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2023年6月11日 (日)

中一弥・操(挿絵画家と妻)。息子の受賞パーティに出席した親と、できなかった親。

 直木賞と親のこと。このテーマで行くのなら、絶対に取り上げなくちゃいけない人が何人かいます。そのトップクラスに位置するのが、中一弥さんでしょう。有名人です。

 いや、中一弥と言っても、一般に名は通らないかもしれません。でも、中一弥&逢坂剛といえば、だいたいの日本人はうなずきますよね。……って、まあ、世間で知られているかどうかを基準にするのはやめときましょう。少なくとも直木賞の歴史のなかでは、超がつくほどの有名親子です。

 中一弥、本名・中福寿(なか ふくじゅ)。明治44年/1911年1月29日、大阪生まれ。平成27年/2015年10月27日没。家は早船を使う運送業を営んでいましたが、子供の頃から本が好き。とくに立川文庫に入っている口絵が大好きで、おれも絵を描いてみたいなあと憧れる子供でした。

 小学生の頃に目を患って、それを契機に学校には行かなくなります。まもなく多感な少年時代、街で見かけた映画館の看板に目を奪われると、看板職人の道に。16歳まで京都で看板書きの修行に没頭します。

 ところが、そんなとき『大阪朝日新聞』の夕刊で連載されていた大佛次郎さんの「照る日くもる日」を見て、おーっ、おれの進む道はこれだ、と開眼。小田富弥さんが描く同作の挿絵に、完全に脳天ぶち抜かれてしまったのです。宝塚に住んでいた小田さんの家に、自分の絵を持参して弟子入りを懇願し、見込みがあると認められて、首尾よく小田さんところに住み付きます。それが昭和2年/1927年のときです。

 しばらくは、絵を描いて師匠に見てもらう、といった日々を送りますが、弟子入りから2年ほど経ってチャンスが舞い込みます。新進の大衆作家として売り出し中の……まだ『南国太平記』で大当たりする前の直木三十五さんが、『名古屋新聞』で新しい連載が決まる。直木さんと小田さんは、前から親しかったもんですから、「小田さん、お宅の書生さんで誰か、おれの絵を描いてくれそうな人はいないですかね」と直木さんから話が持ち込まれ、それならこいつがいいんじゃないか、と小田さんが推薦し、中さんが抜擢されます。同紙で直木さんの「本朝野士縁起」が始まったのは昭和4年/1929年12月からでした。

 『挿絵画家・中一弥 日本の時代小説を描いた男』(平成15年/2003年2月・集英社/集英社新書)によれば、その前の昭和4年/1929年5月にも、『神戸新聞』連載、葉多黙太郎さん作の「平安異香」に挿絵を描いていて、直木さんのものが初めての挿絵ではないそうです。それでも、中さんの挿絵デビューは直木三十五だったと、逢坂剛さんが直木賞をとったときにもしきりに公言され、それが一組の親子と直木さんを結ぶ美談(?)として知られるようになったのは間違いありません。まあ、それでいいんじゃないでしょうか。

 さて、父のハナシはそれでいいとして、逢坂さんの母についても書いておきたいと思います。操(みさを)さんのことです。

 一弥さんと操さんが結婚したのは昭和9年/1934年暮れ。ともに小田さんところに通っていた弟子仲間で、操のほうが後輩だったと言います。

 結婚後、操さんは画業から離れて、昭和10年代に三人の子をなしました。ところが30歳をすぎてまもなくの昭和20年/1945年1月、肺病を患い、そのまま命を落とします。昭和18年/1943年11月に生まれた浩正さん、つまりのちの逢坂さんは生後1年3か月ほど。もちろん、まったく母の記憶がありません。

 父の一弥さんは後妻をとらず、一人で三人の息子を育てましたので、逢坂さんにとっての親とは、家にこもって絵ばかり描いている父のことです。母がいない。その環境で学校に通い、大人になるあいだ、母の愛情を知らずに育ったことは、おそらく自分が小説を書き始めることになる何らかの影響があったものと思う、と後年語っています。

 昭和62年/1987年1月、逢坂さんは第96回(昭和61年/1986年・下半期)に直木賞を受賞しました。息子と父の写真がたくさん撮られて、いろんなメディアを飾りましたが、やはりそこに母親の姿はありません。

 直木賞をとったときに、父がいるか、母がいるか、どちらもいないか。……偶然のなりゆきで決まることです。いずれのケースだったからといって、別にどうということはないんですけど、逢坂さんにとっては、意識せざるを得ないことだったようです。

 平成6年/1994年、逢坂さんは直木賞と親のことで、こんな感慨を述べています。

「結婚したあと家内の母親と親しく話したりするうちに、やはりおふくろがいたらよかったなあ、と思うようになったことも事実である。さらに、ここ一年ほどの間に出久根達郎、高村薫、大沢在昌と立て続けに親しい作家が直木賞を受賞し、パーティでそれぞれのご母堂の喜びに満ちたお顔を拝見するにつけ、いささかうらやましくなる傾向があった。

しかし一方でこの三氏のご厳父は、申し合わせたようにすでに他界しておられる。(引用者中略)三氏の立場から見れば、今度はわたしがうらやましがられる番だろう。人間の幸不幸は、まさにあざなえる縄のごとし、である。」(平成6年/1994年10月・中央公論社刊『私の父、私の母』所収 逢坂剛「めでたくもあり、めでたくもなし」より)

 直木賞の受賞パーティに、生み育ててくれた元気な両親に来てもらう、というのは、そう当然なことでもないんだなと思います。長く生きた父親と、短命で亡くなった母親。逢坂さんの場合はかなり極端でしたが、その極端さがより鮮明に出たのが、直木賞のパーティだったんですね。きらびやかなようであり、考えさせられる場面でもあり。直木賞の多面な性格が、よく出ています。

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