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2023年7月の6件の記事

2023年7月30日 (日)

山手樹一郎(大衆小説作家)。自分と同じく直木賞候補になった息子の成長を(おそらく)喜ぶ。

 ワタクシは「直木賞のすべて」のほか、いくつかサイトをつくっています。残念ながらけっこう間違いだらけで、ときどきミスを見つけては、そのたびに赤面して直したりしているんですが、むちゃくちゃなミス、ということではウィキペディアも相当なもんです。

 今日のエントリーを書く参考にと思って、ウィキペディアの「井口朝生」のページを見たところ、直木賞候補になった作品の題名が書いてありました。『青雲乱雲』なのだそうです。おいおいマジかよ。

 ……ここで直木賞候補に関する知識合戦を挑んでも、むなしいだけなのでやめておきますが、しかし、さすがに候補作が『青雲乱雲』ってことはありません。

 第45回(昭和36年/1961年上半期)の井口さんの候補は、昭和36年/1961年5月25日に東方社から刊行された『狼火と旗と』です。その前編にあたる『青雲乱雲』が東方社から出たのは昭和35年/1960年7月20日ですので、少なくとも第45回の候補のわけがありませんし、該当する回に『青雲乱雲』が候補になったという記録もありません。ウィキペディアンの凡ミスか、参照した資料の間違いです。

 人のふり見て我がふり直せ、とはよく言ったもんです。一度なにかを調べてサイトに反映させても、それが絶対の事実であるという保証はどこにもありません。常に情報が正しいか気にかける。自分の間違いに気づいたら、ああ、おれの調査能力なんて大したもんじゃないんだな、と反省して、サイトの記載を修正する。自分はそういうサイト運営者でありたい、と肝に銘じます。

 とまあ、ウィキペディアに突っ込んだところで何も生まれませんよね。さっさと忘れて、今日のエントリーです。

 井口朝生さんの父親は、これはウィキペディアを見るまでもなく、よく知られています。作家の山手樹一郎さんです。

 山手樹一郎。本名、井口長次。明治32年/1899年2月11日生まれ、昭和53年/1978年3月16日没。両親は父・浄次、母・よし(旧姓・山手)。大正6年/1917年に明治中学を卒業、中西屋出版部(のちに小学新報社)で子供雑誌の編集に携わり、昭和2年/1927年からは博文館に移ります。

 大正後期に結婚したひでさんとのあいだには、確認できるかぎり6人の子供がいて、その一番さいしょの子供が朝生さんです。大正14年/1925年の生まれですから、長次さんが26歳のときにできた息子です。

 その頃はまだ長次さんは単なる編集者にすぎず、ものを書いてメシを食おうなんて思ってもいません。それがふつふつと(ないしは、安月給に堪えられず)小説を書いてみようという気になって、昭和8年/1933年に『サンデー毎日』の大衆文芸懸賞で選外佳作。山本周五郎さんとか山岡荘八さんとか、そこら辺りの、何十何百のクセをもったような仲間たちと切磋琢磨で読み物小説を書いてはカネに変え、昭和14年/1939年秋に博文館を退社すると、大衆小説作家として筆一本で家族を養います。

 要は、長次さんが「山手樹一郎」となって小説を書き、それを職業にしていく過程に応じて、すくすくと育ったのが朝生さんだったというわけです。朝生さんが編者となった山手さんの『あのことこのこと』(平成2年/1990年12月・光風社出版刊)などを読むと、子供の頃から朝生さんは、山手さんの書いた原稿を雑誌社に届けて小遣いをもらっていたと言います。

 朝生さんが作家になろうと決意したのは、出兵から帰ってきた昭和24年/1949年以後のことだそうです。ふつう作家になろうとする奴は純文学から志向するものだ、と誰かが熱く語っているのを聞いたこともありますが、朝生さんが目指したのは大衆文芸でした。しかも、定期的に勉強会に足を運んで、仲間と語らい、先輩に教えを請う、という小説修業のやり方は、父親山手樹一郎さんの影響をもろに受けています。

