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2023年8月の4件の記事

2023年8月27日 (日)

永井智子(声楽家)。「この人を一生母とは呼ぶまい」と娘に決心させるほどのお転婆ぶり。

 永井路子さんが直木賞を受賞したのは第52回(昭和39年/1964年・下半期)です。ということは、いまから60年近くも前のハナシです。

 そのとき永井さんは39歳。以来けっこうな年齢まで現役で物を書きつづけたおかげで、鎌倉市の名誉市民になります。すると、先生、うちの文学館で企画展をやらせてくださいとお願いされることになった結果、平成11年/1999年5月~6月、鎌倉文学館で永井路子展が開かれました。永井さんが74歳の年のことです。

 ああ、もう70を過ぎたか。私の人生もあともう少し。だったらせっかくの機会だし、これまで黙っていたことを明かしちゃおう。……と、このとき初めて、自分には戸籍上の父母とは別に、実の父母がいた、と公にします。

 直木賞をとって35年。その間ずっと隠し通せていたわけです。直木賞を受賞するとたいてい現れる「おれたちが個人情報を暴いてやるぜ」と鼻息あらくするメディアの力も、大したものじゃないんだなと思いますが、今回はそういうハナシは措いておきます。話題は永井さんの親のことです。

 そのとき明かされた永井さんの実父は、来島清徳(きじま・きよのり)さんと言います。

 山口県出身、第一高等学校から東京帝国大学に学んだ秀才で、学生時代、近くに住む女学生に英語を教えたことが縁で、その娘さんの母親〈ため〉さんに大層気に入られたそうです。うん、あんたならうちの娘の婿にちょうどいい、結婚しなさいよ、と強引に事を進めたのが、その〈ため〉さんです。娘の名は智子さん。こちらはのちに多少有名になりました。

 永井智子。生年月日は諸説ありますが、とりあえず『音楽年鑑 昭和四十年度版』(昭和39年/1964年11月・音楽之友社刊)その他、もっとも採用されている記述を参考にすると、明治40年/1907年1月20日生まれ。平成4年/1992年11月2日没。

 結婚の話が出たのはまだ二十歳前です。智子さん本人はあまり気乗りしなかったとも言いますが、母の言うことを聞いて来島さんとくっついたところ、大正14年/1925年3月に、一人の女児を生み落とします。本名・擴子、のちの永井路子さんです。

 永井の本家は茨城県古河にあって、〈ため〉さんの弟の八郎治さんと、その妻まつさんが守っていました。しかし、いかんせん夫妻には子供がいません。跡取りをどうするか。ずっと悩んでいて、姪にあたる智子さんに継いでもらおうと考えていたようです。

 そんなときに来島さんという結婚相手が現われた。いやあ、よかったな、と思ったのも束の間、来島さんのほうは永井家に婿に入る気がなく、話はうまくいきません。そこで子供が生まれたものですから、じゃあ擴子に本家に入ってもらおうと、戸籍上、擴子さんの父は八郎治、母はまつ、となりました。

 来島さんはまもなく若くして死んでしまったため、擴子さんに実父の記憶はありません。母の智子さんは昭和5年、画家の田中弘二さんと結婚。それを機に擴子=路子さんは、古河の永井家に移り住み、それ以後大人になるまで同地で育ちます。

 実父と違って、実母のほうは長生きしたので、その後も路子さんは智子さんと縁がつながっていたようです。私の名前が永井荷風の『断腸亭日乗』に出てくるのよ、と路子さんが自慢げに(?)語っているのも、母の智子さんが荷風さんに、いっときものすごく可愛がられていたからですが、路子さんに言わせると、智子さんという人はいいトコ育ちのわがまま娘、言いたいことをすぐに口に出す無鉄砲な人だった、と言っています。

「彼女は単純で何の考えもなくぱっーと言ってしまう人間なんですよ。しかも子どもの頃から甘やかされて育っていますから。(引用者中略)ともかく天真爛漫で、単純すぎるのです。一緒に住める人ではありません。私も若い頃は愛憎の屈折があり、衝突もし、この人を一生母とは呼ぶまいと決心し、結局それを押し通しました。」(『東京人』平成12年/2000年4月号「インタビュー 永井路子 母、永井智子と荷風 オペラ「葛飾情話」に寄せて。」より ―聞き手:川本三郎)

