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2023年10月の5件の記事

2023年10月29日 (日)

有馬頼寧(伯爵)。やる気をなくして家に引きこもった戦後。いきなり息子が直木賞をとる。

 昨日(令和5年/2023年10月28日)、横浜・鶴見の西田書店に行きました。安いものから高価なものまで、よりどりみどり、目移りしすぎてあまり本は買えなかったんですけど、かろうじて拾ったのが『現代推理作家シリーズ4 有馬頼義』(昭和39年/1964年2月・宝石社刊)です。

 有馬さんが直木賞を受賞したのは、そこからさかのぼること10年ほど前、第31回(昭和29年/1954年上半期)のことでした。10年のあいだに有馬さんも、推理小説ブームのおかげで大きくなって、宝石社からこんな一冊を出してもらえるようになったんだあ、と嬉しくて思わず買ってしまったんですけど、そういえば、父親が「有名人」なことでは、有馬さんは外せません。

 有馬頼寧。明治17年/1884年12月17日生まれ、昭和32年/1957年1月9日没。一般的には競馬の「有馬記念」にその名前が残っていることのほうが大きいかも、ですが、文学賞史的には昭和14年/1939年、近衛内閣の農相だったときに資金を出してつくった「農民文学有馬賞」にその名前が残っていることが重要な人です。

 子供は7人います。長男・頼秋(明治36年/1903年生)、長女・静(明治38年/1905年生)、二男・頼春(明治40年/1907年生)、二女・澄(明治41年/1908年生)、三女・慶子(大正1年/1912年生)、四女・正子(大正4年/1915年生)、三男・頼義(大正7年/1918年生)。最後の最後、頼寧さんが33歳のときにできたのが、のちに作家になった頼義さんで、何人かきょうだいの末っ子という点では、先週とりあげた井出孫六さんと同じです。

 まあ、とにかく有馬家といえば戦前は伯爵で華族で、衆議院議員、参議院議員、ほかにおなかがいっぱいになるくらいの公職、虚職をたくさん任せられ、その家に生まれ育った頼義さんは、ええとこのボンボンぶりが他の作家に比べてもレベルが違います。生まれたお屋敷は東京・青山の大豪邸。そこから昭和のはじめに浅草橋場にあった元・大名の下屋敷に移ったあと、学習院の初等科に通っていた頃に荻窪の広大な家にお引っ越し。その広さざっと1万2000坪あったというのですから、もうこれは、口あんぐりです。

 ふん、そんな環境くそくらえだぜ、と甘やかされて育った頼義さんはお決まりの反抗熱に犯されて、文学なんちゅう妙なシロモノに夢中になって、そうとう親を困らせます。いいんだ、早くおれを勘当してくれ、と頼義さんはせまったそうですが、けっきょく何だかんだと頼寧さんのほうはバカ息子を見捨てることができず、その状態のまま、戦争、そして敗戦へとなだれ込みます。

 むかしブイブイ言わせていたおエラ方が敗戦を境に一気に凋落、犯罪者扱いされて落ちぶれる。まったくざまあみろだ、という展開は腐るほど文献に残されていますが、頼寧さんもその例にもれません。

 昭和20年/1945年12月、A級戦犯容疑者として巣鴨の収容所に送り込まれて、最終的に不起訴になって家に戻されます。しかし、頼寧さんは屍のようにやる気をなくしてしまい、かつての執事が住んでいた狭い家に移り住んで、庭で花を育てて時を過ごす日々を送ります。むかしまわりにいてチヤホヤしてくれた人たちは、誰も寄り付かなくなりました。頼寧さん、60歳すぎ。ああ、もはや人生これまでか。

 と、ここでどんでん返しというか、一発逆転のさらに逆転というか、もう一回、頼寧さんに光が当たるときが来てしまいます。昭和29年/1954年、息子の頼義さんが直木賞を受賞したからです。

 頼義さんはこう言っています。

「僕は今、僕自身の直木賞受賞が、父の死よりも先に来たことを、感謝しないわけにはゆかない。父は、僕が、直木賞をもらったことを、生きているうちに見たのだ。せめても、といわなければならない。馬鹿馬鹿しかったのは、かつて父や、僕を非難しつづけていた人たちが、よかった、よかった、と掌を返すように近付いて来たことであった。父の身辺が多忙になりはじめたのも、そのころであった。東京都知事、社会党党首、久留米市長というふうな地位が、老いた父のために用意されたが、父は首を振った。そして、一つだけ、河野一郎が持ってきた、中央競馬会理事長という仕事だけをひきうけた。」(昭和39年/1964年10月・秋田書店/サンデー新書『おやじ 血につながる世代論』所収、有馬頼義「貴族の退場」より)

