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2023年8月 6日 (日)

祢寝正也・みどり(民芸品店主と妻)。受賞式の会場で喜ぶ母と、自宅で喜ぶ父。

 昨日(令和5年/2023年8月5日)も東京は猛暑でした。

 その「クソ」がつくほど暑いなか、高円寺に用事があったので、うーうーうだりながら西部古書会館の古書展をのぞき、直木賞に関係した本をみつくろって買ったんですけど、直木賞直木賞、といつもそれしか言っていなくて、われながら恥かしいことです。

 と、そんなことはどうでもいいんですが、久しぶりに高円寺に行って思い出しました。ねじめ正一さんのことです。いや、ねじめさんと両親と直木賞のことです。

 ねじめさんは物書きのなかでも、自分の生活や家族のことを大っぴらに書いちゃうタイプの人です。第101回(平成1年/1989年・上半期)直木賞を受賞したのも、自分の子供のころの生活をモデルにした『高円寺純情商店街』ですからね。言わずもがなです。

 同作にも乾物屋をやっている夫婦として、両親のことがたくさん出てきます。その後も、小説、エッセイ、インタビュー、さまざまなところでねじめさんは親について語ってきました。それをもとにして以下略歴をまとめておきます。

 祢寝正也。大正半ばに生まれ、日本学園中学を中退して日本郵船で船乗りになります。太平洋戦争を挟んで、海での生活に見切りをつけて、戦後、親戚が経営する乾物卸会社に入社。自分のあるがままに生きるその性格から、上司に歯向かうは、遅刻しまくるは、職場では白い目で見られますが、この会社に経理事務で働いていた6~7歳ほど年下の女性、みどりにちょっかいを出して、そのまま結婚。会社をやめて、高円寺で乾物屋を始めます。

 開店してまもなく昭和23年/1948年に長男正一が誕生。正也さん自身は、あまり商売に身が入らず、おれの生きがいは俳句だけだと言い張って、商売はほとんど妻のみどりさんに任せっきり。もともと骨董や美術に興味があったものですから、昭和39年/1964年に乾物屋をやめて、画廊の経営に手を出します。

 ところが、これもまた商運がなく、一年ほどで立ち行かなくなって、次に挑戦したのが民芸品屋です。するとこちらは、正也さん自身、興味のあるものを扱える業種でもあり、本気で身を入れます。昭和47年/1972年、高円寺駅北口の区画整理のため、店は隣駅の阿佐ヶ谷に移転、そこでみどりさん、正一さんの手を借りながら、商売を大きくしていこうとしていた矢先、昭和51年/1976年2月、脳溢血で倒れます。57歳のときでした。

 その後、平成10年/1998年2月2日、79歳で亡くなるまでのことは、正一さんの『二十三年介護』(平成12年/2000年7月・新潮社刊)にくわしく書かれています。リハビリのおかげで多少容態はよくなりますが、かつてのように元気よく動き回ることができません。みどりさんがほとんど一人で自宅で面倒を看て23年を過ごしたということです。

 父は自宅療養、母はその世話をしながらときどき店番に立つ、といった日々を送るなか、アイツがいきなりやってきます。直木賞です。

 うちの息子が直木賞をとった。しかも、自分たちが一生懸命生活していた高円寺の乾物屋時代のことを書いて受賞した。そりゃあ正也さんもみどりさんも喜ばないはずがありません。平成1年/1989年8月の、正一さんの受賞式には、さすがに正也さんは出かけられませんでしたが、みどりさんは息子の晴れ舞台を見に、東京會舘に足を運びます。

「当日はお迎えの車に来て頂き正一夫婦と一緒に参ります。普段はお喋りな私がじっと無口になってしまい、正一が「お母さん静かだね。どうしたの」と声をかけてきましたが、私はふふふと笑いました。(引用者中略)受賞の言葉、祝辞など夢中で聞き、二次会へ廻る正一夫婦と別れて会場を後にいたしました。(引用者中略)

その翌日正一が我が家に参りまして、受賞記念の時計を主人にくれました。主人はその時計をとても嬉しそうに何度も何度も手にとっておりました。」(『二十三年介護』「四 再発――平成二年五月」より)

 心あたたまる場面です。何が心あたたまるって、受賞風景を見守る両親の目もそうなんですが、その貴重なハナシを母親が自分の言葉で書き、受賞者である息子が活字として残している、そのことに直木賞ファンとしては感動してしまいます。正直、全受賞者とその家族にやっておいてほしいぐらいです。

 じっさいは、直木賞受賞を両親が喜ぶ姿をめぐって、正一さんの弟がムッとして、兄弟一触即発の状況になっちゃうんですが、それはここではスルーしておきましょう。

 息子の受賞から8年半後、正也さんは亡くなります。さらに残されたみどりさんは、パーキンソン症候群を発症、さらには認知症が進んで施設に入所することになって、そこでもあれやこれやの騒ぎを起こしながら、平成29年/2017年9月19日、92歳で他界しました。

 しかし、ただ老いて、ただ死んだだけではありません。正一さんの手で『母と息子の老いじたく』(平成23年/2011年4月・中央公論新社刊)とか『認知の母にキッスされ』(平成26年/2014年11月・中央公論新社刊)とか、さまざまな作品が書かれることで、息子の仕事を「自分が題材になる」という点で助けました。

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