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2023年9月の4件の記事

2023年9月24日 (日)

瓜生卓爾・トキ(鉄道官僚と妻)。社会的地位の高い父と、教育熱心な母にはさまれたダメ息子。

 ここ最近、受賞者のハナシが続きました。直木賞を受賞者のことだけで見ていると、どうも偏りが過ぎて、気分が悪くなってきます。

 なので、ここら辺で気分転換、直木賞をとれなかった候補者の話題を挟みます。これでスカッと爽快、気持ちよく秋のシーズンを迎えましょう。

 さて、直木賞の候補者はうじゃうじゃいますが、親とのことでワタクシがずっと気になっているのが瓜生卓造さんです。第33回(昭和30年/1955年・上半期)と第38回(昭和32年/1957年・下半期)に二度、候補になりました。これまでも、うちのブログで何度か取り上げています。

 派手な作家じゃありません。どっちかといえばシブい部類に入る作風で、直木賞の候補になった二つ「北極海流」も『単独登攀』も、もっとエンタメチックにしようと思えば、かなり面白くなっただろうというぐらいの極地モノ。しかし、瓜生さんの実証気質というか、コツコツと記録をつけるのが好きな性格だったためか、ストーリーに盛り上がりが欠けて、当時の選考委員の人たちも首をかしげちゃったというシロモノです。

 それで瓜生さんの何が気になるのか、というと、育った環境です。

 とにかく実家は都内の大屋敷。瓜生さん自身、学校を出てから定職につかず、ふらふらしていても食うに困らずに、同人雑誌で小説を書いていました。この圧倒的なニート感。いまでも同じような境遇の人はたくさんいると漏れ聞きます。いったい家族に対してどんな思いで、売れない小説を書きつづけたのか。瓜生さんの生きざまは、やはり気になります。

 瓜生さんの父親は、小説の世界とは関係のない人でした。瓜生卓爾。明治14年/1881年2月22日、八王子市生まれ、昭和38年/1963年2月10日没。

 早稲田大学の政治経済科で学んだあと、明治38年/1905年に卒業して日本鉄道に入社。これが国有化されて鉄道院、鉄道局、鉄道省と国の組織の変化に応じて、そのなかで有能な官吏として鉄道経理のど真ん中を歩き、神戸、東京、札幌など、任地も転々と変わります。

 そのあいだに結婚した妻のトキさんとのあいだに、長女ふみさんが生まれたのが大正5年/1916年11月のこと。卓爾さんが札幌で働いていたときのことです。つづいて大正9年/1920年1月、第二子として長男の卓造が生まれます。こちらは卓爾さんの職場が関西だったときのことでした。

 ……といったハナシは、4年前にうちのブログに挙げた「瓜生卓造、南極・北極・アルプス・ヒマラヤと、極地を描いてニート脱出。」で、だいたい書いちゃいました。卓造さんにとって家族といえば、父母と、一人の姉。とくにこの姉のふみさんが、昭和18年/1943年夏に20代後半の若さで亡くなってしまったことが、卓造さんの人生に大きな屈折を生んだ、ということのようです。

 そういう意味では、瓜生さんが直木賞の候補に挙がるまでの過程では、親というより姉の存在と早世が重要だったわけで、「直木賞と親のこと」というテーマにあまり結びつきません。だけどここでは無理やり結びつけちゃいます。偉大すぎて社会的地位では超えられない父親と、教育熱心でいつも小うるさい母親。この両親がいたことで、瓜生さんの鬱屈がさらに高まり、それが「おれには文学しかない!」という袋小路に追い込んだんだろう、と。

 瓜生さんの初期作品集『大雪原』(昭和31年/1956年4月・三笠書房刊)には、『文学者』の親玉・丹羽文雄さんが「序」を寄せ、『文学者』の若頭・石川利光さんが「解説」を書いています。

 当然、瓜生さんのことについてはワタクシなんかよりも全然くわしい人たちです。せっかくなので参考にさせてもらいますと、石川さんはこう指摘しています。

「瓜生卓造の従来の作品は(引用者中略)私の知るかぎりでは、その殆んどが一貫して私小説的な傾向の作品ばかりである。私小説的、というのは、自己を全面的に素材にするというやり方ではなく、瓜生卓造の内面から発するものを芯にして虚構を展開するといつた方法を指して云うのである。

