのです!

 ……ん? 何だよその賞。とセルフツッコミしたくなるのをぐっとこらえて、先を続けます。

 宮内さんといえば、正真正銘、直木賞で候補になった人の父親です。そりゃあ、うちのブログでも取り上げないわけにはいきません。

 宮内勝典。昭和19年/1944年10月4日生まれ。生誕の場所は満洲ハルビンですが、生後まもなく鹿児島県の指宿市に移住。そこですくすくと成長し、昭和38年/1963年に高校を卒業します。

 60年代の若者といえば、反逆・反抗にかぶれた人たちです。いや、別にその時代に限らず、若い人たちはいつだって反逆・反抗にかぶれるものかもしれませんけど、勝典さんもこんな場所にいられるかいと、さっさとふるさとを離れて、ヒッチハイクしながら網走や神戸で働いて人生の旅人に。22歳のときに、いよいよ自由と混乱の渦まくアメリカに渡ります。

 初めはロサンゼルスで庭師の職にありつきますが、もとから文学や芸術の分野にぞっこんだった勝典さんは、アートの本場ニューヨークに引っ越します。しかし、ふらふらと旅をするのが勝典さんの性分です。アメリカ一国では飽き足らずに、その後は世界中を放浪しました。

 文学に関していいますと、本という本、勝典さんはあらゆるものを読んでいましたが、最も影響を受けた作家が島尾敏雄さんです。ああ、おれも小説を書くなら島尾さんに読んでほしい。その思いで書き上げた「行者シン」を、昭和49年/1974年度の文藝賞に応募したのは、選考委員に島尾さんの名前があったからです。

 この作品は運よく最終選考まで残って、島尾さんに読んでもらうという夢はかなうことになりますが、同じく委員だった江藤淳さんに激しい酷評を浴びて悄然。しばらく何も書く気にならなかったそうです。

 それから5年。もう一度と、やる気を起こして創作に取り組みます。そうして出来上がった「南風」が、今度は何とか最終選考でも評価されて、昭和54年/1979年度、第16回文藝賞を受賞。勝典さん、35歳のときでした。この年、生まれたのが一人息子の悠介さんです。

 それで作家として腰を落ち着けるかと思いきや、やはり一か所にとどまれない放浪癖がむくむくと首をもたげた……のかどうなのか、そのときの心境は勝典さんにしかわかりません。このまま作家としてやっていくことに違和感を覚え、受賞から2年後には、ええい、もう日本の文壇ジャーナリズムから忘れられてもいいやと、再びアメリカに移り住みます。バークレー、そしてニューヨーク。

 悠介さんが子供時代を過ごしたのも、そのニューヨークです。勝典さんに学校の送り迎えをしてもらい、(おそらく)ヤンチャなガキんちょ時代を送ったんだと思いますが、その子供の教育機関、友達づきあいなどから、勝典さんもなにがしかの感慨を覚えた、とのちのちエッセイに書いています。

「ぼくも異国で子育てをしたことがある。まず心配したのは日本人である息子を、NYの学校が受け入れてくれるかどうかだった。だが、おそるおそる願書を提出すると無条件にイエスだった。

(引用者中略)

そこはグリニッジ・ヴィレッジの公立小学校で、世界中のありとあらゆる人種の子供たちが集う空間だった。息子も楽しそうで、ユダヤ系や黒人の友達をよく家に連れてきた。

アメリカには、人種差別も確かに存在する。頭にくることも山ほどある。だが子供の教育に関してだけは、自由・平等の原則を徹底的につらぬいている。息子の母校となった小学校、中学校を通して、ぼくは多民族国家の懐の深さを知った。」(平成13年/2001年2月・岩波書店刊、宮内勝典・著『海亀通信』所収「混血の海辺で」より)

 なるほど、悠介さんが大人になってぞくぞく生み出す、複合的で多民族な小説群は、ニューヨークで育ったことと無縁ではないんだろうな。直木賞の候補者をつくってくれたニューヨークの学校、ありがとう。

 いや、というよりも、そもそも幼い息子と妻をひきずり回し、その後も世界中を放浪した勝典さん、ありがとう、と言うべきかもしれません。

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