 書いているものは軽いけど、小説に向かう姿勢はまじめで真摯。そんな山手さんのことを尊敬していたところから、朝生さんもおのずと大衆文芸に人生を賭ける気になったものと思います。純文学ばかりが文学じゃありません。

 それで苦節ン年、朝生さんは昭和36年/1961年で直木賞の候補に挙げられます。選考委員の何人かは、新鷹会とか山手さんつながりで、すでに顔なじみの知り合いばかりです。けっきょくそういう先輩たちからは、まだまだ修業が足りんな、と一蹴されて、朝生さんと直木賞との接触は一度きりで終わりましたが、直木賞候補になったこととひっかけて、山手さんと朝生さんはいっしょに読み物誌のグラビアに登場させられます。

「まさか忰が小説書きになろうなどとは夢にも思っていなかっただけに、(引用者注:父・山手は)はじめは驚ろかれたらしいが、直木賞候補にあげられるまで成長した朝生さんの姿に、父親らしい慈愛の鞭撻の眼を向けられるこの頃だ。」(『小説倶楽部』昭和37年/1962年春の増刊[3月] 「グラビヤ 親子同業」より)

 ここで直木賞候補になったことを一つの成長ととらえているのがミソです。なぜかといえば、父・山手さんだって直木賞はとることができずに、候補止まり。それでも書きつづけて、作家として一家をなした背景があるからです。

 直木賞はもう90年近くやっています。受賞者も候補者もたくさん生まれてきましたが、親子そろって直木賞の候補に上がり、親子そろって受賞できないままで終わったのは、山手さんと朝生さん、この一組しかありません。

 朝生さんが受賞して、少なくとも直木賞のうえでは親父を超えた……というふうな展開になっていたら、もっと面白かったと思います。しかし、なかなかうまくはいかないものですね。実作のうえでも、朝生さんが親父さんを超えるまでにはとうてい行きませんでしたけど、「落選親子」を完成させただけでも立派なものです。井口朝生、よくやりました。

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2023年7月23日 (日)

門井政喜(料理会社社長)。夢ばっかり追いかけている無職の息子を心配しながら息を引き取る。

 第169回(令和5年/2023年・上半期)の直木賞が決まりました。

 ……と、こんな極小ブログに書いたところで、インターネットは大海原。一時的な直木賞の盛り上がりに乗じる人はたくさんいるはずですが、うちのブログを観にくる人が、別に増えるわけじゃありません。いつもどおり、どうでもいいような「親に関する」直木賞バナシを、だらだら書いていきたいと思います。

 今回は受賞作のタイトルのことから始めます。過去の直木賞で、題名に「母」と入った受賞作はひとつもありません。しかし「父」という単語を含む受賞作なら、一つだけあります。さて何でしょうか。

 いや、知ったかをカマしている場合じゃありませんね。今週のエントリーのタイトルからもバレバレなとおり、門井慶喜さんが書いた『銀河鉄道の父』です。第158回(平成29年/2017年・下半期)の直木賞を受賞したのが、いまから5年以上も前のこと。もはや、ちょっとした昔です。

 作品は、宮沢賢治という実在の著名人と、その父親との関係などを描いたもので、さほど刺激的でも先進的でもなかったんですが、直木賞がイイのは、受賞をきっかけに作者の人間的な背景を、さまざまなメディアがよってたかって掘り起こそうとしてくれるところです。「イイ」というか、ときによってはウザかったり、キショかったり、アクドかったりするんですけど、マスコミ批判はこのさい措いておきます。

 「父」のことを小説に書いた門井さん。ということは、門井さん自身の父親に対する感情も、そこにはきっと込められているんだろう。受賞後のインタビューや取材記事でも、そういう方向性のものがたくさん出ました。門井さんもサービス精神の豊かな人です。相手の求める意図を汲み取り、ええ、そうなんですよ、今回の作品には僕の父への感情がなかったといえばウソになります、とかなり詳しくくっちゃべります。すでに亡くなった父親が、いかに自分の作家人生にとって重要な存在だったか。直木賞を誘い水に、父親のありがたさを世間に向けて語ってくれたわけです。