(引用者中略)

瓜生卓造の内面的な問題は何か、といえば、放蕩無頼な一人息子と母親との重苦しい愛憎のつながりであるようだ。彼が「母親に対しては、こんなに憎しみ合う母子があるだろうか、と不思議に思うほど憎悪を死ぬまで抱きつづけた」とする牧野信一に深く心を傾けていつたのも故なしとしない。(『大雪原』所収 石川利光「解説」より)

 なるほど、石川さん、ナイスな紹介です。

 職にもつかずに放蕩を繰り返すどうしようもない男。その息子にとって愛憎を抱く対象は父親ではなく母親だった、と聞くと、瓜生さんの両親に対する感覚がなにがしか作品に反映されているのだろうな、と思います。

 直木賞の候補になったのは、瓜生さんの冒険好きが高じて生み出された作品ですので、直接的に親のことは出てきません。ただ、そこに至るまで瓜生さんには10年足らずの文学修業があり、うまく生きてきた両親と、うまく生きられない一人息子の自分という家庭環境がつらくて、それを文学にぶつけようとした、というのは明らかです。

 そうやって瓜生さんの小説を改めて読んでみると、むかし読んだときとはまた別の興趣が沸いてくるんだろうなあ。とは思うんですけど、果たしていまさら瓜生文学を学び直す時間がとれるかどうか。直木賞の候補者とか調べていると、時間がいくらあっても足りません。

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2023年9月17日 (日)

王孝廉(大学教授)。息子が受賞して喜びをかみしめながら、ぴしりと諫める言葉をかける。

 自分の劣化ぶりはマジでやばいな、と最近はいつも思います。第153回(平成27年/2015年・上半期)のことですら、もはや記憶はカスれぎみです。まだ8年しか経っていないのにです。

 8年まえの直木賞といえば、例によって例のごとく、しつこく直木賞と同じ日に選考会をやっている某賞で、某作家が受賞したためにマスコミもネットも大騒ぎ。うるせえ、おれは直木賞のことが知りたいんだ、といくら絶叫しても、某賞・某作家のハナシばかりが飛び交って辟易した……という、そんな記憶しか残っていません。

 まあ、ボケはじめた我が身を嘆いても仕方ないので、そそくさと最近の話題に移ります。去年、令和4年/2022年、東山彰良さんの父親が亡くなり、その数か月後に『Turn! Turn! Turn! ターンターンターン』(令和4年/2022年10月・書肆侃侃房刊)という東山さんのエッセイが出ました。

 ほぼ1年まえのことです。全然、最近の話題じゃないですね。すみません。

 ともかくこの本には、東山さんの父のことが何度か出てきます。なにしろ東山さんが直木賞をとった『流』(平成27年/2015年5月・講談社刊)は、語り手・葉秋生のモデルの一人が作者の父、という触れ込みです。どんな父親だったんだろう、とやっぱり興味がわいてきます。

 王孝廉。1942年10月10日生まれ、2022年8月17日没。出身は中国山東省昌邑県ですが、まもなく台湾に移って、台湾の東海大学を卒業します。1968年、昭和でいうと43年に、長男の震緒が誕生。のちの東山さんです。

 まもなく父の孝廉さんは、東山さんと下の女の子、二人の子供を台湾に残して、妻と二人で日本の広島大学に留学します。昭和49年/1974年には子供たちを広島に呼び寄せ、いったんそこで生活を送りますが、最終的に東山さんがガッツリ日本で過ごすことになるのは、昭和52年/1977年の9歳から。孝廉さんが福岡にある西南学院大学に働き口を見つけたからです。

 その前後、孝廉さんは「王璇」なるペンネームで作家・詩人としての活動もしていたと言います。その詩の一端が、流れ流れて東山さんの『流』のなかで引用されることになるんですけど、それはずいぶんあとのハナシです。

