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2023年8月20日 (日)

赤瀬川廣長(倉庫会社社員)。息子二人の受賞を、その目では見られなかった父親。

 第169回(令和5年/2023年・上半期)までで直木賞の受賞者は202人います。受賞した時の年齢は、ざざっと平均すると44歳ぐらいです。

 当然、受賞までの道のりは一人ひとり違います。若くして受賞してもすでにふた親のいなかったケースもあれば、年をとって受賞した人でも、親が健在だった場合だってあるでしょう。年齢を平均して何の意味があるんでしょうか。まあ、だいたい「平均」なんてものは、ほぼ無意味です。

 それはそれとして、今回取り上げる赤瀬川隼さんは第113回(平成7年/1995年・上半期)受賞したときに、すでに63歳。父も母も10年以上まえに亡くしていて、受賞を直接知らせることはできませんでした。

 ただ、父が亡くなって赤瀬川さんが受賞するまでの20年のあいだに、すでに父は一度、脚光(?)を浴びたことがあります。赤瀬川さんの弟の尾辻克彦さんが、自伝的な要素を含んだ「父が消えた」で第84回(昭和55年/1980年・下半期)芥川賞をとっちまったからです。

 「父が消えた」は小説でもあり、家族の人名は出てきません。ですけど、うちのブログは小説を論評したいわけじゃないので、実名を挙げておきます。

 赤瀬川廣長。明治28年/1895年2月13日生まれ、昭和50年/1975年5月27日没。享年80。鹿児島で、かつては島津藩の槍術師範をしていたという家に生まれたのち、東京に出てきて三井グループの倉庫会社に勤めます。働くうちに、ぜひうちの娘と結婚してほしい、と一人の男に強く請われて東京・四谷生まれの幸(みゆき)という名の女性と結婚。そのとき幸さんは勧業銀行に勤めていて、職場内に結婚を約束した相手がいたと言います。結婚は親が決める時代、幸さんは仕方なく赤瀬川家に嫁いだんだとか。

 昭和2年/1927年、長女の昭子さんを生んだのを皮切りに、昭和17年/1942年までで3男3女、6人の子をなします。その間、廣長さんの仕事の関係で、全国各地に転々。四日市、名古屋、横浜、芦屋、門司、大分と移ったところで、戦争が激しくなり、廣長さんの転勤も止まります。

 九州の旧士族の生まれとはいえ、廣長さんは厳しいところのない優しい人だった、とのちに物書きになった長男、次男は言っています。家では穏やかで無口な父親だったそうです。趣味で俳句を嗜み、『現代俳家人名辞書』(昭和5年/1930年12月・素人社書店刊)では「骨茶」として紹介されています。

 子供たちはすくすく育ち、幸さんが教育熱心だったことも手伝って、このまま行けば、みんなつつながく上の学校まで行ったかもしれませんが、戦争のせいでそれもすべてひっくり返ります。昭和25年/1950年、長男の隼彦さん、つまり赤瀬川隼さんが高校を終えるときには、父の廣長さんは失職中。大学に通えるようなおカネはなく、東京に出ていくのは、就職先を探すためでした。

 さて、父親の廣長さんです。敗戦のとき50歳。しかし、その後は仕事がうまくいかず貧乏な生活がつづきます。次男の克彦さん、つまり赤瀬川原平さんいわく、

「父の性格としては慎重で、怒らなくて、手先などは器用な方だった。母の方は何でもぽんぽんやってしまう方で、怒るときは怒る。とにかくくよくよはしない方だった。」(平成8年/1996年12月・大和書房刊、赤瀬川原平・著『常識論』所収「東京を出て東京に戻る」より)

 よおし、日本が負けたんならそれでいい、新しい生活を俺が切り開いてやる! といった積極的な人ではなかったようです。そのまま年をとり、仕事を離れ、名古屋で晩年まで過ごします。

 何をどう考えながら暮らしていたのか。もはやわかりません。名古屋の団地で老夫婦二人で過ごしていたある日、突然、コタツのなかで倒れます。脳軟化症と診断を受け、もはや回復は見込めない。どうしようかと子供たち相談のうえ、横浜に住む長男の団地に引っ越し、その家で引き取った……というのは尾辻さんの「父が消えた」にも書いてあることですし、他のエッセイなどでも描かれています。

 ちなみに横浜に住む長男というのは、赤瀬川隼さんのことです。

 「父が消えた」受賞のとき、まだ物書きの遠くにいた隼さんは、それから15年、ぞくぞくとエッセイを書き、小説にも進出して直木賞をとるわけですが、もちろん隼さんも父親のことはそこかしこに書き残しています。

 戦後落魄した父を、どう見ていたのか。はっきり書かれているのがエッセイがあります。

 廣長さんが横浜の事務所に勤めていた頃。まだ小学校に上がるかどうか、そのくらいの年だったときに、隼さんは父親に連れられて、仕事場を訪れました。

「今思うと、僕はその日初めて、働く父の姿に接したのだった。家族以外の人たちの中で、すなわち社会で、ある役割りを果たしている父の姿に初めて接したのである。そのとき僕は、父に対して家庭の中でとは別種の尊敬の念を抱いていたような気がする。

(引用者中略)

亡父の晩年は不遇で無気力だった。しかし、父に対する僕の尊敬の念は、あの幼少時の一日によって不変である。」(平成13年/2001年5月・主婦の友社刊、赤瀬川隼・著『人は道草を食って生きる』所収「がっしりした木の机」より ―初出『勤労よこはま』平成6年/1994年10月号)

 息子たちの芥川賞も、直木賞も、廣長さんは見ることはできませんでしたけど、小説の題材にしてもらい、また尊敬されつづけたその生涯は、ある面では幸せだった、と言っておきたいと思います。

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