 門井政喜(かどい・まさき)。昭和18年/1943年頃の生まれで、平成14年/2002年11月27日没。享年は59。けっこう若いです。

 昭和46年/1971年、群馬県桐生市に住んでいるときに、妻フミとのあいだに初めての子供が生まれます。男の子です。政喜さんは自分の名前から「喜」を一字とって、また徳川十五代将軍の名前にあやかって「慶喜」と名づけます。読者好き、歴史も大好きな人だった……というのが、のちに息子が語った政喜さんの姿です。

 それから約5年後に、栃木県宇都宮市に転居。料理人として働いていた政喜さんは、なにをどう思ったか一念発起、自分で会社を興します。職種はやはり「食を提供する」事業で、レストラン、料亭、ケータリングなどを展開する企業です。

 一からの会社経営となれば、相当な激務だったことでしょう。それでも自身の読書習慣は欠かさず続けて、家のなかは本だらけ。そういった環境のなかで慶喜さんは育ち、とにかく作家になることを夢みます。

 政喜さんは、自分の事業を息子に継いでほしい、と思っていたらしいですが、慶喜さんの抵抗は強く、とにかく作家になる人生だけをめがけて、別の仕事に就きます。7年ほど、帝京大学理工学部に勤め、それでもなかなか結果が出なかったので、思い切って小説応募に専念するために退職。すでに家庭をもち、無職の身で、ほんとになれるかどうかわからない作家への夢を追いかけている30歳の息子。政喜さん、そりゃあ心配したでしょう。

 そうこうするあいだに、政喜さんは病に罹り、平成14年/2002年に病没します。いっぽう慶喜さんはあきらめずに小説の応募を続けて、オール讀物推理小説新人賞をとったのが翌年、平成15年/2003年秋のことでした。ああ、間に合わなかったか。

 同賞を受賞したときの、門井さんの記事には父のハナシが出てきます。

「いま何より残念に思うのは、昨年(引用者注:平成14年/2002年)十一月に父を亡くし、受賞を報告できなかったことだという。」(『下野新聞』平成15年/2003年10月8日「この人」より ―署名:学芸部 星雅樹)

 オール讀物の推理小説新人賞なんかとっても、その後、プロとしてやっていけず消えちゃうほどは山ほどいます。そこから13~14年。今度は、直木賞の場でふたたび自分の父のことを語る機会を引き寄せた慶喜さんは、もはや人生が劇的といいますか、やっぱりモッている作家です。

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2023年7月19日 (水)

第169回直木賞(令和5年/2023年上半期)決定の夜に

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 直木賞とは何なのか。

 いつもゴチャゴチャしていて、何のイベントかわからなくなっていますが、そもそも、をたどってみれば、スタートははっきりしています。昭和9年/1934年2月24日に直木三十五さんが死んだことです。

 ということで、直木賞が決まる日には、直木さんを追悼したい! お墓にお参りしたい! とつねづね思っていました。

 7月19日(水)、今日も都心は30度を超え、冷房の効いた部屋のなかで受賞発表中継でも見ようかな、とだらだらしていたところ、よし、頑張って行ってみるかと、ふと思い立ち、えっちらおっちら電車を乗り継いで、神奈川県横浜市金沢区富岡にある、長昌寺の直木さんのお墓を参拝。

 ご存じですか、あなたがいたおかげで、今日も直木賞が賑わっています(?)よ。と候補作をお墓の前に置いて、無事に報告をすませてから、汗だくになったからだに鞭打って、さっき家に帰ってきたところです。……まったく、何してんだろ、オレ。

 いやまあ、直木三十五さんの存在もデカいはデカいんですが、第169回(令和5年/2023年・上半期)の直木賞が面白かったのは、いまを生きている作家のおかげでもあります。昔の文壇や直木賞のことも胸が躍りますが、いま自分が生きている同じ時空で、変わらずに小説がどしどしと書かれ、変わらずに直木賞が行われている。このリアルタイム感があってこその直木賞です。