 そういう智子さんの性格が、結果、荷風さんから嫌われることになった大きな原因なのではないか、と路子さんは回想しています。そうだったのかもしれません。

 上記のインタビューで、路子さんは続けます。智子と一緒にいたら、作家になった今の自分はないだろう、と。

 「私が母と呼べるのは私を愛してくれた戸籍上の母まつ」「もの書きになれたのは三郎叔父(引用者注:八郎治の弟)の影響をうけたから」なんだそうです。それで、直木賞の受賞者がひとり生まれたのですから、娘といっしょに暮らさなかった智子さんの奔放さも、ある意味、直木賞の歴史の一端をつくったと言えるでしょう。

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2023年8月20日 (日)

赤瀬川廣長(倉庫会社社員)。息子二人の受賞を、その目では見られなかった父親。

 第169回(令和5年/2023年・上半期)までで直木賞の受賞者は202人います。受賞した時の年齢は、ざざっと平均すると44歳ぐらいです。

 当然、受賞までの道のりは一人ひとり違います。若くして受賞してもすでにふた親のいなかったケースもあれば、年をとって受賞した人でも、親が健在だった場合だってあるでしょう。年齢を平均して何の意味があるんでしょうか。まあ、だいたい「平均」なんてものは、ほぼ無意味です。

 それはそれとして、今回取り上げる赤瀬川隼さんは第113回(平成7年/1995年・上半期)受賞したときに、すでに63歳。父も母も10年以上まえに亡くしていて、受賞を直接知らせることはできませんでした。

 ただ、父が亡くなって赤瀬川さんが受賞するまでの20年のあいだに、すでに父は一度、脚光(?)を浴びたことがあります。赤瀬川さんの弟の尾辻克彦さんが、自伝的な要素を含んだ「父が消えた」で第84回(昭和55年/1980年・下半期)芥川賞をとっちまったからです。

 「父が消えた」は小説でもあり、家族の人名は出てきません。ですけど、うちのブログは小説を論評したいわけじゃないので、実名を挙げておきます。

 赤瀬川廣長。明治28年/1895年2月13日生まれ、昭和50年/1975年5月27日没。享年80。鹿児島で、かつては島津藩の槍術師範をしていたという家に生まれたのち、東京に出てきて三井グループの倉庫会社に勤めます。働くうちに、ぜひうちの娘と結婚してほしい、と一人の男に強く請われて東京・四谷生まれの幸(みゆき)という名の女性と結婚。そのとき幸さんは勧業銀行に勤めていて、職場内に結婚を約束した相手がいたと言います。結婚は親が決める時代、幸さんは仕方なく赤瀬川家に嫁いだんだとか。

 昭和2年/1927年、長女の昭子さんを生んだのを皮切りに、昭和17年/1942年までで3男3女、6人の子をなします。その間、廣長さんの仕事の関係で、全国各地に転々。四日市、名古屋、横浜、芦屋、門司、大分と移ったところで、戦争が激しくなり、廣長さんの転勤も止まります。

 九州の旧士族の生まれとはいえ、廣長さんは厳しいところのない優しい人だった、とのちに物書きになった長男、次男は言っています。家では穏やかで無口な父親だったそうです。趣味で俳句を嗜み、『現代俳家人名辞書』(昭和5年/1930年12月・素人社書店刊)では「骨茶」として紹介されています。

 子供たちはすくすく育ち、幸さんが教育熱心だったことも手伝って、このまま行けば、みんなつつながく上の学校まで行ったかもしれませんが、戦争のせいでそれもすべてひっくり返ります。昭和25年/1950年、長男の隼彦さん、つまり赤瀬川隼さんが高校を終えるときには、父の廣長さんは失職中。大学に通えるようなおカネはなく、東京に出ていくのは、就職先を探すためでした。

 さて、父親の廣長さんです。敗戦のとき50歳。しかし、その後は仕事がうまくいかず貧乏な生活がつづきます。次男の克彦さん、つまり赤瀬川原平さんいわく、

「父の性格としては慎重で、怒らなくて、手先などは器用な方だった。母の方は何でもぽんぽんやってしまう方で、怒るときは怒る。とにかくくよくよはしない方だった。」(平成8年/1996年12月・大和書房刊、赤瀬川原平・著『常識論』所収「東京を出て東京に戻る」より)

