平岩満雄(代々木八幡神社宮司)。娘が直木賞を受けた夜、げっそり疲れ果てる。
第41回(昭和34年/1959年・上半期)に直木賞を受賞したのが平岩弓枝さんです。実家はよく知られています。渋谷区にある代々木八幡宮です。
そこで父親が宮司をしていました。社務所がそのまま自宅です。家には使用人がゴロゴロといて、にぎやかだったそうですが、平岩さんは一人っ子なので、幼いころは同世代の友人がいません。遊び相手はいつも父や母だったのだ、と回想されています。
父の名は平岩満雄。明治40年/1907年5月22日、東京生まれ。平成5年/1993年8月8日没。もともとは旗本だった家柄の矢島家に生まれた人です。なので旧姓は「矢島」といいます。
実家は明治になって職業が変わり、渋谷・千駄谷八幡神社の神職をしていましたが、父の矢島慎吉が急死。入り婿が後を継ぎ、14歳だった満雄は近くの代々木八幡神社へ養子に出されます。その代々木のほうで宮司を務めていたのが平岩家です。皇典講究所神職養成部を卒業して代々木八幡の社掌となると、昭和5年/1930年、23歳のときに箱根神社の巫女だった武子と結婚します。昭和7年/1932年3月15日に、長女、弓枝誕生。
長いこと剣道を続けていて、おそらくそういった縁から刀剣にも関心を深めます。刀についてのあれこれを、かわいい一人娘に話して聞かせることも多かったらしいです。
正直、弓枝さんはほとんど刀のことはわかりませんでしたが、のちに小説を書くようになったとき、父から聞いた刀剣界隈のことを題材に選んだのですから、この父あっての娘の直木賞、とは言えるでしょう。刀剣鑑定師と偽銘入りの名人のことを書いた「鏨師」で、あっとびっくり直木賞を受賞します。
満雄さん自身は、小説を書いたことはありません。ただ、物を書いたことがなかったわけじゃなく、『物語 八幡宮縁起 武蔵国代々木野』(昭和17年/1942年7月・八幡神社々務所刊)なる冊子を執筆したことがありました。鎌倉時代の建暦2年に始まったと言われる代々木野の八幡宮について、その歴史をさまざまな史料をもとに組み立てながら、物語風に記したものです。
幼い弓枝さんは思います。それはそれで史料的な価値があるけれど、やっぱりもう少し一般にも伝わるように小説にしたらいい。いつか私が歴史小説として書いてみたいな、と。戸川幸夫さんの弟子として、長谷川伸さんの門下に入る前から、ずっとそれだけは頭のなかにあったと言いますから、弓枝さんが作家になるまでの道に、父の背中が大きくそびえていた、と言っておきたいと思います。
弓枝さんは若くして直木賞をとりました。ですので両親も健在でしたし、受賞したのも代々木八幡に住んでいたときのことです。直木賞受賞の風景に、父も当然出てきます。
弓枝さんが受賞の報を聞いたのは外出先です。踊りの稽古のために、深川の西川鯉男さんのところにいたところ、文藝春秋新社の係りから電話がかかってきたのです。それから文春から迎えの車がくる、同乗して文春まで行く、芥川賞をとった斯波四郎さんといっしょに取材陣のインタビューを受ける、その足でフジテレビに連れていかれて、三木鮎郎さん司会の「スター千一夜」に、斯波さん、渡辺喜恵子さんと出演させられる、それが終わるとまた文春に返されて、ふたたび取材やら撮影やら、今後の打ち合わせやらが続く。先に何があるのかわからない、てんやわんやの時間を過ごします。
解放されたのは夜10時すぎです。文春の車で神社の前まで送ってもらいます。ようやくそこで弓枝さんは両親と顔を合わせます。
「「ただいま」
と草履をぬぐ。
「おかえり」
父と母がげっそりした顔を並べた。今まで電話と来客で右往左往していたという。
「どうも、お疲れさまで……」
私はひどく悪い事をしたような気がして手をついた。父と母が同時に言った。
「いいえ、どう致しまして、あなたこそお疲れさまで……」」(昭和42年/1967年4月・現文社刊、平岩弓枝著『随筆 お宮のゆみちゃん』所収「その日の三時間」より)
この日、弓枝さん自身、直木賞の選考会があるとは知らなかったそうです。ということは、父の満雄さんも母の武子さんも、おそらく知らなかったでしょう。
突然やってきた嵐の数時間。その意味では、弓枝さん以上に、急に暴風に襲われたという感覚は強かったはずです。
直木賞のせいで(いや、直木賞をとりまく騒ぎのせいで)、満雄さんと武子さんには要らぬお手間をかけてしまいました。お疲れさまでした。
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