 今回も、直木賞という場にお出ましいただき、われら読者に楽しみを提供してくれた候補者が5人います。至福の時間をつくってくれて、ほんとうにありがとうございます。

 だいたい、直木賞の候補のなかに月村了衛さんが入っている! というだけでテンションが上がるじゃないですか。チマチマ、ウジウジとした日常が吹っ飛ぶような、爆速でパワフルなストーリー。『香港警察東京分室』でもますますうねる剛腕が炸裂していて、このクソ暑いなか、血がたぎりました。うおーっ、直木賞なんざ燃やし尽くしてしまえ。

 燃やすといえば『骨灰』ですけど、この作品の全編に満ちた冲方丁さんの活力たるや。驚愕の一言です。この調子で走りつづけて、末永くエンタメ小説界に君臨してくれるでしょう。あとは、冲方さんが生きているあいだに直木賞が廃止されちゃうんじゃないか。それだけが心配です。廃止される前に、どうかどこかで受賞してください。

 今年の夏も暑いそうです。いや、「そうです」じゃなくて、現実に暑いです。これがしばらく続くかと思うと気力が萎えますが、ちょうど7月、直木賞の季節に高野和明さんの『踏切の幽霊』に出会えたのは僥倖でした。こ、これは面白い……。怖いとか感動するとか、そういう次元を越えた、読書でのみ味わえる複雑な高揚感にうち震えました。ううっ、高野さんのおかげで、この夏、なんとか乗り切れそうです。

          ○

 前回にひきつづいて今度も二作受賞ということで、ええい、もうどうにでもなれ、のヤケクソ感も伝わってきます。うんうん、いいじゃないのさ、ヤケクソ感。ケチケチしてたって何も始まりません。

 『木挽町のあだ討ち』の山周賞のオビ、引き締まっていてカッコいいですよね。ここに「直木賞受賞」の文字が入ることで、カッコよさが台なしにならないように祈ります。永井紗耶子さんのもつ、気品や真摯さは、直木賞みたいなケバケバしいものが来ても、びくともしないでしょう。さあ、とっちまったら、あとは自由だ、飛び立てサヤコ、未来は明るいぞ。

 垣根涼介さんの歴史小説を読むと、いつもワクワクします。歴史的な事実に沿って進むのに、まったく飽きることなく惹きつけられる。『極楽征夷大将軍』 もそうでした。直木賞がどうとか、そういう些末なことはこのさい忘れて、垣根さんの書く小説、これからも楽しみだなあ、と思わせてくれる魅力あふれた作品だったのは間違いありません。うん、まじで楽しみです。

          ○

 今回の発表時刻は、以下のとおりでした。

  • ニコニコ生放送……芥:17時52分(前期比-25分) 直:18時34分(前期比+10分)

 直木賞をやるためには、おそらくけっこうカネがかかっています。日本文学振興会は、文藝春秋が稼いだ貴重な利益のいくぶんかを使っていますし、ニコ生だって、ただで制作しているわけじゃありません。ネットで発信されるメディアの記事も、たいていギャランティが発生しています。

 そういう大金をつぎ込んだイベントを、ネットの通信費程度のハシタ金で、まるまるみっちり楽しめてしまうのです。まったく現代の直木賞は、神か仏か、と拝みたくなります。

 とりあえず直木さんのお墓を拝ませてもらい、現世のうちに楽しめるなら、汗をかいてでもお出かけしよう、と改めて意を強くしました。前回は直木三十五記念館、今回は長昌寺の直木の墓前、次の第170回(令和5年/2023年・下半期)は、どこで選考日を迎えようか。まだ半年もありますから、そのあいだに考えておきます。

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2023年7月16日 (日)

第169回(令和5年/2023年上半期)直木賞、「親と子供のきずな」ランキング

 ワタクシには親がいます。人間だれにだって親がいます。直木賞の候補者だって例外じゃありません。そりゃそうです。

 ということで、いまうちのブログでは、直木賞の過去の受賞者・候補者と、その親たちのこと、さらには親と直木賞に関係があればそういったエピソードを調べて、毎週書いているんですが、今週はなんといっても直木賞ウイークです。令和5年/2023年7月19日(水)、第169回直木賞の選考会がひらかれます。となればブログも、新しい候補とからめたことを書きたくなるわけです。