 ということで、頼義さんが直木賞をとったことで、いろんな人がこの父子にすり寄ってきて、再び頼寧さんが就いたのが中央競馬会の理事長職。それが昭和31年/1956年の中山グランプリ開催へとつながり、頼寧さんが死んで有馬記念となるわけです。要するに、年末の競馬界の一大風物詩、有馬記念っつうのは、直木賞が生んだといっても過言ではないわけですね(って、ほんとかよ)。

 頼寧さん自身が、息子の直木賞をどう見ていたのか。頼寧さんは、あなたを育てたのは私ではない、家、組織があなたを育てたのだ、と言って、息子の世話になることを拒否したこともあるらしいので、息子は息子、私とは関係ないと端然としていたかもしれません。

 父も父なら、息子も息子。はたから文献を見るかぎりでは、どちらも食えない男たちだ、という印象を受けますが、この二人の生活に何らか直木賞が波を立てたのであれば、直木賞もやってきた甲斐があった、と言えるんじゃないでしょうか。

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2023年10月22日 (日)

井出今朝平(酒造会社社長)。50歳をすぎて生まれた最後の子供が、のちのち出版社に勤めて物を書く。

 直木賞には「井出孫六問題」というものがあります。

 井出さんが受賞したのは第72回(昭和49年/1974年・下半期)、対象の作品は『アトラス伝説』です。冬樹社から刊行された作品集で、3つの作品が収録されています。「非英雄伝」「太陽の葬送――ある自叙伝の顛末」、それと表題作の「アトラス伝説」です。

 いまの直木賞でも、こういう作品集が候補になることは珍しくありません。ただ、そのなかの表題作だけが選考の対象になることはなく、ほとんどすべて本一冊まるごとが議論されます。

 と、そんなの当たり前じゃないか、とか思っていたんですけど、井出さんの場合、どうやら違っていて、表題作だけをもって受賞したらしいじゃないですか! 何なんだそれは。

 作品「アトラス伝説」は初出が『現代の眼』昭和45年/1970年7月号~9月号。作品集『アトラス伝説』は、昭和49年/1974年11月の冬樹社刊。どう考えても単行本のほうが対象期間に合っている、なのに受賞作は表題作だけだという、このいい加減さ。融通無碍、テキトー、文春社員の気分次第、まあいろいろと評し方はありますが、ルールがあるようでないのが、いかにも直木賞っぽいですよね、とは言えるでしょう。

 それはそれとして、井出さんといえば受賞したときに家族のことでも話題になった人です。兄は政治家の井出一太郎さん、実家は長野県の佐久近辺で〈橘倉酒造〉と名乗って銘酒「本菊泉」を醸造する名家でした。

 ちなみに井出さんの父親は、そのときすでに故人です。井出今朝平。明治13年/1880年10月13日生まれ、昭和38年/1963年10月8日没。

 今朝平さんの父親は井出勝太郎さんといいます。長野県南佐久郡臼田村に住む青年でしたが、今朝平さんが生まれて1年ちょっとで逝去。28歳の若さでした。

 残された妻(今朝平さんにとっての母)〈いね〉さんは、まもなく五六さんと再婚。家業を酒造業ひとつに絞って、こつこつ働きます。ところが明治34年/1901年に〈いね〉さんは42歳で他界。先に、家業経営の中心となっていた今朝平さんは同年、〈つぎ〉と結婚し、一女・秀子さんをもうけます。これが後年、多くの文章を書いた丸岡秀子さんです。

 〈つぎ〉さんが腸チフスで病没すると、今朝平さんは明治39年/1906年に〈をはな〉さんと再婚しますが、3年足らずで離婚し、明治42年/1909年に〈かつ〉さんと三度目の結婚。この新しい妻とのあいだに、一太郎、常子、寛次郎、武三郎、源四郎、五祐、芳子、光子、孫六……と、最初の秀子さんを入れれば10人の子供を持つことになります。最後の最後、孫六さんが生まれたのが昭和6年/1931年9月29日。まもなく今朝平さん、51歳になろうという頃でした。

