落合春恵(会社員)。小説を書く娘のかたわらで、神経症で部屋にこもりぱなしだった母。
心が疲れたとき、いろいろイヤになっちゃったとき。ふと手にとりたくなるのが、落合恵子さんの本です。
ワタクシは、生活のほとんどが直木賞のことを知りたい、っていう(クソみたいな)望みで回っています。落合さんの本を進んで読む機会はまずないんですけど、直木賞を知りたくて、落ちた候補者のことまで調べるようになると、当然、落合さんの本も手にすることになります。読むうちに、いつのまにやら直木賞のことも忘れて落合さんの文章に惹きつけられている。しみじみ心に浸ります。
こういう物書きに賞をあげられなかったんだから、直木賞もイバッちゃいけないよな、と思うんですが、ともかく落合さんのことも何度か、うちのブログでは触れてきました。
第88回(昭和57年/1982年・下半期)に『結婚以上』で候補になってから、第91回、第92回、第94回、第96回まで5度も、とるかとらぬかの騒ぎに巻き込まれます。もう40年ぐらいまえのおハナシです。
落合さんはその前から、文化放送のアナウンサーとして「レモンちゃん」などという愛称をイヤイヤ付けられ、かなりの人気を博していました。人気者には芸能記者がはりついて、プライバシーから何から人権無視で暴こうとします。
そういったなかから、レモンちゃんの家族を調べていくと、父親のいない母子家庭。これは掘っていけば、ゴシップ好きの読者が食いつくネタになりそうだぞ、ウッシッシ。と、よだれを垂らした芸能記者がいたせいで、『週刊平凡』昭和47年/1972年3月23日号ではそのあたりのことが公にさらされました。落合さん、27歳のときです。
父親はともかく、落合さんにとっての親といえば、もう母親をおいて何も語れません。あなたの人生はあなたのものだ、どうするかは自分で決めなさい、と娘に言い聞かせ、晩年は認知症になって一人娘に介護されながら死を迎えます……。落合さんの書くものにしばしば描かれ、もはや読み手にとっても他人とは思えない落合さんのお母さん。芸能記者ほど、いじきたなく詮索はできませんけど、とりあえず直木賞にとっても重要な候補者を生み出した、その母親のことは触れておかずにはいかれません。
落合春恵。大正12年/1923年3月25日生まれ、平成29年/2007年8月没。下に三人の妹、静恵、智恵、照恵がいます。父親が30代で亡くなってから、母親のツネさんの手で育てられますが、なにしろ四人きょうだいの一番上の子です。自分のしたいことはぐっとこらえながら、母を助け、妹たちを世話する生活を長く送ります。
戦争中、20歳前後のころに、地元宇都宮の実業家、矢野登さんと恋をします。向こうはおおよそ20歳ぐらい年上で、妻子もちです。それでも矢野さんに惚れ込んで関係を結び、昭和20年/1945年1月にひとりの女児を生み落とします。落合恵子さんです。
以来、二人の母子の思い出は、二人の頭のなかにしかない。と言いたいところですが、落合さんは何くれとその思い出を小説のタネにし、またエッセイに書き残してくれています。
それによると、幼いころには宇都宮で過ごしたあと、落合さんが小学校に上がるまえには東京の中野区に転居。春恵さんは神田の会社に経理の仕事を見つけます。昼間は出勤してクタクタになって帰ってきたあと、夜には休む間もなく、ビル清掃の仕事に出かけおカネを稼ぐ日々です。
この母親の稼ぎのおかげで、落合さんは小・中・高・大と進み、就職試験では受けた出版社はことごとく落ち、とりあえずダメ元で受けておいた文化放送のアナウンサー試験に合格するという、とんでもない幸運を引き当てます。社会に出て、自分で生活がまかなえるようになったあとも、母親とともに暮らして、お互いの人生を歩きつづけます。
娘の落合さんは、深夜放送のパーソナリティとして望外の注目を集め、やりたくないこと、いやなことに立ち向かいながら悪戦苦闘しましたが、母の春恵さんも穏やかだったわけではありません。もとから神経症が高じて、入院したり薬を飲んだりしていたところ、それが悪いときにはすべてのものが汚く感じて、何も触れなくなる症状がやってきます。生きているのも大変です。
昭和48年/1973年に落合さんの『スプーン一杯の幸せ』(祥伝社/ノン・ブックス)がベストセラーになり、昭和49年/1974年に文化放送を退職、昭和51年/1976年にクレヨンハウスをオープン、そして昭和57年/1982年に最初の直木賞候補、と落合さんには直木賞が近づいてきます。それからしばらく、エッセイスト、小説家の仕事も多く舞い込んできて、またぞろ落合さんには「直木賞、いつとれるの? また落ちたの?」というゴシップ記事の餌食になるわけですが、ちょうどその頃は、春恵さんも神経症がひどい時期だった、と落合さんは振り返ります。
「母は当時、自分の部屋にこもりきりだった。病院では神経症といわれたが、俗に「不潔恐怖症」と呼ばれていたものだったと思う。何にも触れることができなかった。
(引用者中略)
着替えもしたがらないから、そばにいくと饐えたような匂いがした。強引に入浴させようとすると、浴室に行くまでの何本かの柱にしがみつき、母は悲鳴をあげた。「つかまった柱は汚くないの?」。意地の悪い言葉がわたしの口からついてでるのも、そんな時だった。
(引用者中略)
母を心から愛しながら、手の打ちようもない日々の中で、わたしは血縁ではなく、「結縁」の家族について書いていたのだ。母が自分の部屋にこもったように、わたしもまた書くという行為の中に、当時のわたし自身のシェルターを見つけていたのだと思う。」(平成26年/2014年3月・東京新聞刊、落合恵子・著『「わたし」は「わたし」になっていく』所収「母の匂い」より)
と書いているのは、落合さんが『偶然の家族』(平成2年/1990年3月・中央公論社刊)を連載し、単行本化された頃を回想したもので、直木賞候補になったときよりちょっとあとです。ただ、幅広い仕事をしてきた落合さんのなかでも、小説を書くことが「シェルター」の役割だった、というのは、なるほどそういうものかと思わされました。
そこで直木賞が手を差し伸べられなかったのは、残念でなりません。もし落合さんが直木賞をとったときに、直木賞なんて汚い、と春恵さんが目をそむけなかったかどうか、知りたかったです。
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