 たとえば、『踏切の幽霊』で候補になった高野和明さんといえば、はじめての小説『13階段』のとき、冒頭の献辞に、親のことを挙げた……。

 とか、そういうハナシを、すべての候補者について書けたらいいな。と思ったんですけど、そんなのとうてい調べきれません。ワタクシみたいな一般人が、わざわざ候補者のもとに「あなたの親のことを教えてください」と聞きにまわるわけにもいかず、今週のブログはどうしようかな、と困っていたところ、じゃあ候補者じゃなくて候補作のなかの、親エピソードを並べてみりゃいいじゃん、と気づきました。

 今回第169回の直木賞は候補作が5つ。すべてが親と子供のハナシだからです。

 直木賞といえば昔から、親と子のきずなをどれだけ深く描けるか、深く描いたもんが受賞する、と言われています。なので、とりあえず今週はワタクシの主観で、それぞれの作品に出てくる親子のきずなの強さを基準に、第1位から並べてみることにしました。

          ○

1. 死んでしまったあとでも、母親の暮らす故郷に帰りたがった娘

(『踏切の幽霊』高野和明)

 タイトルどおり、踏切にぬぼーっとでてくる幽霊がいます。それがどんな人物で、どんな人生を送ったのか。まさに小説のキモの部分ですから、さすがにここで多くは語れません。

 ただ、どんな事情が親子にあったのかは、小説を読んでもらえればわかります。故郷を離れ、母とも別れて暮らすようになった娘。死んでしまってもなお、母(というか子供のころに過ごした土地)に心を残しているんですから、きずなの強さは相当なものでしょう。

2. 死んだ父親の声を聞いて、どんどん壊れていく息子

(『骨灰』冲方丁)

 松永光弘は大企業に勤める32歳のサラリーマンです。かつて父親の幸介は、仕事がうまくいかずに家族に暴力をふるうようになり、やがて癌で亡くなります。すでにこの世の人ではありません。

 しかし、光弘が仕事で渋谷再開発に関係する工事現場で起きたトラブルに巻き込まれるうち、その父親が突如、光弘の近くに現れます。声をかけて光弘を励ましているように見せかけて、それで背中を押された光弘は、だんだん正気ではなくなって、トラブルはとんでもないものに膨れ上がっていきます。

 最終的に、亡父の悪霊からは解放されますが、それまでの取り憑きかたがエゲツないです。

3. 父親の死を聞いて、まわりが引くぐらいに嘆き悲しむ息子

(『極楽征夷大将軍』垣根涼介)

 長くて長くて、途中からめまいがしてくるこの小説のなかでも、足利高氏(のち尊氏)が父の貞氏を亡くすのは、序盤も序盤。ちょうど第一章から第二章の境あたりです。

 山城の笠置山で、後醍醐天皇が鎌倉幕府討幕を旗印にたてて挙兵した大騒動の時期に重なっています。ここで鎌倉方にいた高氏がどうしたか。といえば、わしは戦場なんか行きたくない、とまるで消極的だったんですが、父親に対する高氏の異様なほどの弔意がそうさせたんだそうです。

 「父はこの世に一人しかおらぬのだっ。母もそうだ。」と、作中で高氏が叫んでいます。このあけっぴろげな純真さ。高氏の魅力です。

4. 父親を殺めたという罪状を負った下男を見つけて、あだ討ちする息子

(『木挽町のあだ討ち』永井紗耶子)

 そりゃあ仇討ちといえば、親のカタキを打つ子供、というのが定番です。この小説の筋立ても、やはりその枠組みで展開します。

 伊納清左衛門を殺めたかどで下男の作兵衛が出奔。それを追って、清左衛門の息子、菊之助が江戸にやってきて、作兵衛を見つけ出し、みごと仇を討った。と、ここまでのハナシから、親と子のきずなも文句なしです。