 功成り名遂げ、地元では井出今朝平といえば、ハハーッと庶民たちが土下座するほどの、いや、ほんとに土下座したかどうかは知らないんですが、ともかく名士中の名士です。そんなオッサンからジイさんになっていく父親しか知らない孫六さんは、よくいえば距離感を保ちながら、悪くいえば深い父子の交流をかわすことなく、ぐんぐんと成長して大人になります。

 おれは老いた父親のイメージしかない。だけど、父にだってその前半生はさまざまな苦悩や挫折があったはずだ。と、孫ほど年の離れた末っ子・孫六さんは思いを馳せます。若いころの父親はいったいどんな人間だったのか。その関心を突き詰めていくうちに行き当たったのが、今朝平さんが大の読書家だったということです。

 孫六さんがじっさい知る晩年の頃でも、『世界』『中央公論』『文藝春秋』という社会的な総合誌を読むかたわらで、『オール讀物』『小説新潮』といった、ゆるい読み物雑誌も熱心に購読。高等小学校しか出ていない父親が、どうしてそんなに本の虫になったのか。さぐっていくうちに、今朝平さんが青年時代に、いわゆる博文館黄金時代の洗礼を浴びていたことがわかります。

 父の青春は、博文館が明治28年/1895年に創刊した『太陽』とその時代と密接に関連している! ということを孫六さんが文章にして発表したのは、まだ孫六さんが作家になろうなんて全然思っていなかった中央公論社の社員時代、昭和39年/1964年のことでした。

「僕は、いまここでは、さしあたって、定説に従い、おやじのなかに永遠の育くまれつづけた青年的なものが、いったいどのようにして形成されたのであるか、という興味にしばらくは浸ってもよいと思っている。あまり大風呂敷になることはつつしみたいが、一八八〇年一〇月一三日に生れ一九六三年一〇月八日の朝消えた、きわめて複雑にして多面的な一人の老人の精神の形成の背景を探る作業は、僕に課された仕事の一つだと思ってもいる。

この機会を利用して、明治の二十年代から三十年代にかけて、おやじさんが愛読して措かなかったと称し、多分愛読したにちがいないある一つの雑誌の誕生の経緯をとおして、いわゆるおやじさんの「青年的」なものの土壌の一隅をみておきたいと思うのだ。」(昭和39年/1964年10月・橘倉合名会社刊『凌霜』所収、井出孫六「近代日本の青春」より)

 ある一つの雑誌というのが『太陽』です。

 『凌霜』というのは、今朝平さんが亡くなったあとに子供たちがつくった遺稿&追悼集で、このときすでに孫六さんには、父の若い日=『太陽』という図式が芽生えていたことがわかります。

 その後、昭和40年/1965年には夏堀正元さんが計画した同人雑誌『層』が創刊。井出さんがそこに自ら加わった理由は、おそらくいろいろあるでしょうけど、父親を亡くしたことの心の変化、影響がなかったとは断言できません。

 創刊号に寄せた「非英雄伝」がいきなり直木賞候補に挙がって注目されたあと、第3号(昭和41年/1966年10月)に発表したのが、「『太陽』の葬送――ある自叙伝の顛末」なる一篇です。先に挙げた『凌霜』の「近代日本の青春」を再構築したような内容で、『アトラス伝説』の一冊が編まれるときに収録作のひとつになりました。

 結局これは、直木賞の選考の場では参考程度に読まれたにとどまったようです。が、じいさんのような父を持ち、その父が亡くなったところから、井出さんのお得意の、伝記をまじえた小説の創作が始まったことは間違いなく、そういう意味でも直木賞と井出さんをつなげたのが父・今朝平だったのだ、と強弁しても許されるのかなと思います。

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2023年10月15日 (日)

田中喜代(団体事務員)。若くして夫に自殺され、子供の成長だけが生き甲斐になる。

 直木賞には選評があります。基本的には、候補作について感想・批評を述べているだけの、大して面白くもないものばかりですが、選考委員のなかには時おり変わったことを書く人もいます。

 たとえば、選評で候補者の親のことに言及しちゃう人とか。いまそんなことをやったら、エラいことになるのかどうか、まあ直木賞の選評なんて読んでいる人も少ないので、別に何も起こりはしないでしょう。それはともかく、以前はそんなことを書く委員もいました。柴田錬三郎さんです。