 若い頃、生意気ざかりの東山さんは、あまり父親とはうまくいかなかったそうですが、父と息子の関係にはよくあることでしょう。孝廉さんだって、異国の地に来て、自分の専門テーマを深掘りしながら、学生にはきちんと向き合わなきゃいけない。子供のことなんか構ってられるか、という時があったっておかしくありません。

 それはともかく、息子が大人になっても孝廉さんは、急にデレデレ甘くなったりすることもなく、毅然と親の役目を果たしていたようです。

 『Turn! Turn! Turn!』には、東山さんが直木賞をとって大騒動に巻き込まれた時期に、孝廉さんが言ったという言葉が紹介されています。

「私が直木賞を獲ったときは、控えめに言っても台湾が沸いた。一介の作家風情が台湾総統にまで会わせてもらった。

「作家なんて何者でもない」と自分自身も作家である父は私を諫めた。「いいか、政治には近づくな」

(引用者中略)

私の人生は私のもので、父のものではない。それでも、私は心から作家など如何ほどのこともないと思っている。政治と宗教には近寄らず、家族を守り、おおらかに子供を育てあげることのほうが遥かに大事だ。」(『Turn! Turn! Turn!』所収「政治と宗教には近寄るな 父の助言は固く守っている。」より)

 いいっすね、孝廉さん。まわりがキャーキャー言っているときに、ぴしゃりと当然のことを言えるのは素晴らしいです。東山さんが当時からいまに至るまで、まったく浮かれているように見えないのは、この父親を見て育ったことも、多少は影響しているんでしょう、おそらく。

 他にも『Turn! Turn! Turn!』にはチラチラと、印象的な孝廉さんの姿が描かれていますが、なかでも思わずぐっと来るのはこの本の献辞です。東山さんは書いています。「最期まで自由自在だった父へ。」

 この献辞を見て、ぱっと思い出しました。

 昔、直木賞受賞本にはどんな献辞が付いているのか、歴代のものを調べてみたことがあります。数からすると、献辞も何もない本のほうが多いんですが、東山さんの『流』にはこんな献辞が付けられていました。「父と母」「あの世の祖父へ」。

 そうか、東山さんは(東山さんも)その直木賞との関わりには、親の存在が色濃く出ている受賞者だったんですね。

 ただ、言われてみれば、受賞当時、そんな記事がどっと出ていた気もするなあ。いまさら、うちのブログでおさらいするまでもないかもしれません。

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2023年9月10日 (日)

中島昭和(大学教授)。娘が直木賞の候補になったと聞いても、何のことやら、よくわからない。

 最近は昔のことをどんどん忘れます。細部についてはもちろんですが、ざっくりした記憶も消えていくいっぽうです。もはや正真正銘のジジイです。

 そうは言っても、ワタクシの脳みそに詰まっていたのは、昔の直木賞がどうだったとか、くだらないハナシばかり。別に忘れちゃってもいいものばかりです。今日も、どうでもいい直木賞のエピソードを書いて、どんどん忘れていきたいと思います。

 ワタクシは平成12年/2000年に「直木賞のすべて」というホームページを始めました。そもそも、面白い小説を読むのが好きで始めたようなサイトなので、開設してからも続々と出てくる新人作家の小説で、気になるものがあれば直木賞とは関係なく読んでいたんですが、そんななか出会ったのが中島京子さんの『FUTON』(平成15年/2003年5月・講談社刊)なる小説です。妙な角度から、妙なお話を書く人が出てきたなあ。と、自分の脳内にある人名事典にその名が焼きついた記憶があります。

 それからも中島さんは着実に作品を発表して、吉川英治文学新人賞の候補に3年連続で挙がります。さすがに全作を追って読んでいたわけじゃありませんが、いつか直木賞の候補になるかもしれない、とワタクシの「気になる作家メーター」がぐんぐんと上がっていきました。

 そしてデビュー7年目の平成22年/2010年上半期に、中島さんはようやく直木賞の候補になります。どうしてそれまで候補にならなかったんだろう。と本気で不思議に思ったので、毎回候補が発表されるとつくっている「直木賞のすべて」の詳細ページで、「全然、初候補っぽくないんだよなあ。もはや、脂のりまくり、獲って当然の域に達しているもんなあ。」と、思ったことを正直に書きました。