 しかし、それで終わってしまったら、この小説がこれほど各所で絶賛されるはずがありません。実は、菊之助によるあだ討ちには別に真相があった……、と続くんですが、こうなってくると親子のきずなというより、さまざまな立場の人たちによる思いやりややさしさが、ぐっと前面に出てきます。で、きずなを基準にしたランキングは、第4位にしちゃいました。すみません。

5. 母親に、政府機関に協力してほしいと涙を流して頼んだ息子

(『香港警察東京分室』月村了衛)

 これも「親と子供のハナシ」だと言っちゃうと、ほとんどネタバレです。まあ、小説のネタは絶対バラすな、なんちゅう原理主義者は、こんなブログ見ちゃいないでしょうから、別にバラしてもいいんですが、香港で自由の風をまきおこそうとしていた人が、じつは中国の政府機関と裏でつながっていた、と明らかにされます。

 どうして、影響力の大きい民主活動家が、国家権力なんかとつながってしまったのか。それは、生み落として以来、20数年会っていなかった実の息子に久しぶりに会い、涙ながらに、政府機関に協力してほしいと頼んだからだ、と言うのです。

 自分の信念をまげてまで息子の頼みを聞いた親のほうの愛情は、よくわかります。ただ、息子が親をどう思っていたのか。と、そこに目を向けると、きずなランキングはやはり第5位にせざるを得ません。

          ○

 7月19日(水)選考会が開かれます。選考委員はぜんぶで9名。だれひとり例外なく、親のいる(いた)子供たちです。

 選考会では、だれも作中の親子のきずなになんて言及しないかもしれません。だけど、心の奥底や深層心理では、きっとそこの部分で評価が変わったり、当落が左右されたりするに違いない。と、無理やり信じて当日の結果を待ちたいと思います。

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2023年7月 9日 (日)

今あや(日本郵船社員の妻)。二人の息子が直木賞をとった、という史上唯一の母。

 直木賞をきょうだいで受賞したのは今さんちの悪ガキたち。芥川賞は吉行家。……というのが、両賞にまつわるクイズ問題の定番です。つまりはどうでもいいクソ知識です。

 兄弟二人が両方ともに直木賞を受けた例は、これまで一例しかありません。そんなこと知っていても、人生何のプラスにもなりませんが、プラスにならなくたって、人間は生きています。むかし男と男、時をまたいで兄弟が受賞した、となればそこには同じ親がいたわけです。直木賞を調べることは、けっきょくは人間を調べることに(も)つながります。

 第23回(昭和25年/1950年・上半期)に受賞した今家の三男、日出海さんと、第36回(昭和31年/1956年・下半期)受賞の長男、東光さん。父親は今武平さんで、明治元年/1868年青森・弘前の出身。日本郵船に勤めて日本各地を転々とし、死んだのは昭和11年/1936年8月16日。東光さん38歳、日出海さん32歳のときです。すでに二人とも文学の道に入って、親に不安と心配をかけていた時分ですが、もちろん直木賞のことなんか武平さんの頭には何の印象もなかったでしょう。

 となると、やはりここで取り上げたいのは、武平さんより長く生きたその妻のことになります。

 今あや。旧姓・伊東。明治2年/1869年6月11日生まれ、昭和31年/1956年1月27日没。武平さんと同じく弘前に生まれ、長じて二人はいっしょになりますが、このあや(「綾」とも書く)さんはとにかく頭脳明晰、才気煥発。若いころは東京の明治女学校に通いながら、古典になじみ、わたしもいつか文学でひと花咲かせてやろうか、と思っていた、というのですから、相当の変り者です。

 のちに東光さんは、昭和9年/1934年4月・立命館出版部刊『祇王』の「跋文」で、あやさん自身から聞いた逸話を代わりに書き留めています。明治20年/1887年ごろ、というのであやさん18歳の頃、九段中坂にあった硯友社の尾崎紅葉さんの家をひとり訪ねて、自分がいかに文学で身を立てたいと思っているか、熱をこめて語ります。いやいや、女性は文学なんてやるもんじゃないですよ、と紅葉さんに説得されて、じっと聞き入っていたところ、紅葉さんのうしろにいた男が、「僕と結婚なさい。さうすれば僕が小説家にしてあげますよ」と剽げたことを言ってきたんだそうです。その男が、山田美妙さんだったんだ、と東光さんは書きます。