 いまから約50年ほどまえの第74回(昭和50年/1975年・下半期)直木賞。柴田さんは田中光二さんの『大いなる逃亡』を激推ししました。作品と作者を褒めちぎった最後に、わざわざ、妙な一文を付け加えています。「亡父の才能より秀れているような気もしている。」(『オール讀物』昭和51年/1976年4月号)……。

 こんな一文、ほんとに要るか? と思っちゃいます。だけど、こういうことを言わなきゃ気が済まないのが老人病。温かく見守ってあげたいです。

 それはともかく、田中さんです。デビューの頃から、あのイカれた自殺野郎、田中英光の息子がまさかのSF作家に! と各所で言われ、そりゃあ柴田さんも、せっかくだから英光さんにからめた選評を書きたくなるのもわかります。

 ということで、光二さんの父、英光さんはある種の有名人です。

 インタビューやらエッセイやら、光二さんが英光さんのことを語らされたり、自ら言及したりした文献は、おそらくけっこうあります。平成3年/1991年には『小説すばる』10月号に、亡き父親との会話を題材にした「オリンポスの黄昏」を一挙掲載、平成4年/1992年2月には「父・田中英光との「和解」」(初出『新潮45』平成4年/1992年2月号、原題「『破滅文士』の子が父をゆるすまで」)を併載した単行本を集英社から刊行して、息子たる作家が、父たる作家のことを語る貴重な記録を残してくれました。もはや、あらためて取り上げるまでもありません。

 無頼派文士の血が、子のSF作家にどう影響を及ぼしているか。それもまあ、たしかに興味が引かれるんですけど、ただ光二さんの親は英光さんだけじゃありません。ワタクシはやっぱり、もう一人の親のことのほうが気になります。光二さんの母親のことです。

 田中喜代。大正4年/1915年生まれ。旧姓は小島。昭和11年/1936年頃には、一家で朝鮮京城府に住んでいました。たまたま弟が入院していた先の病院に見舞いに行ったところ、異様にガタイのいい男が、喧嘩をしてケガしたということで入院していて、その男、田中英光さんと顔なじみになります。

 英光さんは思い詰めたらとことん突撃する性格だったらしく、昭和12年/1937年1月に、いきなり喜代さんの家にやってきて、おれと付き合おうぜ、と言い寄ったらしく、喜代さんもヨロヨロと押されるままに交際を了承。翌月には、早くも二人は結婚ということに相なります。

 昭和13年/1938年に長男、昭和16年/1941年に次男を生み、昭和17年/1942年に英光さんの会社の転勤で東京に引っ越してから、昭和18年/1943年に第三子となる長女、昭和21年/1946年には三男をもうけます。このうち、次男がのちに直木賞の候補に挙がった光二さんです。

 英光さんは、次々と喜代さんを孕ませるくせに、とくに戦後にはほとんど自宅で過ごすことはなく、愛人のところに身を寄せます。昭和24年/1949年11月3日に、さっさと自殺。光二さんが8歳のときのことでした。

 それに先立ち、光二さんは英光さんの兄、岩崎英恭さんの家に引き取られ、そこで少年時代を送ります。母の喜代さんは、英恭さんの口利きで、ある経済団体に職をあっせんしてもらい、昭和25年/1950年3月に掃除や雑役から始まって、事務員の仕事をせっせとやったと言われています。

 『婦人画報』昭和27年/1952年6月号の記事に、喜代さんの言葉が残っています。

「今は、ほんとうに、子供達と生活してゆくことだけでせい一杯でございます。子供たちの成長だけが、私の生甲斐でございます。」(昭和40年/1965年2月・芳賀書店刊『田中英光全集7』所収、田中喜代子「思い出」より)

 しばらく伯父の家で育てられた光二さんは、高校生のときに再び喜代さんのもとに戻って、一緒に暮らしはじめます。

 とにかく父親が家庭を置き去りにして自殺してしまったせいで、ずっと苦労させられっぱなしだった、というのが光二さんの英光評です。憎しみは強く、自分がものを書くようになっても、フィクション・つくりごとにこだわって、絶対におれは父親みたいな私小説は書かん、と心に誓いました。

