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2023年7月 2日 (日)

太田静子(『斜陽日記』著者)。人生の半ばも、人生終わったあとも、なぜか直木賞と縁のある人。

 芥川賞に対して、コノヤロウ、と思うことは山ほどあります。

 ……間違えました。「芥川賞のことを文学の代表と見なして、それをイジることで、オレってかっちょいい、と思っているらしい輩たち」に対して、コノヤロウ、とはたびたび思います。

 たとえばです。そういう人たちはよく、太宰治さんの芥川賞ネタをこねくり回します。さらには津島佑子さんとか、その娘、石原燃さん含めて、芥川賞のことをあれこれ言います。「芥川賞の呪い」だとか何だとか。

 だけど、直木賞にだって呪いはあるんだよコノヤロウ。太宰さんが芥川賞で落ちたとき、檀一雄さんは「直木賞をとれよ直木賞を」と慰めたそうですが、けっきょく太宰さんは直木賞をとれませんでした。

 何が「芥川賞がだめなら直木賞をとれ」だ。直木賞をなめちゃいけません。芥川賞の代替品あつかいしやがって、まったくろくでもない人たちです。それから時を経て、娘の太田治子さんは第93回(昭和60年/1985年・上半期)で直木賞の候補になりましたが、あっさりと落選しました。直木賞の呪いです。

 芥川賞のほうばっかじゃなくて、もう少し、直木賞のエピソードにも注目してくれよ、と思います。ただ、いまになってもこの世のなかは「芥川賞をネタ化する」人たちが牛耳っていて、直木賞のほうは盛り上がりに欠けています。コノヤロウ、と腹が立つゆえんです。

 ということで今週は、太田治子さんの親のハナシです。

 父親・太宰さんが有名だったことのおこぼれを受けて、母親の太田静子さんも言わずもがなの有名人です。大正2年/1913年8月18日生まれ、昭和57年/1982年11月24日没。先週とりあげた斎藤鈴子さんの『刀工源清麿』と同じく、太田治子さんの場合も、親の存在がなければ、まず『心映えの記』(昭和60年/1985年2月・中央公論社刊)が書かれることはなく、その作品が直木賞候補になることもなかったでしょう。

 しかも静子さんは、直木賞と少なからず縁ある人でもありました。縁をとりもったのが太宰治さんの「斜陽」です。

 太宰さんの「斜陽」がどのようにして誕生したか。これはもう、いまさらのことなので端折ります。静子さんがいたからこそ生まれ出たのは間違いありませんが、この作品は、昭和22年/1947年に『新潮』に連載されたのちに、単行本としても発売されます。

 すると翌年、昭和23年/1948年4月に開催された直木賞の選考委員会で、授賞検討の話題にのぼりました。うちのサイトの「幻の直木賞戦後復活選考会」というページで紹介したとおりです。

 このとき「斜陽」が直木賞をとっていたら……。ああ、惜しまれてなりません。

 もうひとつ、静子さんが直木賞と接近した件を挙げるとすると、それは檀一雄さんとの交信です。檀さんの「熱風」(『新潮』昭和25年/1950年11月号)という作品に静子さんが出てきます。

 「熱風」は檀さんが夕刊新聞に「石川五右衛門」を連載することになったところから書き出され、その流れのなかで静子さんが『あはれわが歌』を出版してほしいと一書肆に依頼してきたエピソードが語られます。

 この二つの逸話を並べた檀さんの作意を、以下のように評したのが浅見淵さんです。

「作者の伝奇小説「真説石川五右衛門」は昭和二十六年に直木賞を受賞して、作者が大衆文学畑でも確たる作家的位置を占めた作品である。(引用者中略、注:「熱風」の作中で)「真説石川五右衛門」の荒唐無稽さがよく肉附けされていて、われわれを作中に引摺り込んで行く所以のものも解明されており、その意味でも興味深い。そして、主人公は気負い立つているが、今度はそれと対照的に、かつての盟友太宰治の愛人で、「斜陽」のモデルだという太田静子の来訪を描き、その貧に窶れた姿に暗然としている。つまりは作家生活の明暗といつたものを取扱つているわけだ」(昭和35年/1960年12月・筑摩書房刊『新選 現代日本文学全集26 檀一雄集』 浅見淵「解説」より)

 明暗、とはさすがうまいことを言いますよね。生きている檀さんは、商業ジャーナリズムの渦に飛び込んで「石川五右衛門」を書き、直木賞を得る。いっぽう死んでしまった太宰さんは、もはや新しい作品を出していくこともできず、「斜陽」をきっかけに私も小説書けるかしらと思って文章を書いた太田静子さんは、けっきょくイロモノ扱いされて、文芸の世界では活躍できませんでした。

 その後、静子さんは一人娘の治子さんと歩みます。すると、治子さんはすくすくと成長、大人になって物を書くようになり、静子さんが死んだあとで、母娘の生活ぶりを描いた『心映えの記』で直木賞の候補に上がります。あるときは明暗に分かれていたものも、ときが経てばどうなるかわかりません。まあ直木賞のほうは、やっぱり「呪い」のせいで(?)とれませんでしたけど、坪田譲治文学賞をとって、治子さんの物書き生活に一気に明るい日差しがさし込みました。よかったです。

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