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2023年10月15日 (日)

田中喜代(団体事務員)。若くして夫に自殺され、子供の成長だけが生き甲斐になる。

 直木賞には選評があります。基本的には、候補作について感想・批評を述べているだけの、大して面白くもないものばかりですが、選考委員のなかには時おり変わったことを書く人もいます。

 たとえば、選評で候補者の親のことに言及しちゃう人とか。いまそんなことをやったら、エラいことになるのかどうか、まあ直木賞の選評なんて読んでいる人も少ないので、別に何も起こりはしないでしょう。それはともかく、以前はそんなことを書く委員もいました。柴田錬三郎さんです。

 いまから約50年ほどまえの第74回(昭和50年/1975年・下半期)直木賞。柴田さんは田中光二さんの『大いなる逃亡』を激推ししました。作品と作者を褒めちぎった最後に、わざわざ、妙な一文を付け加えています。「亡父の才能より秀れているような気もしている。」(『オール讀物』昭和51年/1976年4月号)……。

 こんな一文、ほんとに要るか? と思っちゃいます。だけど、こういうことを言わなきゃ気が済まないのが老人病。温かく見守ってあげたいです。

 それはともかく、田中さんです。デビューの頃から、あのイカれた自殺野郎、田中英光の息子がまさかのSF作家に! と各所で言われ、そりゃあ柴田さんも、せっかくだから英光さんにからめた選評を書きたくなるのもわかります。

 ということで、光二さんの父、英光さんはある種の有名人です。

 インタビューやらエッセイやら、光二さんが英光さんのことを語らされたり、自ら言及したりした文献は、おそらくけっこうあります。平成3年/1991年には『小説すばる』10月号に、亡き父親との会話を題材にした「オリンポスの黄昏」を一挙掲載、平成4年/1992年2月には「父・田中英光との「和解」」(初出『新潮45』平成4年/1992年2月号、原題「『破滅文士』の子が父をゆるすまで」)を併載した単行本を集英社から刊行して、息子たる作家が、父たる作家のことを語る貴重な記録を残してくれました。もはや、あらためて取り上げるまでもありません。

 無頼派文士の血が、子のSF作家にどう影響を及ぼしているか。それもまあ、たしかに興味が引かれるんですけど、ただ光二さんの親は英光さんだけじゃありません。ワタクシはやっぱり、もう一人の親のことのほうが気になります。光二さんの母親のことです。

 田中喜代。大正4年/1915年生まれ。旧姓は小島。昭和11年/1936年頃には、一家で朝鮮京城府に住んでいました。たまたま弟が入院していた先の病院に見舞いに行ったところ、異様にガタイのいい男が、喧嘩をしてケガしたということで入院していて、その男、田中英光さんと顔なじみになります。

 英光さんは思い詰めたらとことん突撃する性格だったらしく、昭和12年/1937年1月に、いきなり喜代さんの家にやってきて、おれと付き合おうぜ、と言い寄ったらしく、喜代さんもヨロヨロと押されるままに交際を了承。翌月には、早くも二人は結婚ということに相なります。

 昭和13年/1938年に長男、昭和16年/1941年に次男を生み、昭和17年/1942年に英光さんの会社の転勤で東京に引っ越してから、昭和18年/1943年に第三子となる長女、昭和21年/1946年には三男をもうけます。このうち、次男がのちに直木賞の候補に挙がった光二さんです。

 英光さんは、次々と喜代さんを孕ませるくせに、とくに戦後にはほとんど自宅で過ごすことはなく、愛人のところに身を寄せます。昭和24年/1949年11月3日に、さっさと自殺。光二さんが8歳のときのことでした。

 それに先立ち、光二さんは英光さんの兄、岩崎英恭さんの家に引き取られ、そこで少年時代を送ります。母の喜代さんは、英恭さんの口利きで、ある経済団体に職をあっせんしてもらい、昭和25年/1950年3月に掃除や雑役から始まって、事務員の仕事をせっせとやったと言われています。

 『婦人画報』昭和27年/1952年6月号の記事に、喜代さんの言葉が残っています。

「今は、ほんとうに、子供達と生活してゆくことだけでせい一杯でございます。子供たちの成長だけが、私の生甲斐でございます。」(昭和40年/1965年2月・芳賀書店刊『田中英光全集7』所収、田中喜代子「思い出」より)

 しばらく伯父の家で育てられた光二さんは、高校生のときに再び喜代さんのもとに戻って、一緒に暮らしはじめます。

 とにかく父親が家庭を置き去りにして自殺してしまったせいで、ずっと苦労させられっぱなしだった、というのが光二さんの英光評です。憎しみは強く、自分がものを書くようになっても、フィクション・つくりごとにこだわって、絶対におれは父親みたいな私小説は書かん、と心に誓いました。

 その反面、母親に対してはかなりの感謝、あるいは責任を感じるようになった、と光二さんは語っています。昭和55年/1980年、直木賞候補から5年ほど後の記事です。

「母親に対しては非常なオブリゲーションを感じてますよ。兄弟四人を女手ひとつで育てること自体、大変なことだと思うし。一度、胸をやられて倒れたこともあるしね。ごく普通の女ですが、母親としては非常にしっかりしていたと思いますね。日本の母親の典型みたいなものだね。」(昭和56年/1981年3月・奇想天外社刊『ぼくはエイリアン―田中光二のがらくたエッセイ―』所収「UFOとパラサイコロジーは現代の“踏み絵”だ」より―初出『月刊イン/アウト』プロトタイプ号[昭和55年/1980年1月])

 父・英光さんはもちろんのこと、母・喜代さんの存在も、やはり光二さんが作家になるには重要だったのだと思います。果たしてその親は、光二さんが直木賞候補になったことをどう感じたのか。くわしくわからないのが残念です。

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