光岡均(陸軍中佐)。自らの生と死をもって、息子に小説の筆をとらせる。
第169回(令和5年/2023年・上半期)の直木賞候補が発表されました。こういうときは騒ぎに乗じるのが正しい直木賞ライフだと思うんですけど、うちのブログはたいてい邪道です。今週も、最新の候補とは何ひとつ関係ないハナシで行きたいと思います。
過去の受賞者のなかに、ワタクシお気に入りの作家が何人かいます。光岡明さんなんかはその一人です。ともかく全然売れる作家ではなかった。そこが最高にイカしています。
直木賞をとらなかったら、たぶん熊本に埋もれる地方作家の一人で終わったでしょう。しかし運よく直木賞に引っかかったおかげで、東京でつくられる雑誌にも多くの文章を発表しました。両親のこともいろいろと書いています。とくに事あるごとに出てくるのが、父親のハナシです。
光岡均。明治36年/1903年2月1日生まれ。昭和48年/1973年12月没。まさか息子が直木賞をとるとは、まったく知らないうちに亡くなります。いや、直木賞どころか、息子が小説を書く姿も見ずにこの世を去ったらしいです。だけど、息子の明さんからすると、この父親がいたから直木賞がとれた……小説の創作を始める最大の功労者だったのだ、と言います。
父の均さんは根っからの軍人でした。おれは軍隊に入りたいんだ、合法のもとに人をたくさん殺したいんだ、と思っていたのかどうなのか、志願理由はわかりませんけど、大正13年/1924年に陸軍士官学校を卒業すると、日本を守る一本のネジとしてその身を捧げます。
やがて同郷熊本の高瀬ヤスさんと結婚。二人の息子をもうけます。長男が、昭和7年/1932年生まれの明さんです。
昭和20年/1945年まで中国戦線を転々とし、敗戦のときは陸軍中佐。桂林地区に勤めていました。光岡均42歳、すべてはお国のために歩いてきた人生です。戦いにやぶれ、軍も解体、均さんは茫然と方途を失い、そこからはだらだらと無気力な日々を送った……。と明さんは振り返ります。
均さんが亡くなったのは昭和48年/1973年。明さんは41歳を迎えていました。父が敗戦で将来の人生をあきらめた年齢とだいたい同じです。小学校の同級生に藤島泰輔さんがいて、その藤島さんが編集していた『浪曼』昭和49年/1974年10月号に、「死に憑く」という小説を発表します。
それが草柳大蔵さんに褒められて、小説を書くようになってから約7年。第86回(昭和56年/1981年・下半期)で直木賞を受賞します。受賞作の『機雷』は、戦争のことを描いているぐらいですから軍人だった父親のことは無視できません。もちろん、あとがきにも父親のことが出てきます。
父の人生は何だったのか。人の生き死にとは何なのか。新聞記者を勤める光岡さんは、小説を書くことでそのテーマを考えつづけることになります。
「私は父の死後、はじめて本格的に父の経歴を調べはじめた。戦後、私は父とほとんど口をきいていなかったのがくやまれた。「親孝行をしたいときに親はなし、さ」と、私は自嘲した。結局、父の像ははっきりとはわからない、いまでも。しかし、父の像を調べながら、記事と小説の両方を知ったことが、私をまともな人間にしてるのかな、と思う。」(『別冊文藝春秋』193号[平成2年/1990年10月] 光岡明「回る炭とり」より)
戦後、ほとんど何も語ろうともせず、ただ死んでいっただけの(と言われる)均さんも、息子にこれほど重いものを残していったのですから、無駄な生ではなかったのでしょう。
父の分まで懸命に書いて書いて書き抜いた明さんの文章も、けっきょくいまとなっては誰も読む人がいないのは、かなり悲しいことですが、まあそれは仕方ありません。またいずれ、どこかで誰かが光岡さんの文業に光を当ててくれる日を祈るばかりです。
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