今あや(日本郵船社員の妻)。二人の息子が直木賞をとった、という史上唯一の母。
直木賞をきょうだいで受賞したのは今さんちの悪ガキたち。芥川賞は吉行家。……というのが、両賞にまつわるクイズ問題の定番です。つまりはどうでもいいクソ知識です。
兄弟二人が両方ともに直木賞を受けた例は、これまで一例しかありません。そんなこと知っていても、人生何のプラスにもなりませんが、プラスにならなくたって、人間は生きています。むかし男と男、時をまたいで兄弟が受賞した、となればそこには同じ親がいたわけです。直木賞を調べることは、けっきょくは人間を調べることに(も)つながります。
第23回(昭和25年/1950年・上半期)に受賞した今家の三男、日出海さんと、第36回(昭和31年/1956年・下半期)受賞の長男、東光さん。父親は今武平さんで、明治元年/1868年青森・弘前の出身。日本郵船に勤めて日本各地を転々とし、死んだのは昭和11年/1936年8月16日。東光さん38歳、日出海さん32歳のときです。すでに二人とも文学の道に入って、親に不安と心配をかけていた時分ですが、もちろん直木賞のことなんか武平さんの頭には何の印象もなかったでしょう。
となると、やはりここで取り上げたいのは、武平さんより長く生きたその妻のことになります。
今あや。旧姓・伊東。明治2年/1869年6月11日生まれ、昭和31年/1956年1月27日没。武平さんと同じく弘前に生まれ、長じて二人はいっしょになりますが、このあや(「綾」とも書く)さんはとにかく頭脳明晰、才気煥発。若いころは東京の明治女学校に通いながら、古典になじみ、わたしもいつか文学でひと花咲かせてやろうか、と思っていた、というのですから、相当の変り者です。
のちに東光さんは、昭和9年/1934年4月・立命館出版部刊『祇王』の「跋文」で、あやさん自身から聞いた逸話を代わりに書き留めています。明治20年/1887年ごろ、というのであやさん18歳の頃、九段中坂にあった硯友社の尾崎紅葉さんの家をひとり訪ねて、自分がいかに文学で身を立てたいと思っているか、熱をこめて語ります。いやいや、女性は文学なんてやるもんじゃないですよ、と紅葉さんに説得されて、じっと聞き入っていたところ、紅葉さんのうしろにいた男が、「僕と結婚なさい。さうすれば僕が小説家にしてあげますよ」と剽げたことを言ってきたんだそうです。その男が、山田美妙さんだったんだ、と東光さんは書きます。
「その当時の母の言葉によると、中坂を下つて飯田橋の土手で、水清き江戸川を眺めながら、泣けて仕方がなかつたといふのである。硯友社文人のデカタン気質の一面には、私の母のやうなミツシヨン出の処女にはなづむことが出来なかつたのであらう。
母は、美妙にだけ悪い印象を残したきり、病のため弘前に帰つた。さうして文学志望を思ひ絶つと共に結婚する気になつたらしい。(引用者中略)一葉女史が出、夏葉女史が出た時に、母は自分の志を捨てたことを残念だと思つたが、同時に子供の一人は文学者にしたいと念じた。」(『祇王』所収 今春聴「跋文」より)
ほんとかよ、と思いますが、なにしろ東光さんのことです。ハナシが面白くなるように多少は脚色入れちゃっているかもしれません。いや、もしかしたら、あやさん自身が色をつけて息子に話して聞かせた可能性もあります。真偽はわかりません。
武平さんと結婚したあやさんは、夫の仕事にくっついていきながら、四人の男子を生み落とします。そのうち四番目の子は夭折しましたが、三人の子はすくすくと成長。猛女あやさんの血が流れる子供ですから、成長するうちにみんな、勝手なことを言い始め、文学やっていたと思えば出家しちゃうわ、親のスネかじっているくせに新進女優と恋仲になって新聞をゴシップでにぎわすわ、あやさん、心の休まるひまもありません。
一人でもいいから子供を文学の道に、という夢は、けっきょく叶ってしまいます。おれは組織の下では働きたくねえ、とかブーブー言っていた三男・日出男さんが、戦前から文学仲間たちと交流を結んでいた成果を、戦後になって実らせて、昭和25年/1950年9月に直木賞を受賞。あやさん、81歳のときです。
うれしがったのか。それとも、「直木三十五の賞なんて、どうしようもない」と悪態をたれたのか。いまはちょっとわかりませんが、天真爛漫、自由にものを言う毒舌ぶりは、あやさんも相当だったらしいので、オモテでは直木賞なんて馬鹿バカしいと言っていたとしても、何の不思議もありません。ただまあ、これで何とか作家としてやっていけそうな息子の姿を見て、安心してくれたのならいいんですけど。
その後、あと少しだけ生きていれば、もう一人、息子が直木賞をとるところを見られたのに……という年まで命をつなぎましたが、東光さんの直木賞受賞が決まる昭和32年/1957年1月を待つことなく、前年の昭和31年/1956年1月27日に86歳で亡くなりました。場所は、同居していた東光さんの大阪府八尾「天台院」の住まい。東光、文武、日出海の3人の息子に看取られ、東光の読経におくられてあの世に旅立ったそうです。
| 固定リンク
« 太田静子(『斜陽日記』著者)。人生の半ばも、人生終わったあとも、なぜか直木賞と縁のある人。 | トップページ | 第169回(令和5年/2023年上半期)直木賞、「親と子供のきずな」ランキング »
「直木賞と親のこと」カテゴリの記事
- 村上さだ(逓信技師の妻)。おれ作家になる、と言った息子のことを喜んで支援する。(2024.05.19)
- 岡田次郎蔵(町人学者)。息子が新聞記者の入社試験を受けたことを、ことのほか喜ぶ。(2024.05.12)
- 宮城谷さだ子(みやげ物屋)。姓名判断、見合い話などをお膳立てして、息子の運を切りひらく。(2024.05.05)
- 木村荘平・稲垣アキ(牛鍋屋経営者と妾)。女好きと、向こう気の強さを受け継いだ息子が、直木賞をとる。(2024.04.28)
- 山本唯一(国文学者)。反抗していた息子が、自分の蔵書を参考にして歴史小説を書く。(2024.04.21)
コメント