 よおし、日本が負けたんならそれでいい、新しい生活を俺が切り開いてやる! といった積極的な人ではなかったようです。そのまま年をとり、仕事を離れ、名古屋で晩年まで過ごします。

 何をどう考えながら暮らしていたのか。もはやわかりません。名古屋の団地で老夫婦二人で過ごしていたある日、突然、コタツのなかで倒れます。脳軟化症と診断を受け、もはや回復は見込めない。どうしようかと子供たち相談のうえ、横浜に住む長男の団地に引っ越し、その家で引き取った……というのは尾辻さんの「父が消えた」にも書いてあることですし、他のエッセイなどでも描かれています。

 ちなみに横浜に住む長男というのは、赤瀬川隼さんのことです。

 「父が消えた」受賞のとき、まだ物書きの遠くにいた隼さんは、それから15年、ぞくぞくとエッセイを書き、小説にも進出して直木賞をとるわけですが、もちろん隼さんも父親のことはそこかしこに書き残しています。

 戦後落魄した父を、どう見ていたのか。はっきり書かれているのがエッセイがあります。

 廣長さんが横浜の事務所に勤めていた頃。まだ小学校に上がるかどうか、そのくらいの年だったときに、隼さんは父親に連れられて、仕事場を訪れました。

「今思うと、僕はその日初めて、働く父の姿に接したのだった。家族以外の人たちの中で、すなわち社会で、ある役割りを果たしている父の姿に初めて接したのである。そのとき僕は、父に対して家庭の中でとは別種の尊敬の念を抱いていたような気がする。

(引用者中略)

亡父の晩年は不遇で無気力だった。しかし、父に対する僕の尊敬の念は、あの幼少時の一日によって不変である。」(平成13年/2001年5月・主婦の友社刊、赤瀬川隼・著『人は道草を食って生きる』所収「がっしりした木の机」より ―初出『勤労よこはま』平成6年/1994年10月号)

 息子たちの芥川賞も、直木賞も、廣長さんは見ることはできませんでしたけど、小説の題材にしてもらい、また尊敬されつづけたその生涯は、ある面では幸せだった、と言っておきたいと思います。

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2023年8月13日 (日)

藤原彦・りゑ(信用組合長と妻)。小説が大好きな父と、小説を書くのを反対していた母。

 直木賞をとった人たちのなかで、子供も有名になった、っていう例はいろいろあります。

 第一回受賞の川口松太郎さんからしてそうです。檀一雄さん、藤原審爾さん、水上勉さんなどなど、「直木賞とそれにまつわる子供」をテーマにしても、一年ぐらいはネタが続きそうです。

 その「子供が有名列伝」に入ってくるのが新田次郎さん。ご自身が亡くなった昭和55年/1980年のときには、まだ『若き数学者のアメリカ』(昭和52年/1977年11月・新潮社刊)一冊の著作しかなかった藤原正彦さんが、あれよあれよとエッセイを量産し、小説も書き、ベストセラーも連発して、いまでは多くの読者を持つ書き手になりました。人生どこでどうなるかわかりません。

 まあ、子供のことは措いておきます。ブログのテーマは親のことです。正彦さんの父が新田次郎さん。では新田さんの両親はどんな人だったのか。当然気になります。

 藤原彦(ふじわら・ひこ)。明治20年/1887年3月生まれ、昭和39年/1964年6月2日没。享年77。新田さんといえば故郷への思いの強い人で、自分の故郷(諏訪町の)角間新田をペンネームにつけているぐらいですが、江戸の昔から同地で暮らしていると言われていますす。むろん父の彦さんも、諏訪の角間新田で生まれました。

 彦さんの父親、光蔵さんは農業で身を立てようとしながらも途中で官吏の道に進み、角間新田の土地を他の人に貸したままで、長野県内、各地を転勤で回ったそうです。彦さんには姉が二人、それから3つ上に咲平さんという兄がいましたが、頭のキレる優秀なアニキで、勉強のために東京に出て、そのまま中央気象台に勤務。

