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2023年6月の5件の記事

2023年6月25日 (日)

斎藤一郎(刀剣鑑定売買師)。源清麿の刀に一生を捧げて、直木賞史に名を残す。

 直木賞の候補作には、親と子のつながりがなければ絶対生まれなかった、という作品がけっこうあります。

 けっこうあるので、全部取り上げられるかどうかわかりません。一つでも多くピックアップしたいな、と思いますが、まずはこれ。第52回(昭和39年/1964年・下半期)の候補作、『刀工源清麿』(昭和39年/1963年10月・徳間書店刊)は外せないでしょう。

 作者は斎藤鈴子さんです。その後、小説家にはなりませんでしたけど、占星術のほうで多少名を知られる人になりました。

 その鈴子さんが初めて書いた小説が『刀工源清麿』です。あとがきに父親のことが出てきます。

「私の父は三十年もの間、清麿刀を愛しつづけてきた。だから、生まれ落ちると同時に、私の心の中には清麿という一人の男が座を占めていた。

(引用者中略)

父は、書き終えて蒼ざめている私の心も知らず喜びに浮きたっている。私はこの父に三十年間、いろんな意味で不幸のしっぱなしだった。それを僅か二年余の苦しみで書きあげたこの小説で全部帳消しにしようというのだ。己れの人間及び技の未熟さを晒すぐらい、我慢すべきかもしれない。」(『刀工源清麿』「あとがき」より)

 鈴子さんが小説を書いたのは、清麿の刀にぞっこん惚れ込んで人生を歩んできた父がいたからだ、というのは間違いありません。

 斎藤一郎。明治33年/1900年10月生まれ。昭和49年/1974年6月12日没。神田の老舗の洋紙問屋、いわばわんさかカネのある家で育った一郎さんは、20歳ごろから日本刀の魅力に開眼。これぞと思う刀をごっそごっそと買い集めては、なんだあの若者はと、じわじわと刀剣界で知られるコレクターになります。

 その蒐集にかける情熱はハンパありません。いったいそんなことをしてどうするのか。自己満足にすぎないんじゃないか。はたから見れば、そんなものに熱を上げて馬鹿バカしい、とすら思えなくもないんですが、当人にとって命に替えがたい大切なものなら、それは仕方ありません。他に商売をしながらも、刀剣の愛好心だけはまるで揺るがずに、家族を養います。

 紙問屋から離れて、刀剣鑑定と売買だけで食っていけたのか。よくわかりません。『新婦人』昭和40年/1965年3月号「2DKから生れた時代小説 直木賞候補の斎藤鈴子さん」の記事によると、東京からいっときは静岡県の伊東に住んだこともあるらしく、ふたたび東京・板橋に越してきたときには外国人相手に土産物を売るスーベニール・ショップをやっていたんだとか。

 しかし、刀剣界では、清麿好きの斎藤といえば知らぬ者なし、と言われるほどの存在だったみたいで、やがては刀剣一本で生活を立てるようになっていった……と思われます。まあ、このあたりもワタクシの想像が多分に入っています。

 娘・鈴子さんの『刀工源清麿』は直木賞の候補になりました。それについての一郎さんの感想や言動は、とくに残っていません。ただ、同作の完成と出版を無用に喜んでいたようなので、直木賞の候補になっただけでも、父親孝行は十分に果たせたものと思います。

 あまりに清麿に心酔しすぎて、一郎さんは、刀剣の鑑定売買をなりわいにした会社を株式会社にするとき、ずばり「清麿」という社名をつけたほどです。東京四谷の宗福寺にある山浦環=源清麿のお墓の隣りに、生前から自分の墓を建立。年をとるにつれ、早くあの墓に入りたい、早く清麿の隣りで眠りたい、と言っていたといいますから、直木三十五さんの墓の隣りに自ら墓をつくった胡桃沢耕史さんの、執念というか異常さと同じものを、一郎さんからも感じます。

 直木賞の歴代候補作リストをつくったときに、「源清麿」という言葉が含まれているのは、明らかに、一郎さんのぶっ飛んだ清麿推しがあったからです。ぶっ飛んだ愛情も、バカにしたものではないですね。

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2023年6月18日 (日)

光岡均(陸軍中佐)。自らの生と死をもって、息子に小説の筆をとらせる。

 第169回(令和5年/2023年・上半期)の直木賞候補が発表されました。こういうときは騒ぎに乗じるのが正しい直木賞ライフだと思うんですけど、うちのブログはたいてい邪道です。今週も、最新の候補とは何ひとつ関係ないハナシで行きたいと思います。

 過去の受賞者のなかに、ワタクシお気に入りの作家が何人かいます。光岡明さんなんかはその一人です。ともかく全然売れる作家ではなかった。そこが最高にイカしています。

 直木賞をとらなかったら、たぶん熊本に埋もれる地方作家の一人で終わったでしょう。しかし運よく直木賞に引っかかったおかげで、東京でつくられる雑誌にも多くの文章を発表しました。両親のこともいろいろと書いています。とくに事あるごとに出てくるのが、父親のハナシです。

 光岡均。明治36年/1903年2月1日生まれ。昭和48年/1973年12月没。まさか息子が直木賞をとるとは、まったく知らないうちに亡くなります。いや、直木賞どころか、息子が小説を書く姿も見ずにこの世を去ったらしいです。だけど、息子の明さんからすると、この父親がいたから直木賞がとれた……小説の創作を始める最大の功労者だったのだ、と言います。

