青島ハナ(弁当屋女将)。自分がモデルになった息子の小説が直木賞をとって、授賞式に出席。
自分の親のことを題材にしてものを書く。……おそらくこれまで、いろんな人が親についての小説を発表してきました。
そのなかで直木賞の候補になったものもあります。さらには受賞しちゃったものまであります。「直木賞と親のこと」と言ったら、やはりそれらを取り上げないわけにはいきません。
今週は、〈親もの〉小説で受賞した代表といっていいこの人、青島幸男さんのことです。
昭和56年/1981年、タレントで国会議員だった青島さんは、さらさらっと小説を書き、ほぼ難なく直木賞を受賞しました。あまりにも難がなさすぎる、人生うまく行きすぎだ、と羨ましがる人が続出したそうです。
青島さんのことを気にくわない人は一定数いたかと思います。ただ、作品の内容がなかなか文句がつけづらい。細腕ひとつで青島さんを育て上げた、かよわくもたくましいご婦人を主人公にしていたからです。
青島ハナ。明治39年/1906年生まれ。干支は丙午。実家は東京・板橋で駄菓子屋を営む商い人でしたが、16歳のとき、日本橋堀留で手広く弁当を売って栄えていた「弁菊」の3代目、跡取り養子の青島次郎さんと出会います。
それから二人は互いに惚れ合う仲に。しかし次郎さんの両親は、駄菓子屋の小娘を嫁にする気なんて毛頭ありません。二人の思いが成就する日はこないんじゃないかと、そのまま時は過ぎていきますが、好き合う感情がけっきょく勝って、ハナさん21歳で「弁菊」に嫁入り。譲治さん、幸男さんと二人の息子を生み落とし、昭和のはじめ、日本が戦争に突入していくワサワサした時代に、弁当屋の女将としてひたすらに働き、生き抜きます。
……といった感じのハナさんの半生を、幸男さんが小説化したのが『人間万事塞翁が丙午』です。だいたいハナさんが結婚する頃から、夫の次郎さんが昭和37年/1962年、59歳で亡くなるまでのことが、ほぼ現実にあった事象に沿って描かれます。
幸男さんの最初の構想では、おふくろの生きているうちに、好きだったおやじのことを書き残しておきたい、と父・次郎さんの物語だったはずですが、書き始めてみると、とにかく母・ハナさんが血を通わせて躍動し、あっちへ行ったりこっちへ来たり、苦労のし通しなのにまるでへこたれない人物として前面に出てきてしまったそうです。〈親もの〉小説というより、完全な〈母親もの〉小説になりました。
この小説を書きはじめたとき、幸男さんははっきりと直木賞をとろうと意識していた、と言われています。直木賞の候補にあがった中山千夏さんの活躍に刺激され、井上ひさしさんにお願いして創作のレクチャーも受けたそうです。
ただ、そのとき、どうしてテーマを〈親〉のことにしたのか。やはりその題材選びが受賞への大きなカギとなったのは否定できません。これなら、テレビや報道で自分にまとわりついた毒っ気も薄らぐにちがいない。と、幸男さんが自覚していたのかどうかは知りませんけど、おのずと〈親〉の小説に手をつけたところが、幸男さんの才の一つだ、と言っておきたいと思います。
さて、『人間万事~』は首尾よく直木賞を受賞しました。授賞式は昭和56年/1981年8月です。小説のモデルとなったハナさん、75歳。かくしゃくとして元気に生きていました。
「受賞のあと、お袋が主人公というのでテレビ局が取材にきた。本人はテレビに出るのが好きだったので、気軽にインタービューに答えていた。
(引用者中略)
本当か嘘か、いつもチャランポランみたいなことばかり言ってるが、直木賞の意味は判っていたらしく、一番喜んでくれたのもお袋だったに違いない。
受賞式の日には、会場に一緒に行き、異例のことらしいが、「これが小説の主人公のモデルで私の母親のハナです」と紹介すると、神妙な顔つきで、うれしそうに礼をのべていた。」(『小説新潮』昭和59年/1984年6月号、青島幸男「丙午の母のその後」より)
まあ異例でしょう。受賞作の主人公のモデルが、受賞式にやってきて頭を下げる。これで幸男さんに沁みついていた毒のイメージも……ってクドいですね。すみません。
ただ、直木賞は長ながとやっていますが、これほど美しくハマッた母親は、賞の歴史のなかでもまず見かけません。青島ハナ、直木賞のゴッドマザー。とそんな称号を与えてもいいと思います。
幸男さんの直木賞フィーバーから約3年。昭和59年/1984年3月26日没。
生前、『人間万事~』は舞台化・ドラマ化され、ハナさん役は朝丘雪路さん、桃井かおりさんがそれぞれ務めました。こんなきれいな人がハナさん役でよかったですね、と長男の嫁に言われたハナさんは、「冗談じゃないよ、あたしの若い時はもっといい女だったよ」と憎まれ口で返したんだとか。
さすがゴッドマザー。黙って神妙にしているタマではなかったようです。
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