 じゃあ実家はどうするか。ということになって、光蔵さんから「おまえが継げ」と命じられたのが彦さんです。上の学校には進まず、角間新田の藤原家を背負って立つことになります。

 その後、りゑさんと結婚。9人の子をなしますが、明治45年/1912年、二番目に生まれたのが寛人、のちの新田次郎さんです。

 新田さんの年譜には、父・彦さんの職業は「上諏訪町信用組合長」と書いてあります。りゑさんは農業を営んでいたそうです。藤原家はもともと高島藩の下級武士で、付近の開発を手がけていたという説もあり、地元ではちょっとした名家ではあったんでしょう。のちに彦さんは農業協同組合長も務めています。

 そして彦さんの特徴といえば、大の読書好きだったことです。

 藤原家にはずっと前から本がたくさんあったらしく、そういう蔵書を幼い頃から新田さんも好き好んで読みあさっていたようです。父の彦さんも、家庭の事情で勉学の道には進みませんでしたが、記憶力は抜群。また、文才もなかなかのものがあった、というのが新田さんの語るところです。

 とくに彦さんは小説を読むのも大好きで、新田さんは自分の初めての小説集『強力伝』(昭和30年/1955年9月・朋文堂/旅窓新書)ができたとき、いち早く知らせねばと思って、わざわざ速達で彦さんに送ったといいます。彦さんも、息子が役所勤めをしながらも小説を書き始めたことを、そりゃあ嬉しがったことでしょう。

 新田さんが直木賞をとるのはその直後、昭和31年/1956年1月です。父・彦さんも、母・りゑさんもまだ存命でした。

 息子の直木賞受賞に母がどんな反応をしたのか。新田さんの『小説に書けなかった自伝』に紹介されています。

(引用者注:昭和32年/1957年9月終わりに母が亡くなり)母の葬儀に故郷へ帰った。村の人が、私が直木賞を受賞したという新聞記事を読んで、私の母におめでとうを云ったら、

〈小説なんか書いていて、役所のほうがおろそかにならねばいいが〉

と心配していたという話を聞いて、母は、私が小説を書くのは反対だったなと思った。」(『小説に書けなかった自伝』「方向づけに苦しむ」より)

 いまなら、おそらく受賞式の席に両親を呼んだでしょう。ただ、当時は日本文学振興会が外部の人を招いて受賞パーティーを盛大に開く、ということは、まだやっていない時代です。

 もしも新田さんの頃に、そういう機会が始まっていたら、りゑさんも「小説なんか書いて……」みたいなネガティブな感情をもうちょっと修正してくれたかもしれません。

 それから彦さんのほうは7年長生きしました。新田さんも作家としての活躍の一端を見せられたので、よかったんじゃないかと思いますが、それでも「なにひとつとして親孝行らしいことをしてやれなかったのが残念」(前掲『小説に書けなかった自伝』)と言っちゃうあたり、さすが謙虚でおなじみ新田次郎ブシです。

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2023年8月 6日 (日)

祢寝正也・みどり(民芸品店主と妻)。受賞式の会場で喜ぶ母と、自宅で喜ぶ父。

 昨日(令和5年/2023年8月5日)も東京は猛暑でした。

 その「クソ」がつくほど暑いなか、高円寺に用事があったので、うーうーうだりながら西部古書会館の古書展をのぞき、直木賞に関係した本をみつくろって買ったんですけど、直木賞直木賞、といつもそれしか言っていなくて、われながら恥かしいことです。

 と、そんなことはどうでもいいんですが、久しぶりに高円寺に行って思い出しました。ねじめ正一さんのことです。いや、ねじめさんと両親と直木賞のことです。

 ねじめさんは物書きのなかでも、自分の生活や家族のことを大っぴらに書いちゃうタイプの人です。第101回(平成1年/1989年・上半期)直木賞を受賞したのも、自分の子供のころの生活をモデルにした『高円寺純情商店街』ですからね。言わずもがなです。

 同作にも乾物屋をやっている夫婦として、両親のことがたくさん出てきます。その後も、小説、エッセイ、インタビュー、さまざまなところでねじめさんは親について語ってきました。それをもとにして以下略歴をまとめておきます。

