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2023年7月30日 (日)

山手樹一郎(大衆小説作家)。自分と同じく直木賞候補になった息子の成長を(おそらく)喜ぶ。

 ワタクシは「直木賞のすべて」のほか、いくつかサイトをつくっています。残念ながらけっこう間違いだらけで、ときどきミスを見つけては、そのたびに赤面して直したりしているんですが、むちゃくちゃなミス、ということではウィキペディアも相当なもんです。

 今日のエントリーを書く参考にと思って、ウィキペディアの「井口朝生」のページを見たところ、直木賞候補になった作品の題名が書いてありました。『青雲乱雲』なのだそうです。おいおいマジかよ。

 ……ここで直木賞候補に関する知識合戦を挑んでも、むなしいだけなのでやめておきますが、しかし、さすがに候補作が『青雲乱雲』ってことはありません。

 第45回(昭和36年/1961年上半期)の井口さんの候補は、昭和36年/1961年5月25日に東方社から刊行された『狼火と旗と』です。その前編にあたる『青雲乱雲』が東方社から出たのは昭和35年/1960年7月20日ですので、少なくとも第45回の候補のわけがありませんし、該当する回に『青雲乱雲』が候補になったという記録もありません。ウィキペディアンの凡ミスか、参照した資料の間違いです。

 人のふり見て我がふり直せ、とはよく言ったもんです。一度なにかを調べてサイトに反映させても、それが絶対の事実であるという保証はどこにもありません。常に情報が正しいか気にかける。自分の間違いに気づいたら、ああ、おれの調査能力なんて大したもんじゃないんだな、と反省して、サイトの記載を修正する。自分はそういうサイト運営者でありたい、と肝に銘じます。

 とまあ、ウィキペディアに突っ込んだところで何も生まれませんよね。さっさと忘れて、今日のエントリーです。

 井口朝生さんの父親は、これはウィキペディアを見るまでもなく、よく知られています。作家の山手樹一郎さんです。

 山手樹一郎。本名、井口長次。明治32年/1899年2月11日生まれ、昭和53年/1978年3月16日没。両親は父・浄次、母・よし(旧姓・山手)。大正6年/1917年に明治中学を卒業、中西屋出版部(のちに小学新報社)で子供雑誌の編集に携わり、昭和2年/1927年からは博文館に移ります。

 大正後期に結婚したひでさんとのあいだには、確認できるかぎり6人の子供がいて、その一番さいしょの子供が朝生さんです。大正14年/1925年の生まれですから、長次さんが26歳のときにできた息子です。

 その頃はまだ長次さんは単なる編集者にすぎず、ものを書いてメシを食おうなんて思ってもいません。それがふつふつと(ないしは、安月給に堪えられず)小説を書いてみようという気になって、昭和8年/1933年に『サンデー毎日』の大衆文芸懸賞で選外佳作。山本周五郎さんとか山岡荘八さんとか、そこら辺りの、何十何百のクセをもったような仲間たちと切磋琢磨で読み物小説を書いてはカネに変え、昭和14年/1939年秋に博文館を退社すると、大衆小説作家として筆一本で家族を養います。

 要は、長次さんが「山手樹一郎」となって小説を書き、それを職業にしていく過程に応じて、すくすくと育ったのが朝生さんだったというわけです。朝生さんが編者となった山手さんの『あのことこのこと』(平成2年/1990年12月・光風社出版刊)などを読むと、子供の頃から朝生さんは、山手さんの書いた原稿を雑誌社に届けて小遣いをもらっていたと言います。

 朝生さんが作家になろうと決意したのは、出兵から帰ってきた昭和24年/1949年以後のことだそうです。ふつう作家になろうとする奴は純文学から志向するものだ、と誰かが熱く語っているのを聞いたこともありますが、朝生さんが目指したのは大衆文芸でした。しかも、定期的に勉強会に足を運んで、仲間と語らい、先輩に教えを請う、という小説修業のやり方は、父親山手樹一郎さんの影響をもろに受けています。

 書いているものは軽いけど、小説に向かう姿勢はまじめで真摯。そんな山手さんのことを尊敬していたところから、朝生さんもおのずと大衆文芸に人生を賭ける気になったものと思います。純文学ばかりが文学じゃありません。

 それで苦節ン年、朝生さんは昭和36年/1961年で直木賞の候補に挙げられます。選考委員の何人かは、新鷹会とか山手さんつながりで、すでに顔なじみの知り合いばかりです。けっきょくそういう先輩たちからは、まだまだ修業が足りんな、と一蹴されて、朝生さんと直木賞との接触は一度きりで終わりましたが、直木賞候補になったこととひっかけて、山手さんと朝生さんはいっしょに読み物誌のグラビアに登場させられます。

「まさか忰が小説書きになろうなどとは夢にも思っていなかっただけに、(引用者注:父・山手は)はじめは驚ろかれたらしいが、直木賞候補にあげられるまで成長した朝生さんの姿に、父親らしい慈愛の鞭撻の眼を向けられるこの頃だ。」(『小説倶楽部』昭和37年/1962年春の増刊[3月] 「グラビヤ 親子同業」より)

 ここで直木賞候補になったことを一つの成長ととらえているのがミソです。なぜかといえば、父・山手さんだって直木賞はとることができずに、候補止まり。それでも書きつづけて、作家として一家をなした背景があるからです。

 直木賞はもう90年近くやっています。受賞者も候補者もたくさん生まれてきましたが、親子そろって直木賞の候補に上がり、親子そろって受賞できないままで終わったのは、山手さんと朝生さん、この一組しかありません。

 朝生さんが受賞して、少なくとも直木賞のうえでは親父を超えた……というふうな展開になっていたら、もっと面白かったと思います。しかし、なかなかうまくはいかないものですね。実作のうえでも、朝生さんが親父さんを超えるまでにはとうてい行きませんでしたけど、「落選親子」を完成させただけでも立派なものです。井口朝生、よくやりました。

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