 それで『小さいおうち』が初候補でいきなり受賞まで行っちゃったものですから、驚きというより、そりゃそうだろうな、とシラけ切った感情がわいてきた覚えもありますが、それももう昔のハナシです。直木賞をとって以降、中島さんの歩みはあまりに順調すぎて、直木賞の当時のあれこれが、すべて霞んで見えてきます。いや、直木賞は、とったあとに作家に活躍してもらうためにやっている賞なので、だいたいの受賞は霞むのが宿命なんですけど。

 直木賞から今年で13年。その間、中島さんの順調な歩みのなかにあったのが『長いお別れ』(平成27年/2015年5月・文藝春秋刊)の発表です。その2年前に亡くなった中島さんの父親の、晩年の認知症と、それを自宅介護した母親、両親のことをつぶさに見てきた体験が活かされたというふれこみの小説でした。

 ということで、中島さんの父親のことです。中島昭和(なかじま・あきかず)。昭和2年/1927年10月18日生まれ、平成25年/2013年没。大学は東京大学に学んで昭和26年/1951年に文学部仏文科を卒業すると、茨城大学文理学部に所属しました。専門はフランス文学です。

 二人の娘を授かったうち、次女に当たるのが昭和39年/1964年生まれの京子さんです。長女のさおりさんも有名な人ですがここでは割愛しまして、ハナシは一気に昭和さんが大学を退職する頃まで飛びます。

 国立の茨城大学から昭和42年/1967年に私立の中央大学に移り、助教授、教授を務めたのちに、平成10年/1998年、70歳で退職。平成15年/2003年に京子さんが初の小説を出したときにはまだ元気もりもり(?)のオヤジだったんですが、それからまもなく記憶がおぼろげになり、言動に不審なところが現われます。認知症です。

 ……と、ここまで書いてきて、ん? とフワフワした記憶がよみがえってきました。

 調べてみたら10年以上前、うちのブログで中島京子さんとお父さんの直木賞にまつわるエピソード、もう書いちゃっているじゃん! やべ、気づかずにまったく同じこと書こうと思っていたわ。

 そのエントリーで触れなかったことだけ、最後に挙げておきます。中島さんが中学生だった頃のことです。

 生まれて初めて小説らしきものを、国語ノートに書いていたのを昭和さんに見つかって、激烈に怒られます。娘が小説を書いて何がそんなに気に食わなかったのか。よくわかりませんが、そのときのことを、直木賞受賞エッセイで京子さんが紹介しています。

「これは私の傑作であり三文小説とは言わせないと豪語する変な娘に向かって、父は「三文小説とは売れて三文になるものを言うのであり、おまえの書いているものなんか、一文にもならんどころか紙の無駄だ。だいいちそのノートは誰が買ってやっていると思っているんだ」と正論を吐き、「執筆停止」を言い渡したため、以後、執筆活動は地下に潜行することになる。」(『オール讀物』平成22年/2010年9月号 中島京子「いつでもどこでも書いていた」より)

 口の達者な学究肌の父親というのは、まったく困ったものです。

 平成22年/2010年、中島さんが直木賞の候補になったり受賞したりする頃には、すでに認知症のせいで、昭和さんは直木賞が何なのかもわからなくなっていたそうです。またそこで、何だらかんだらと理屈をつけられて父親に怒られなくて、中島さんよかったですね。

 しかしまあ、直木賞なんてものは忘れちゃっても別に問題はないのだ、と昭和さんに教えられた気がして、ワタクシも安心しました。これからもどんどん直木賞のことを忘れていきたいと思います。

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2023年9月 3日 (日)