「その当時の母の言葉によると、中坂を下つて飯田橋の土手で、水清き江戸川を眺めながら、泣けて仕方がなかつたといふのである。硯友社文人のデカタン気質の一面には、私の母のやうなミツシヨン出の処女にはなづむことが出来なかつたのであらう。

母は、美妙にだけ悪い印象を残したきり、病のため弘前に帰つた。さうして文学志望を思ひ絶つと共に結婚する気になつたらしい。(引用者中略)一葉女史が出、夏葉女史が出た時に、母は自分の志を捨てたことを残念だと思つたが、同時に子供の一人は文学者にしたいと念じた。」(『祇王』所収 今春聴「跋文」より)

 ほんとかよ、と思いますが、なにしろ東光さんのことです。ハナシが面白くなるように多少は脚色入れちゃっているかもしれません。いや、もしかしたら、あやさん自身が色をつけて息子に話して聞かせた可能性もあります。真偽はわかりません。

 武平さんと結婚したあやさんは、夫の仕事にくっついていきながら、四人の男子を生み落とします。そのうち四番目の子は夭折しましたが、三人の子はすくすくと成長。猛女あやさんの血が流れる子供ですから、成長するうちにみんな、勝手なことを言い始め、文学やっていたと思えば出家しちゃうわ、親のスネかじっているくせに新進女優と恋仲になって新聞をゴシップでにぎわすわ、あやさん、心の休まるひまもありません。

 一人でもいいから子供を文学の道に、という夢は、けっきょく叶ってしまいます。おれは組織の下では働きたくねえ、とかブーブー言っていた三男・日出男さんが、戦前から文学仲間たちと交流を結んでいた成果を、戦後になって実らせて、昭和25年/1950年9月に直木賞を受賞。あやさん、81歳のときです。

 うれしがったのか。それとも、「直木三十五の賞なんて、どうしようもない」と悪態をたれたのか。いまはちょっとわかりませんが、天真爛漫、自由にものを言う毒舌ぶりは、あやさんも相当だったらしいので、オモテでは直木賞なんて馬鹿バカしいと言っていたとしても、何の不思議もありません。ただまあ、これで何とか作家としてやっていけそうな息子の姿を見て、安心してくれたのならいいんですけど。

 その後、あと少しだけ生きていれば、もう一人、息子が直木賞をとるところを見られたのに……という年まで命をつなぎましたが、東光さんの直木賞受賞が決まる昭和32年/1957年1月を待つことなく、前年の昭和31年/1956年1月27日に86歳で亡くなりました。場所は、同居していた東光さんの大阪府八尾「天台院」の住まい。東光、文武、日出海の3人の息子に看取られ、東光の読経におくられてあの世に旅立ったそうです。

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2023年7月 2日 (日)

太田静子(『斜陽日記』著者)。人生の半ばも、人生終わったあとも、なぜか直木賞と縁のある人。

 芥川賞に対して、コノヤロウ、と思うことは山ほどあります。

 ……間違えました。「芥川賞のことを文学の代表と見なして、それをイジることで、オレってかっちょいい、と思っているらしい輩たち」に対して、コノヤロウ、とはたびたび思います。

 たとえばです。そういう人たちはよく、太宰治さんの芥川賞ネタをこねくり回します。さらには津島佑子さんとか、その娘、石原燃さん含めて、芥川賞のことをあれこれ言います。「芥川賞の呪い」だとか何だとか。

 だけど、直木賞にだって呪いはあるんだよコノヤロウ。太宰さんが芥川賞で落ちたとき、檀一雄さんは「直木賞をとれよ直木賞を」と慰めたそうですが、けっきょく太宰さんは直木賞をとれませんでした。

 何が「芥川賞がだめなら直木賞をとれ」だ。直木賞をなめちゃいけません。芥川賞の代替品あつかいしやがって、まったくろくでもない人たちです。それから時を経て、娘の太田治子さんは第93回(昭和60年/1985年・上半期)で直木賞の候補になりましたが、あっさりと落選しました。直木賞の呪いです。

