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2023年10月22日 (日)

井出今朝平(酒造会社社長)。50歳をすぎて生まれた最後の子供が、のちのち出版社に勤めて物を書く。

 直木賞には「井出孫六問題」というものがあります。

 井出さんが受賞したのは第72回(昭和49年/1974年・下半期)、対象の作品は『アトラス伝説』です。冬樹社から刊行された作品集で、3つの作品が収録されています。「非英雄伝」「太陽の葬送――ある自叙伝の顛末」、それと表題作の「アトラス伝説」です。

 いまの直木賞でも、こういう作品集が候補になることは珍しくありません。ただ、そのなかの表題作だけが選考の対象になることはなく、ほとんどすべて本一冊まるごとが議論されます。

 と、そんなの当たり前じゃないか、とか思っていたんですけど、井出さんの場合、どうやら違っていて、表題作だけをもって受賞したらしいじゃないですか! 何なんだそれは。

 作品「アトラス伝説」は初出が『現代の眼』昭和45年/1970年7月号~9月号。作品集『アトラス伝説』は、昭和49年/1974年11月の冬樹社刊。どう考えても単行本のほうが対象期間に合っている、なのに受賞作は表題作だけだという、このいい加減さ。融通無碍、テキトー、文春社員の気分次第、まあいろいろと評し方はありますが、ルールがあるようでないのが、いかにも直木賞っぽいですよね、とは言えるでしょう。

 それはそれとして、井出さんといえば受賞したときに家族のことでも話題になった人です。兄は政治家の井出一太郎さん、実家は長野県の佐久近辺で〈橘倉酒造〉と名乗って銘酒「本菊泉」を醸造する名家でした。

 ちなみに井出さんの父親は、そのときすでに故人です。井出今朝平。明治13年/1880年10月13日生まれ、昭和38年/1963年10月8日没。

 今朝平さんの父親は井出勝太郎さんといいます。長野県南佐久郡臼田村に住む青年でしたが、今朝平さんが生まれて1年ちょっとで逝去。28歳の若さでした。

 残された妻(今朝平さんにとっての母)〈いね〉さんは、まもなく五六さんと再婚。家業を酒造業ひとつに絞って、こつこつ働きます。ところが明治34年/1901年に〈いね〉さんは42歳で他界。先に、家業経営の中心となっていた今朝平さんは同年、〈つぎ〉と結婚し、一女・秀子さんをもうけます。これが後年、多くの文章を書いた丸岡秀子さんです。

 〈つぎ〉さんが腸チフスで病没すると、今朝平さんは明治39年/1906年に〈をはな〉さんと再婚しますが、3年足らずで離婚し、明治42年/1909年に〈かつ〉さんと三度目の結婚。この新しい妻とのあいだに、一太郎、常子、寛次郎、武三郎、源四郎、五祐、芳子、光子、孫六……と、最初の秀子さんを入れれば10人の子供を持つことになります。最後の最後、孫六さんが生まれたのが昭和6年/1931年9月29日。まもなく今朝平さん、51歳になろうという頃でした。

 功成り名遂げ、地元では井出今朝平といえば、ハハーッと庶民たちが土下座するほどの、いや、ほんとに土下座したかどうかは知らないんですが、ともかく名士中の名士です。そんなオッサンからジイさんになっていく父親しか知らない孫六さんは、よくいえば距離感を保ちながら、悪くいえば深い父子の交流をかわすことなく、ぐんぐんと成長して大人になります。

 おれは老いた父親のイメージしかない。だけど、父にだってその前半生はさまざまな苦悩や挫折があったはずだ。と、孫ほど年の離れた末っ子・孫六さんは思いを馳せます。若いころの父親はいったいどんな人間だったのか。その関心を突き詰めていくうちに行き当たったのが、今朝平さんが大の読書家だったということです。

 孫六さんがじっさい知る晩年の頃でも、『世界』『中央公論』『文藝春秋』という社会的な総合誌を読むかたわらで、『オール讀物』『小説新潮』といった、ゆるい読み物雑誌も熱心に購読。高等小学校しか出ていない父親が、どうしてそんなに本の虫になったのか。さぐっていくうちに、今朝平さんが青年時代に、いわゆる博文館黄金時代の洗礼を浴びていたことがわかります。

 父の青春は、博文館が明治28年/1895年に創刊した『太陽』とその時代と密接に関連している! ということを孫六さんが文章にして発表したのは、まだ孫六さんが作家になろうなんて全然思っていなかった中央公論社の社員時代、昭和39年/1964年のことでした。

「僕は、いまここでは、さしあたって、定説に従い、おやじのなかに永遠の育くまれつづけた青年的なものが、いったいどのようにして形成されたのであるか、という興味にしばらくは浸ってもよいと思っている。あまり大風呂敷になることはつつしみたいが、一八八〇年一〇月一三日に生れ一九六三年一〇月八日の朝消えた、きわめて複雑にして多面的な一人の老人の精神の形成の背景を探る作業は、僕に課された仕事の一つだと思ってもいる。

この機会を利用して、明治の二十年代から三十年代にかけて、おやじさんが愛読して措かなかったと称し、多分愛読したにちがいないある一つの雑誌の誕生の経緯をとおして、いわゆるおやじさんの「青年的」なものの土壌の一隅をみておきたいと思うのだ。」(昭和39年/1964年10月・橘倉合名会社刊『凌霜』所収、井出孫六「近代日本の青春」より)

 ある一つの雑誌というのが『太陽』です。

 『凌霜』というのは、今朝平さんが亡くなったあとに子供たちがつくった遺稿&追悼集で、このときすでに孫六さんには、父の若い日=『太陽』という図式が芽生えていたことがわかります。

 その後、昭和40年/1965年には夏堀正元さんが計画した同人雑誌『層』が創刊。井出さんがそこに自ら加わった理由は、おそらくいろいろあるでしょうけど、父親を亡くしたことの心の変化、影響がなかったとは断言できません。

 創刊号に寄せた「非英雄伝」がいきなり直木賞候補に挙がって注目されたあと、第3号(昭和41年/1966年10月)に発表したのが、「『太陽』の葬送――ある自叙伝の顛末」なる一篇です。先に挙げた『凌霜』の「近代日本の青春」を再構築したような内容で、『アトラス伝説』の一冊が編まれるときに収録作のひとつになりました。

 結局これは、直木賞の選考の場では参考程度に読まれたにとどまったようです。が、じいさんのような父を持ち、その父が亡くなったところから、井出さんのお得意の、伝記をまじえた小説の創作が始まったことは間違いなく、そういう意味でも直木賞と井出さんをつなげたのが父・今朝平だったのだ、と強弁しても許されるのかなと思います。

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