小菅繁蔵(農業)。堅実に働いて、死んでも何も書き残さなかった無名の人。

 先週、山形県に行ってきました。一泊二日の観光旅行です。

 山形といえば何でしょう。これまで直木賞選考委員は53人いますが、そのうち2人を生んだという、直木賞とも縁が深い土地です。そりゃあ行くしかありません。

 といっても時間は限られています。そんなに多くは回れないので、道中半日だけ鶴岡観光に当てました。東京も暑いけど山形も酷暑のさなか。へろへろになりながら鶴岡公園までたどりついて、藤沢周平記念館に入ったところで倒れ込んだんですが、そこに置いてあったのが次回企画展の案内チラシです。

 それによれば、あと数日待ってから来ていれば「直木賞受賞50年記念企画展〈藤沢周平と直木賞〉」なる展示を見ることができたと知って、よけいに力が抜けました。げっ、来るのが早すぎだか。だいたい、ワタクシの人生、うまく行きません。

 とまあそれはそれとして、せっかく鶴岡に行ってきたことですし、今日の主役はやっぱりこの人、藤沢周平さんで行きたいと思います。

 藤沢さんの両親は無名中の無名人です。父は小菅繁蔵。明治22年/1889年前後に生まれて、昭和25年/1950年1月没。母は〈石川多郎右衛門〉という屋号の家に生まれたたきゑで、生まれは明治27年/1894年前後、没は昭和49年/1974年8月。

 第四子にあたる留治さん、のちの藤沢周平さんが生まれたのが昭和2年/1927年の暮れのことです。当時、小菅家は山形県東田川郡黄金村の高坂で農業を営んでいました。

 藤沢さんに言わせると、父の繁蔵さんは口数が少ない働き者で、コツコツまじめにやるタイプ。母のたきゑさんは話上手な人で、土地の昔バナシだの何だのを幼い藤沢さんによく語っていたと言います。子供たちに本も買い与え、藤沢さんの二人の姉は読書のとりこになり、その影響もあってか藤沢さんも幼少時代からよく本を読みました。

 父の家系は、庄内で堅実に生活する家柄だったが、母の家系は、百姓でありながらも教師をしたり、外の世界に興味をもってふらふらする人が多かった、それを考えると自分が小説家になったのはきっと母方の血のせいだっただろう、とのちに藤沢さんは書いています。

 父方の遺伝か、それとも母方か。こういうハナシは単純に血脈だけで語れるものではなく、はっきりと断定ができません。よくわからないので、さっさと素通りしたいと思いますが、少なくとも藤沢さんが、そう考えたがっていたのはたしかでしょう。

 おそらく藤沢さんは農家出身なことを気にしていたのではないか、とまで言っているのが福沢一郎さんです。

「藤沢本人は自身の出自について気にしていたと思う。藤沢は文壇とはあまり交わろうとしなかった小説家として知られている。本人のシャイな性格によるものだろうが、それだけではない。他に農家の出の小説家がいなかったというのもあったのではないか。

(引用者中略)

プロの小説家になった人たちには、父親が医者だったり、教員だったり、いわゆるインテリ層の家庭に育った者が多い。藤沢は、このことを気にしていたということだ。」(平成16年/2004年12月・清流出版刊、福沢一郎・著『知られざる藤沢周平の真実――待つことは楽しかった』より)

 気にしていた、という表現にはいろいろな含みがあります。マイナスな意味だけじゃなく、プラスの面も含めて、親のことを見ていたのに違いありません。

 というのも、父の繁蔵さんは、藤沢さんが作家になるよりずっと前の昭和25年/1950年に亡くなりましたが、懸命に働きつづけて死ぬときに別に何ひとつ書き残さなかった、と言ったあと、「男の生き方としては、その方がいさぎよいのではないかと思うことがある」(『周平独言』「あとがき」)と書いているからです。

 ものを書くから偉いんじゃない、書かずに人生を全うする農業の営みこそ、ほんとうは偉いのかもしれない。藤沢さんはそう考えていた節があります。

 直木賞をとって、地元の人からもキャーキャー言われ、自分の碑を立てる計画なんてものも持ち上がり、はてまた死んだら立派な記念館まで建ってしまう。それを栄光と見るかどうかは、たしかに微妙なところです。それを見にわざわざ鶴岡くんだりまで行っちゃう人間が言うことじゃないですけど。

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