梶山勇一(土木技師)。作家になるぞという息子の夢を故郷からサポートする。
親のことをどう描くか。作家にとっては大事なテーマです。
……ほんとうに大事なのかどうか。もちろんワタクシは知らないんですけど、いちおうおそらく大事なんじゃないかのか、と想像してハナシを進めてみます。
自分がここにいるのはなぜなんだ。それは両親がいたからだ。というところから、親とのつながりのなかでテーマを煮詰めた作家も(たぶん)少なくはありません。直木賞とれなかった人気作家の代表格、梶山季之さんもそのひとりです。
第49回(昭和38年/1963年・上半期)の直木賞候補になった「李朝残影」からしてそうです。舞台は昭和10年代、日本人たちが我が物顔にズカズカと乗り込んでいった朝鮮の京城。とまあ、梶山さんが朝鮮について強い関心を寄せていたのは、自分が生まれ育った土地だったからで、親がどうとかは関係ない気もしますけど、ただ、梶山さんのお父さんがこの時期、朝鮮に赴任していなければ、まず出てこなかったテーマなのはたしかです。やっぱり梶山さんにとって大事なテーマは、親とつながっています。
お父さんは梶山勇一。明治33年/1900年頃、広島県佐伯郡地御前村生まれ。昭和48年/1973年12月27日没。
かなり頭のいい人だったらしく、早稲田大学理工学部を出て土木関係の専門技師として働きます。とくに水利工学に強く、日本政府が海外に侵略を始めた勢いに飲み込まれながら、台湾へ、そして朝鮮へと任地を転々。妻ノブヨさんとのあいだにもうけた二人目の子供が季之さんですが、季之さんが生まれた昭和5年/1930年当時は、朝鮮総督府で土木の役人としてバリバリ働いていた、と伝えられています。小川哲さんの『地図と拳』みたいな世界です(ってちょっと違うか)。
戦争中に外地で役人をやっていた人たちは数多くいますが、昭和20年/1945年に日本がボロ負けしたもんですから大変です。一気に急転、没落していくか、はたまた何も知らなかった顔して実業界でのし上がっていくか。と、いずれにしてもそんな劇的なことが勇一さんの身にも訪れたのかはよくわかりません。ともかく一家をあげて昭和20年/1945年のうちには広島に帰ってきて、それからは県内で公務員として土木関係の仕事をやり続けた、と言われています。
息子の季之さんが、親にも誰にも相談せず、家出のようなかたちで上京したのが昭和28年/1953年、23歳のときでした。その後、恋人の美那江さんが追いかけて上京、二人で所帯をもつにいたり、季之さんは鶴見工業高校の国語教師になったりするうちに、家族にも居所が知れるようになるのですが、なんだ季之、作家になるために上京したんじゃないのか、学校教師なんてやめちまえ、と勇一さんがほんとうに言ったのかどうなのか。ともかく季之さん夫妻と、季之さんの弟・貞夫さんの3人で稼げるような場所をもたせたいとの親ゴコロから、勇一さんは肌を脱ぎます。
季之さんたちが始めた喫茶店「阿佐ヶ谷茶廊」のオープンに手を貸し、おカネも気前よく出してあげます。ということなので、えらい財産家ではなかったでしょうが、まったくの貧乏人でもなかったようです。
その後、季之さんが原稿料で稼げるようになったとき、季之さんは両親のために東村山市に家を一軒用意して、広島から東京に呼び寄せた、などなど親孝行エピソードはわんさかあります。最終的に季之さんは、おれの書きたいのはこういうテーマなんだ、と「積乱雲」という作品に行き着きますが、これなども、父親が仕事して自分が生まれた朝鮮、母親が生まれたハワイ、両親のルーツでもある広島(を襲った原爆)といった目のつけどころからして、親孝行に通じる季之さんの両親に対する感情の表われだったでしょう。
近年、大下英治さんが出した『最後の無頼派作家 梶山季之』(令和4年/2022年11月・さくら舎刊)にも、父・勇一さんのことはいろいろと出てきます。ほんとは、季之さんが直木賞候補になって落ちたとき、かなり悔しがった息子の姿を見て勇一さんが何と言ったのか、みたいなことを紹介したいところですが、ちょっとそれはわからないので、代わりに勇一さんの人となりがわかるエピソードを、大下さんの本から取り出してみます。
朝鮮に勤務していたとき、勇一さんはまったく朝鮮人に対する差別感情がなかったそうです。まわりの日本人のなかには露骨にいばり腐った人もいたでしょうが、勇一さんはそんなこともなく、家にいたお手伝いの現地女性にも終始親切にしていました。
結果、日本が負けた、となったときにその効果が現われます。
「敗戦国である日本人が、戦争が終わると同時に、朝鮮人に復讐のため襲われるという噂があった。心に覚えのある日本人は、一様に脅えた。
(引用者中略)
が、梶山一家は、父親の人徳のおかげで、なにもされることはなかった。
梶山家の使用人であった朝鮮人も、梶山家だけは、自分たちに対するあつかいが他とちがって優しいことを肌身に染みて感じていたのであろう。」(『最後の無頼派作家 梶山季之』「第二章 引き揚げ者」より)
まあ、大下さんの本は、季之さんをはじめ梶山さんちの人たちを悪く書くことはまずないので、これをもって勇一さんを礼讃するわけにはいきません。
ただ、作家になった季之さんというと、ずいぶん情に厚い人だったと言われています。その成長の過程では当然、両親の生き方を見てきたでしょうから、父親・勇一さんの姿も、そんな「情」の作家を育てるにひと役買ったものと言っていいと思います。
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