 祢寝正也。大正半ばに生まれ、日本学園中学を中退して日本郵船で船乗りになります。太平洋戦争を挟んで、海での生活に見切りをつけて、戦後、親戚が経営する乾物卸会社に入社。自分のあるがままに生きるその性格から、上司に歯向かうは、遅刻しまくるは、職場では白い目で見られますが、この会社に経理事務で働いていた6~7歳ほど年下の女性、みどりにちょっかいを出して、そのまま結婚。会社をやめて、高円寺で乾物屋を始めます。

 開店してまもなく昭和23年/1948年に長男正一が誕生。正也さん自身は、あまり商売に身が入らず、おれの生きがいは俳句だけだと言い張って、商売はほとんど妻のみどりさんに任せっきり。もともと骨董や美術に興味があったものですから、昭和39年/1964年に乾物屋をやめて、画廊の経営に手を出します。

 ところが、これもまた商運がなく、一年ほどで立ち行かなくなって、次に挑戦したのが民芸品屋です。するとこちらは、正也さん自身、興味のあるものを扱える業種でもあり、本気で身を入れます。昭和47年/1972年、高円寺駅北口の区画整理のため、店は隣駅の阿佐ヶ谷に移転、そこでみどりさん、正一さんの手を借りながら、商売を大きくしていこうとしていた矢先、昭和51年/1976年2月、脳溢血で倒れます。57歳のときでした。

 その後、平成10年/1998年2月2日、79歳で亡くなるまでのことは、正一さんの『二十三年介護』(平成12年/2000年7月・新潮社刊)にくわしく書かれています。リハビリのおかげで多少容態はよくなりますが、かつてのように元気よく動き回ることができません。みどりさんがほとんど一人で自宅で面倒を看て23年を過ごしたということです。

 父は自宅療養、母はその世話をしながらときどき店番に立つ、といった日々を送るなか、アイツがいきなりやってきます。直木賞です。

 うちの息子が直木賞をとった。しかも、自分たちが一生懸命生活していた高円寺の乾物屋時代のことを書いて受賞した。そりゃあ正也さんもみどりさんも喜ばないはずがありません。平成1年/1989年8月の、正一さんの受賞式には、さすがに正也さんは出かけられませんでしたが、みどりさんは息子の晴れ舞台を見に、東京會舘に足を運びます。

「当日はお迎えの車に来て頂き正一夫婦と一緒に参ります。普段はお喋りな私がじっと無口になってしまい、正一が「お母さん静かだね。どうしたの」と声をかけてきましたが、私はふふふと笑いました。(引用者中略)受賞の言葉、祝辞など夢中で聞き、二次会へ廻る正一夫婦と別れて会場を後にいたしました。(引用者中略)

その翌日正一が我が家に参りまして、受賞記念の時計を主人にくれました。主人はその時計をとても嬉しそうに何度も何度も手にとっておりました。」(『二十三年介護』「四 再発――平成二年五月」より)

 心あたたまる場面です。何が心あたたまるって、受賞風景を見守る両親の目もそうなんですが、その貴重なハナシを母親が自分の言葉で書き、受賞者である息子が活字として残している、そのことに直木賞ファンとしては感動してしまいます。正直、全受賞者とその家族にやっておいてほしいぐらいです。

 じっさいは、直木賞受賞を両親が喜ぶ姿をめぐって、正一さんの弟がムッとして、兄弟一触即発の状況になっちゃうんですが、それはここではスルーしておきましょう。

 息子の受賞から8年半後、正也さんは亡くなります。さらに残されたみどりさんは、パーキンソン症候群を発症、さらには認知症が進んで施設に入所することになって、そこでもあれやこれやの騒ぎを起こしながら、平成29年/2017年9月19日、92歳で他界しました。

 しかし、ただ老いて、ただ死んだだけではありません。正一さんの手で『母と息子の老いじたく』(平成23年/2011年4月・中央公論新社刊)とか『認知の母にキッスされ』(平成26年/2014年11月・中央公論新社刊)とか、さまざまな作品が書かれることで、息子の仕事を「自分が題材になる」という点で助けました。

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