 その反面、母親に対してはかなりの感謝、あるいは責任を感じるようになった、と光二さんは語っています。昭和55年/1980年、直木賞候補から5年ほど後の記事です。

「母親に対しては非常なオブリゲーションを感じてますよ。兄弟四人を女手ひとつで育てること自体、大変なことだと思うし。一度、胸をやられて倒れたこともあるしね。ごく普通の女ですが、母親としては非常にしっかりしていたと思いますね。日本の母親の典型みたいなものだね。」(昭和56年/1981年3月・奇想天外社刊『ぼくはエイリアン―田中光二のがらくたエッセイ―』所収「UFOとパラサイコロジーは現代の“踏み絵”だ」より―初出『月刊イン/アウト』プロトタイプ号[昭和55年/1980年1月])

 父・英光さんはもちろんのこと、母・喜代さんの存在も、やはり光二さんが作家になるには重要だったのだと思います。果たしてその親は、光二さんが直木賞候補になったことをどう感じたのか。くわしくわからないのが残念です。

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2023年10月 8日 (日)

梶山勇一(土木技師)。作家になるぞという息子の夢を故郷からサポートする。

 親のことをどう描くか。作家にとっては大事なテーマです。

 ……ほんとうに大事なのかどうか。もちろんワタクシは知らないんですけど、いちおうおそらく大事なんじゃないかのか、と想像してハナシを進めてみます。

 自分がここにいるのはなぜなんだ。それは両親がいたからだ。というところから、親とのつながりのなかでテーマを煮詰めた作家も(たぶん)少なくはありません。直木賞とれなかった人気作家の代表格、梶山季之さんもそのひとりです。

 第49回(昭和38年/1963年・上半期)の直木賞候補になった「李朝残影」からしてそうです。舞台は昭和10年代、日本人たちが我が物顔にズカズカと乗り込んでいった朝鮮の京城。とまあ、梶山さんが朝鮮について強い関心を寄せていたのは、自分が生まれ育った土地だったからで、親がどうとかは関係ない気もしますけど、ただ、梶山さんのお父さんがこの時期、朝鮮に赴任していなければ、まず出てこなかったテーマなのはたしかです。やっぱり梶山さんにとって大事なテーマは、親とつながっています。

 お父さんは梶山勇一。明治33年/1900年頃、広島県佐伯郡地御前村生まれ。昭和48年/1973年12月27日没。

 かなり頭のいい人だったらしく、早稲田大学理工学部を出て土木関係の専門技師として働きます。とくに水利工学に強く、日本政府が海外に侵略を始めた勢いに飲み込まれながら、台湾へ、そして朝鮮へと任地を転々。妻ノブヨさんとのあいだにもうけた二人目の子供が季之さんですが、季之さんが生まれた昭和5年/1930年当時は、朝鮮総督府で土木の役人としてバリバリ働いていた、と伝えられています。小川哲さんの『地図と拳』みたいな世界です(ってちょっと違うか)。

 戦争中に外地で役人をやっていた人たちは数多くいますが、昭和20年/1945年に日本がボロ負けしたもんですから大変です。一気に急転、没落していくか、はたまた何も知らなかった顔して実業界でのし上がっていくか。と、いずれにしてもそんな劇的なことが勇一さんの身にも訪れたのかはよくわかりません。ともかく一家をあげて昭和20年/1945年のうちには広島に帰ってきて、それからは県内で公務員として土木関係の仕事をやり続けた、と言われています。

 息子の季之さんが、親にも誰にも相談せず、家出のようなかたちで上京したのが昭和28年/1953年、23歳のときでした。その後、恋人の美那江さんが追いかけて上京、二人で所帯をもつにいたり、季之さんは鶴見工業高校の国語教師になったりするうちに、家族にも居所が知れるようになるのですが、なんだ季之、作家になるために上京したんじゃないのか、学校教師なんてやめちまえ、と勇一さんがほんとうに言ったのかどうなのか。ともかく季之さん夫妻と、季之さんの弟・貞夫さんの3人で稼げるような場所をもたせたいとの親ゴコロから、勇一さんは肌を脱ぎます。

 季之さんたちが始めた喫茶店「阿佐ヶ谷茶廊」のオープンに手を貸し、おカネも気前よく出してあげます。ということなので、えらい財産家ではなかったでしょうが、まったくの貧乏人でもなかったようです。

