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2023年10月29日 (日)

有馬頼寧(伯爵)。やる気をなくして家に引きこもった戦後。いきなり息子が直木賞をとる。

 昨日(令和5年/2023年10月28日)、横浜・鶴見の西田書店に行きました。安いものから高価なものまで、よりどりみどり、目移りしすぎてあまり本は買えなかったんですけど、かろうじて拾ったのが『現代推理作家シリーズ4 有馬頼義』(昭和39年/1964年2月・宝石社刊)です。

 有馬さんが直木賞を受賞したのは、そこからさかのぼること10年ほど前、第31回(昭和29年/1954年上半期)のことでした。10年のあいだに有馬さんも、推理小説ブームのおかげで大きくなって、宝石社からこんな一冊を出してもらえるようになったんだあ、と嬉しくて思わず買ってしまったんですけど、そういえば、父親が「有名人」なことでは、有馬さんは外せません。

 有馬頼寧。明治17年/1884年12月17日生まれ、昭和32年/1957年1月9日没。一般的には競馬の「有馬記念」にその名前が残っていることのほうが大きいかも、ですが、文学賞史的には昭和14年/1939年、近衛内閣の農相だったときに資金を出してつくった「農民文学有馬賞」にその名前が残っていることが重要な人です。

 子供は7人います。長男・頼秋(明治36年/1903年生)、長女・静(明治38年/1905年生)、二男・頼春(明治40年/1907年生)、二女・澄(明治41年/1908年生)、三女・慶子(大正1年/1912年生)、四女・正子(大正4年/1915年生)、三男・頼義(大正7年/1918年生)。最後の最後、頼寧さんが33歳のときにできたのが、のちに作家になった頼義さんで、何人かきょうだいの末っ子という点では、先週とりあげた井出孫六さんと同じです。

 まあ、とにかく有馬家といえば戦前は伯爵で華族で、衆議院議員、参議院議員、ほかにおなかがいっぱいになるくらいの公職、虚職をたくさん任せられ、その家に生まれ育った頼義さんは、ええとこのボンボンぶりが他の作家に比べてもレベルが違います。生まれたお屋敷は東京・青山の大豪邸。そこから昭和のはじめに浅草橋場にあった元・大名の下屋敷に移ったあと、学習院の初等科に通っていた頃に荻窪の広大な家にお引っ越し。その広さざっと1万2000坪あったというのですから、もうこれは、口あんぐりです。

 ふん、そんな環境くそくらえだぜ、と甘やかされて育った頼義さんはお決まりの反抗熱に犯されて、文学なんちゅう妙なシロモノに夢中になって、そうとう親を困らせます。いいんだ、早くおれを勘当してくれ、と頼義さんはせまったそうですが、けっきょく何だかんだと頼寧さんのほうはバカ息子を見捨てることができず、その状態のまま、戦争、そして敗戦へとなだれ込みます。

 むかしブイブイ言わせていたおエラ方が敗戦を境に一気に凋落、犯罪者扱いされて落ちぶれる。まったくざまあみろだ、という展開は腐るほど文献に残されていますが、頼寧さんもその例にもれません。

 昭和20年/1945年12月、A級戦犯容疑者として巣鴨の収容所に送り込まれて、最終的に不起訴になって家に戻されます。しかし、頼寧さんは屍のようにやる気をなくしてしまい、かつての執事が住んでいた狭い家に移り住んで、庭で花を育てて時を過ごす日々を送ります。むかしまわりにいてチヤホヤしてくれた人たちは、誰も寄り付かなくなりました。頼寧さん、60歳すぎ。ああ、もはや人生これまでか。

 と、ここでどんでん返しというか、一発逆転のさらに逆転というか、もう一回、頼寧さんに光が当たるときが来てしまいます。昭和29年/1954年、息子の頼義さんが直木賞を受賞したからです。

 頼義さんはこう言っています。

「僕は今、僕自身の直木賞受賞が、父の死よりも先に来たことを、感謝しないわけにはゆかない。父は、僕が、直木賞をもらったことを、生きているうちに見たのだ。せめても、といわなければならない。馬鹿馬鹿しかったのは、かつて父や、僕を非難しつづけていた人たちが、よかった、よかった、と掌を返すように近付いて来たことであった。父の身辺が多忙になりはじめたのも、そのころであった。東京都知事、社会党党首、久留米市長というふうな地位が、老いた父のために用意されたが、父は首を振った。そして、一つだけ、河野一郎が持ってきた、中央競馬会理事長という仕事だけをひきうけた。」(昭和39年/1964年10月・秋田書店/サンデー新書『おやじ 血につながる世代論』所収、有馬頼義「貴族の退場」より)

 ということで、頼義さんが直木賞をとったことで、いろんな人がこの父子にすり寄ってきて、再び頼寧さんが就いたのが中央競馬会の理事長職。それが昭和31年/1956年の中山グランプリ開催へとつながり、頼寧さんが死んで有馬記念となるわけです。要するに、年末の競馬界の一大風物詩、有馬記念っつうのは、直木賞が生んだといっても過言ではないわけですね(って、ほんとかよ)。

 頼寧さん自身が、息子の直木賞をどう見ていたのか。頼寧さんは、あなたを育てたのは私ではない、家、組織があなたを育てたのだ、と言って、息子の世話になることを拒否したこともあるらしいので、息子は息子、私とは関係ないと端然としていたかもしれません。

 父も父なら、息子も息子。はたから文献を見るかぎりでは、どちらも食えない男たちだ、という印象を受けますが、この二人の生活に何らか直木賞が波を立てたのであれば、直木賞もやってきた甲斐があった、と言えるんじゃないでしょうか。

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