 芥川賞のほうばっかじゃなくて、もう少し、直木賞のエピソードにも注目してくれよ、と思います。ただ、いまになってもこの世のなかは「芥川賞をネタ化する」人たちが牛耳っていて、直木賞のほうは盛り上がりに欠けています。コノヤロウ、と腹が立つゆえんです。

 ということで今週は、太田治子さんの親のハナシです。

 父親・太宰さんが有名だったことのおこぼれを受けて、母親の太田静子さんも言わずもがなの有名人です。大正2年/1913年8月18日生まれ、昭和57年/1982年11月24日没。先週とりあげた斎藤鈴子さんの『刀工源清麿』と同じく、太田治子さんの場合も、親の存在がなければ、まず『心映えの記』(昭和60年/1985年2月・中央公論社刊)が書かれることはなく、その作品が直木賞候補になることもなかったでしょう。

 しかも静子さんは、直木賞と少なからず縁ある人でもありました。縁をとりもったのが太宰治さんの「斜陽」です。

 太宰さんの「斜陽」がどのようにして誕生したか。これはもう、いまさらのことなので端折ります。静子さんがいたからこそ生まれ出たのは間違いありませんが、この作品は、昭和22年/1947年に『新潮』に連載されたのちに、単行本としても発売されます。

 すると翌年、昭和23年/1948年4月に開催された直木賞の選考委員会で、授賞検討の話題にのぼりました。うちのサイトの「幻の直木賞戦後復活選考会」というページで紹介したとおりです。

 このとき「斜陽」が直木賞をとっていたら……。ああ、惜しまれてなりません。

 もうひとつ、静子さんが直木賞と接近した件を挙げるとすると、それは檀一雄さんとの交信です。檀さんの「熱風」(『新潮』昭和25年/1950年11月号)という作品に静子さんが出てきます。

 「熱風」は檀さんが夕刊新聞に「石川五右衛門」を連載することになったところから書き出され、その流れのなかで静子さんが『あはれわが歌』を出版してほしいと一書肆に依頼してきたエピソードが語られます。

 この二つの逸話を並べた檀さんの作意を、以下のように評したのが浅見淵さんです。

「作者の伝奇小説「真説石川五右衛門」は昭和二十六年に直木賞を受賞して、作者が大衆文学畑でも確たる作家的位置を占めた作品である。(引用者中略、注:「熱風」の作中で)「真説石川五右衛門」の荒唐無稽さがよく肉附けされていて、われわれを作中に引摺り込んで行く所以のものも解明されており、その意味でも興味深い。そして、主人公は気負い立つているが、今度はそれと対照的に、かつての盟友太宰治の愛人で、「斜陽」のモデルだという太田静子の来訪を描き、その貧に窶れた姿に暗然としている。つまりは作家生活の明暗といつたものを取扱つているわけだ」(昭和35年/1960年12月・筑摩書房刊『新選 現代日本文学全集26 檀一雄集』 浅見淵「解説」より)

 明暗、とはさすがうまいことを言いますよね。生きている檀さんは、商業ジャーナリズムの渦に飛び込んで「石川五右衛門」を書き、直木賞を得る。いっぽう死んでしまった太宰さんは、もはや新しい作品を出していくこともできず、「斜陽」をきっかけに私も小説書けるかしらと思って文章を書いた太田静子さんは、けっきょくイロモノ扱いされて、文芸の世界では活躍できませんでした。

 その後、静子さんは一人娘の治子さんと歩みます。すると、治子さんはすくすくと成長、大人になって物を書くようになり、静子さんが死んだあとで、母娘の生活ぶりを描いた『心映えの記』で直木賞の候補に上がります。あるときは明暗に分かれていたものも、ときが経てばどうなるかわかりません。まあ直木賞のほうは、やっぱり「呪い」のせいで(?)とれませんでしたけど、坪田譲治文学賞をとって、治子さんの物書き生活に一気に明るい日差しがさし込みました。よかったです。

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