 その後、季之さんが原稿料で稼げるようになったとき、季之さんは両親のために東村山市に家を一軒用意して、広島から東京に呼び寄せた、などなど親孝行エピソードはわんさかあります。最終的に季之さんは、おれの書きたいのはこういうテーマなんだ、と「積乱雲」という作品に行き着きますが、これなども、父親が仕事して自分が生まれた朝鮮、母親が生まれたハワイ、両親のルーツでもある広島(を襲った原爆)といった目のつけどころからして、親孝行に通じる季之さんの両親に対する感情の表われだったでしょう。

 近年、大下英治さんが出した『最後の無頼派作家 梶山季之』(令和4年/2022年11月・さくら舎刊)にも、父・勇一さんのことはいろいろと出てきます。ほんとは、季之さんが直木賞候補になって落ちたとき、かなり悔しがった息子の姿を見て勇一さんが何と言ったのか、みたいなことを紹介したいところですが、ちょっとそれはわからないので、代わりに勇一さんの人となりがわかるエピソードを、大下さんの本から取り出してみます。

 朝鮮に勤務していたとき、勇一さんはまったく朝鮮人に対する差別感情がなかったそうです。まわりの日本人のなかには露骨にいばり腐った人もいたでしょうが、勇一さんはそんなこともなく、家にいたお手伝いの現地女性にも終始親切にしていました。

 結果、日本が負けた、となったときにその効果が現われます。

「敗戦国である日本人が、戦争が終わると同時に、朝鮮人に復讐のため襲われるという噂があった。心に覚えのある日本人は、一様に脅えた。

(引用者中略)

が、梶山一家は、父親の人徳のおかげで、なにもされることはなかった。

梶山家の使用人であった朝鮮人も、梶山家だけは、自分たちに対するあつかいが他とちがって優しいことを肌身に染みて感じていたのであろう。」(『最後の無頼派作家 梶山季之』「第二章 引き揚げ者」より)

 まあ、大下さんの本は、季之さんをはじめ梶山さんちの人たちを悪く書くことはまずないので、これをもって勇一さんを礼讃するわけにはいきません。

 ただ、作家になった季之さんというと、ずいぶん情に厚い人だったと言われています。その成長の過程では当然、両親の生き方を見てきたでしょうから、父親・勇一さんの姿も、そんな「情」の作家を育てるにひと役買ったものと言っていいと思います。

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2023年10月 1日 (日)

落合春恵(会社員)。小説を書く娘のかたわらで、神経症で部屋にこもりぱなしだった母。

 心が疲れたとき、いろいろイヤになっちゃったとき。ふと手にとりたくなるのが、落合恵子さんの本です。

 ワタクシは、生活のほとんどが直木賞のことを知りたい、っていう(クソみたいな)望みで回っています。落合さんの本を進んで読む機会はまずないんですけど、直木賞を知りたくて、落ちた候補者のことまで調べるようになると、当然、落合さんの本も手にすることになります。読むうちに、いつのまにやら直木賞のことも忘れて落合さんの文章に惹きつけられている。しみじみ心に浸ります。

 こういう物書きに賞をあげられなかったんだから、直木賞もイバッちゃいけないよな、と思うんですが、ともかく落合さんのことも何度か、うちのブログでは触れてきました。

 第88回(昭和57年/1982年・下半期)に『結婚以上』で候補になってから、第91回、第92回、第94回、第96回まで5度も、とるかとらぬかの騒ぎに巻き込まれます。もう40年ぐらいまえのおハナシです。

 落合さんはその前から、文化放送のアナウンサーとして「レモンちゃん」などという愛称をイヤイヤ付けられ、かなりの人気を博していました。人気者には芸能記者がはりついて、プライバシーから何から人権無視で暴こうとします。

 そういったなかから、レモンちゃんの家族を調べていくと、父親のいない母子家庭。これは掘っていけば、ゴシップ好きの読者が食いつくネタになりそうだぞ、ウッシッシ。と、よだれを垂らした芸能記者がいたせいで、『週刊平凡』昭和47年/1972年3月23日号ではそのあたりのことが公にさらされました。落合さん、27歳のときです。

 父親はともかく、落合さんにとっての親といえば、もう母親をおいて何も語れません。あなたの人生はあなたのものだ、どうするかは自分で決めなさい、と娘に言い聞かせ、晩年は認知症になって一人娘に介護されながら死を迎えます……。落合さんの書くものにしばしば描かれ、もはや読み手にとっても他人とは思えない落合さんのお母さん。芸能記者ほど、いじきたなく詮索はできませんけど、とりあえず直木賞にとっても重要な候補者を生み出した、その母親のことは触れておかずにはいかれません。

