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2023年9月10日 (日)

中島昭和(大学教授)。娘が直木賞の候補になったと聞いても、何のことやら、よくわからない。

 最近は昔のことをどんどん忘れます。細部についてはもちろんですが、ざっくりした記憶も消えていくいっぽうです。もはや正真正銘のジジイです。

 そうは言っても、ワタクシの脳みそに詰まっていたのは、昔の直木賞がどうだったとか、くだらないハナシばかり。別に忘れちゃってもいいものばかりです。今日も、どうでもいい直木賞のエピソードを書いて、どんどん忘れていきたいと思います。

 ワタクシは平成12年/2000年に「直木賞のすべて」というホームページを始めました。そもそも、面白い小説を読むのが好きで始めたようなサイトなので、開設してからも続々と出てくる新人作家の小説で、気になるものがあれば直木賞とは関係なく読んでいたんですが、そんななか出会ったのが中島京子さんの『FUTON』(平成15年/2003年5月・講談社刊)なる小説です。妙な角度から、妙なお話を書く人が出てきたなあ。と、自分の脳内にある人名事典にその名が焼きついた記憶があります。

 それからも中島さんは着実に作品を発表して、吉川英治文学新人賞の候補に3年連続で挙がります。さすがに全作を追って読んでいたわけじゃありませんが、いつか直木賞の候補になるかもしれない、とワタクシの「気になる作家メーター」がぐんぐんと上がっていきました。

 そしてデビュー7年目の平成22年/2010年上半期に、中島さんはようやく直木賞の候補になります。どうしてそれまで候補にならなかったんだろう。と本気で不思議に思ったので、毎回候補が発表されるとつくっている「直木賞のすべて」の詳細ページで、「全然、初候補っぽくないんだよなあ。もはや、脂のりまくり、獲って当然の域に達しているもんなあ。」と、思ったことを正直に書きました。

 それで『小さいおうち』が初候補でいきなり受賞まで行っちゃったものですから、驚きというより、そりゃそうだろうな、とシラけ切った感情がわいてきた覚えもありますが、それももう昔のハナシです。直木賞をとって以降、中島さんの歩みはあまりに順調すぎて、直木賞の当時のあれこれが、すべて霞んで見えてきます。いや、直木賞は、とったあとに作家に活躍してもらうためにやっている賞なので、だいたいの受賞は霞むのが宿命なんですけど。

 直木賞から今年で13年。その間、中島さんの順調な歩みのなかにあったのが『長いお別れ』(平成27年/2015年5月・文藝春秋刊)の発表です。その2年前に亡くなった中島さんの父親の、晩年の認知症と、それを自宅介護した母親、両親のことをつぶさに見てきた体験が活かされたというふれこみの小説でした。

 ということで、中島さんの父親のことです。中島昭和(なかじま・あきかず)。昭和2年/1927年10月18日生まれ、平成25年/2013年没。大学は東京大学に学んで昭和26年/1951年に文学部仏文科を卒業すると、茨城大学文理学部に所属しました。専門はフランス文学です。

 二人の娘を授かったうち、次女に当たるのが昭和39年/1964年生まれの京子さんです。長女のさおりさんも有名な人ですがここでは割愛しまして、ハナシは一気に昭和さんが大学を退職する頃まで飛びます。

 国立の茨城大学から昭和42年/1967年に私立の中央大学に移り、助教授、教授を務めたのちに、平成10年/1998年、70歳で退職。平成15年/2003年に京子さんが初の小説を出したときにはまだ元気もりもり(?)のオヤジだったんですが、それからまもなく記憶がおぼろげになり、言動に不審なところが現われます。認知症です。

 ……と、ここまで書いてきて、ん? とフワフワした記憶がよみがえってきました。

 調べてみたら10年以上前、うちのブログで中島京子さんとお父さんの直木賞にまつわるエピソード、もう書いちゃっているじゃん! やべ、気づかずにまったく同じこと書こうと思っていたわ。

 そのエントリーで触れなかったことだけ、最後に挙げておきます。中島さんが中学生だった頃のことです。

 生まれて初めて小説らしきものを、国語ノートに書いていたのを昭和さんに見つかって、激烈に怒られます。娘が小説を書いて何がそんなに気に食わなかったのか。よくわかりませんが、そのときのことを、直木賞受賞エッセイで京子さんが紹介しています。

「これは私の傑作であり三文小説とは言わせないと豪語する変な娘に向かって、父は「三文小説とは売れて三文になるものを言うのであり、おまえの書いているものなんか、一文にもならんどころか紙の無駄だ。だいいちそのノートは誰が買ってやっていると思っているんだ」と正論を吐き、「執筆停止」を言い渡したため、以後、執筆活動は地下に潜行することになる。」(『オール讀物』平成22年/2010年9月号 中島京子「いつでもどこでも書いていた」より)

 口の達者な学究肌の父親というのは、まったく困ったものです。

 平成22年/2010年、中島さんが直木賞の候補になったり受賞したりする頃には、すでに認知症のせいで、昭和さんは直木賞が何なのかもわからなくなっていたそうです。またそこで、何だらかんだらと理屈をつけられて父親に怒られなくて、中島さんよかったですね。

 しかしまあ、直木賞なんてものは忘れちゃっても別に問題はないのだ、と昭和さんに教えられた気がして、ワタクシも安心しました。これからもどんどん直木賞のことを忘れていきたいと思います。

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