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2023年8月13日 (日)

藤原彦・りゑ(信用組合長と妻)。小説が大好きな父と、小説を書くのを反対していた母。

 直木賞をとった人たちのなかで、子供も有名になった、っていう例はいろいろあります。

 第一回受賞の川口松太郎さんからしてそうです。檀一雄さん、藤原審爾さん、水上勉さんなどなど、「直木賞とそれにまつわる子供」をテーマにしても、一年ぐらいはネタが続きそうです。

 その「子供が有名列伝」に入ってくるのが新田次郎さん。ご自身が亡くなった昭和55年/1980年のときには、まだ『若き数学者のアメリカ』(昭和52年/1977年11月・新潮社刊)一冊の著作しかなかった藤原正彦さんが、あれよあれよとエッセイを量産し、小説も書き、ベストセラーも連発して、いまでは多くの読者を持つ書き手になりました。人生どこでどうなるかわかりません。

 まあ、子供のことは措いておきます。ブログのテーマは親のことです。正彦さんの父が新田次郎さん。では新田さんの両親はどんな人だったのか。当然気になります。

 藤原彦(ふじわら・ひこ)。明治20年/1887年3月生まれ、昭和39年/1964年6月2日没。享年77。新田さんといえば故郷への思いの強い人で、自分の故郷(諏訪町の)角間新田をペンネームにつけているぐらいですが、江戸の昔から同地で暮らしていると言われていますす。むろん父の彦さんも、諏訪の角間新田で生まれました。

 彦さんの父親、光蔵さんは農業で身を立てようとしながらも途中で官吏の道に進み、角間新田の土地を他の人に貸したままで、長野県内、各地を転勤で回ったそうです。彦さんには姉が二人、それから3つ上に咲平さんという兄がいましたが、頭のキレる優秀なアニキで、勉強のために東京に出て、そのまま中央気象台に勤務。

 じゃあ実家はどうするか。ということになって、光蔵さんから「おまえが継げ」と命じられたのが彦さんです。上の学校には進まず、角間新田の藤原家を背負って立つことになります。

 その後、りゑさんと結婚。9人の子をなしますが、明治45年/1912年、二番目に生まれたのが寛人、のちの新田次郎さんです。

 新田さんの年譜には、父・彦さんの職業は「上諏訪町信用組合長」と書いてあります。りゑさんは農業を営んでいたそうです。藤原家はもともと高島藩の下級武士で、付近の開発を手がけていたという説もあり、地元ではちょっとした名家ではあったんでしょう。のちに彦さんは農業協同組合長も務めています。

 そして彦さんの特徴といえば、大の読書好きだったことです。

 藤原家にはずっと前から本がたくさんあったらしく、そういう蔵書を幼い頃から新田さんも好き好んで読みあさっていたようです。父の彦さんも、家庭の事情で勉学の道には進みませんでしたが、記憶力は抜群。また、文才もなかなかのものがあった、というのが新田さんの語るところです。

 とくに彦さんは小説を読むのも大好きで、新田さんは自分の初めての小説集『強力伝』(昭和30年/1955年9月・朋文堂/旅窓新書)ができたとき、いち早く知らせねばと思って、わざわざ速達で彦さんに送ったといいます。彦さんも、息子が役所勤めをしながらも小説を書き始めたことを、そりゃあ嬉しがったことでしょう。

 新田さんが直木賞をとるのはその直後、昭和31年/1956年1月です。父・彦さんも、母・りゑさんもまだ存命でした。

 息子の直木賞受賞に母がどんな反応をしたのか。新田さんの『小説に書けなかった自伝』に紹介されています。

(引用者注:昭和32年/1957年9月終わりに母が亡くなり)母の葬儀に故郷へ帰った。村の人が、私が直木賞を受賞したという新聞記事を読んで、私の母におめでとうを云ったら、

〈小説なんか書いていて、役所のほうがおろそかにならねばいいが〉

と心配していたという話を聞いて、母は、私が小説を書くのは反対だったなと思った。」(『小説に書けなかった自伝』「方向づけに苦しむ」より)

 いまなら、おそらく受賞式の席に両親を呼んだでしょう。ただ、当時は日本文学振興会が外部の人を招いて受賞パーティーを盛大に開く、ということは、まだやっていない時代です。

 もしも新田さんの頃に、そういう機会が始まっていたら、りゑさんも「小説なんか書いて……」みたいなネガティブな感情をもうちょっと修正してくれたかもしれません。

 それから彦さんのほうは7年長生きしました。新田さんも作家としての活躍の一端を見せられたので、よかったんじゃないかと思いますが、それでも「なにひとつとして親孝行らしいことをしてやれなかったのが残念」(前掲『小説に書けなかった自伝』)と言っちゃうあたり、さすが謙虚でおなじみ新田次郎ブシです。

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