 落合春恵。大正12年/1923年3月25日生まれ、平成29年/2007年8月没。下に三人の妹、静恵、智恵、照恵がいます。父親が30代で亡くなってから、母親のツネさんの手で育てられますが、なにしろ四人きょうだいの一番上の子です。自分のしたいことはぐっとこらえながら、母を助け、妹たちを世話する生活を長く送ります。

 戦争中、20歳前後のころに、地元宇都宮の実業家、矢野登さんと恋をします。向こうはおおよそ20歳ぐらい年上で、妻子もちです。それでも矢野さんに惚れ込んで関係を結び、昭和20年/1945年1月にひとりの女児を生み落とします。落合恵子さんです。

 以来、二人の母子の思い出は、二人の頭のなかにしかない。と言いたいところですが、落合さんは何くれとその思い出を小説のタネにし、またエッセイに書き残してくれています。

 それによると、幼いころには宇都宮で過ごしたあと、落合さんが小学校に上がるまえには東京の中野区に転居。春恵さんは神田の会社に経理の仕事を見つけます。昼間は出勤してクタクタになって帰ってきたあと、夜には休む間もなく、ビル清掃の仕事に出かけおカネを稼ぐ日々です。

 この母親の稼ぎのおかげで、落合さんは小・中・高・大と進み、就職試験では受けた出版社はことごとく落ち、とりあえずダメ元で受けておいた文化放送のアナウンサー試験に合格するという、とんでもない幸運を引き当てます。社会に出て、自分で生活がまかなえるようになったあとも、母親とともに暮らして、お互いの人生を歩きつづけます。

 娘の落合さんは、深夜放送のパーソナリティとして望外の注目を集め、やりたくないこと、いやなことに立ち向かいながら悪戦苦闘しましたが、母の春恵さんも穏やかだったわけではありません。もとから神経症が高じて、入院したり薬を飲んだりしていたところ、それが悪いときにはすべてのものが汚く感じて、何も触れなくなる症状がやってきます。生きているのも大変です。

 昭和48年/1973年に落合さんの『スプーン一杯の幸せ』(祥伝社/ノン・ブックス)がベストセラーになり、昭和49年/1974年に文化放送を退職、昭和51年/1976年にクレヨンハウスをオープン、そして昭和57年/1982年に最初の直木賞候補、と落合さんには直木賞が近づいてきます。それからしばらく、エッセイスト、小説家の仕事も多く舞い込んできて、またぞろ落合さんには「直木賞、いつとれるの? また落ちたの?」というゴシップ記事の餌食になるわけですが、ちょうどその頃は、春恵さんも神経症がひどい時期だった、と落合さんは振り返ります。

「母は当時、自分の部屋にこもりきりだった。病院では神経症といわれたが、俗に「不潔恐怖症」と呼ばれていたものだったと思う。何にも触れることができなかった。

(引用者中略)

着替えもしたがらないから、そばにいくと饐えたような匂いがした。強引に入浴させようとすると、浴室に行くまでの何本かの柱にしがみつき、母は悲鳴をあげた。「つかまった柱は汚くないの?」。意地の悪い言葉がわたしの口からついてでるのも、そんな時だった。

(引用者中略)

母を心から愛しながら、手の打ちようもない日々の中で、わたしは血縁ではなく、「結縁」の家族について書いていたのだ。母が自分の部屋にこもったように、わたしもまた書くという行為の中に、当時のわたし自身のシェルターを見つけていたのだと思う。」(平成26年/2014年3月・東京新聞刊、落合恵子・著『「わたし」は「わたし」になっていく』所収「母の匂い」より)

 と書いているのは、落合さんが『偶然の家族』(平成2年/1990年3月・中央公論社刊)を連載し、単行本化された頃を回想したもので、直木賞候補になったときよりちょっとあとです。ただ、幅広い仕事をしてきた落合さんのなかでも、小説を書くことが「シェルター」の役割だった、というのは、なるほどそういうものかと思わされました。

 そこで直木賞が手を差し伸べられなかったのは、残念でなりません。もし落合さんが直木賞をとったときに、直木賞なんて汚い、と春恵さんが目をそむけなかったかどうか、知りたかったです。

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