 父の均さんは根っからの軍人でした。おれは軍隊に入りたいんだ、合法のもとに人をたくさん殺したいんだ、と思っていたのかどうなのか、志願理由はわかりませんけど、大正13年/1924年に陸軍士官学校を卒業すると、日本を守る一本のネジとしてその身を捧げます。

 やがて同郷熊本の高瀬ヤスさんと結婚。二人の息子をもうけます。長男が、昭和7年/1932年生まれの明さんです。

 昭和20年/1945年まで中国戦線を転々とし、敗戦のときは陸軍中佐。桂林地区に勤めていました。光岡均42歳、すべてはお国のために歩いてきた人生です。戦いにやぶれ、軍も解体、均さんは茫然と方途を失い、そこからはだらだらと無気力な日々を送った……。と明さんは振り返ります。

 均さんが亡くなったのは昭和48年/1973年。明さんは41歳を迎えていました。父が敗戦で将来の人生をあきらめた年齢とだいたい同じです。小学校の同級生に藤島泰輔さんがいて、その藤島さんが編集していた『浪曼』昭和49年/1974年10月号に、「死に憑く」という小説を発表します。

 それが草柳大蔵さんに褒められて、小説を書くようになってから約7年。第86回(昭和56年/1981年・下半期)で直木賞を受賞します。受賞作の『機雷』は、戦争のことを描いているぐらいですから軍人だった父親のことは無視できません。もちろん、あとがきにも父親のことが出てきます。

 父の人生は何だったのか。人の生き死にとは何なのか。新聞記者を勤める光岡さんは、小説を書くことでそのテーマを考えつづけることになります。

「私は父の死後、はじめて本格的に父の経歴を調べはじめた。戦後、私は父とほとんど口をきいていなかったのがくやまれた。「親孝行をしたいときに親はなし、さ」と、私は自嘲した。結局、父の像ははっきりとはわからない、いまでも。しかし、父の像を調べながら、記事と小説の両方を知ったことが、私をまともな人間にしてるのかな、と思う。」(『別冊文藝春秋』193号[平成2年/1990年10月] 光岡明「回る炭とり」より)

 戦後、ほとんど何も語ろうともせず、ただ死んでいっただけの(と言われる)均さんも、息子にこれほど重いものを残していったのですから、無駄な生ではなかったのでしょう。

 父の分まで懸命に書いて書いて書き抜いた明さんの文章も、けっきょくいまとなっては誰も読む人がいないのは、かなり悲しいことですが、まあそれは仕方ありません。またいずれ、どこかで誰かが光岡さんの文業に光を当ててくれる日を祈るばかりです。

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2023年6月11日 (日)

中一弥・操(挿絵画家と妻)。息子の受賞パーティに出席した親と、できなかった親。

 直木賞と親のこと。このテーマで行くのなら、絶対に取り上げなくちゃいけない人が何人かいます。そのトップクラスに位置するのが、中一弥さんでしょう。有名人です。

 いや、中一弥と言っても、一般に名は通らないかもしれません。でも、中一弥&逢坂剛といえば、だいたいの日本人はうなずきますよね。……って、まあ、世間で知られているかどうかを基準にするのはやめときましょう。少なくとも直木賞の歴史のなかでは、超がつくほどの有名親子です。

 中一弥、本名・中福寿(なか ふくじゅ)。明治44年/1911年1月29日、大阪生まれ。平成27年/2015年10月27日没。家は早船を使う運送業を営んでいましたが、子供の頃から本が好き。とくに立川文庫に入っている口絵が大好きで、おれも絵を描いてみたいなあと憧れる子供でした。

 小学生の頃に目を患って、それを契機に学校には行かなくなります。まもなく多感な少年時代、街で見かけた映画館の看板に目を奪われると、看板職人の道に。16歳まで京都で看板書きの修行に没頭します。

 ところが、そんなとき『大阪朝日新聞』の夕刊で連載されていた大佛次郎さんの「照る日くもる日」を見て、おーっ、おれの進む道はこれだ、と開眼。小田富弥さんが描く同作の挿絵に、完全に脳天ぶち抜かれてしまったのです。宝塚に住んでいた小田さんの家に、自分の絵を持参して弟子入りを懇願し、見込みがあると認められて、首尾よく小田さんところに住み付きます。それが昭和2年/1927年のときです。

 しばらくは、絵を描いて師匠に見てもらう、といった日々を送りますが、弟子入りから2年ほど経ってチャンスが舞い込みます。新進の大衆作家として売り出し中の……まだ『南国太平記』で大当たりする前の直木三十五さんが、『名古屋新聞』で新しい連載が決まる。直木さんと小田さんは、前から親しかったもんですから、「小田さん、お宅の書生さんで誰か、おれの絵を描いてくれそうな人はいないですかね」と直木さんから話が持ち込まれ、それならこいつがいいんじゃないか、と小田さんが推薦し、中さんが抜擢されます。同紙で直木さんの「本朝野士縁起」が始まったのは昭和4年/1929年12月からでした。

 『挿絵画家・中一弥 日本の時代小説を描いた男』(平成15年/2003年2月・集英社/集英社新書)によれば、その前の昭和4年/1929年5月にも、『神戸新聞』連載、葉多黙太郎さん作の「平安異香」に挿絵を描いていて、直木さんのものが初めての挿絵ではないそうです。それでも、中さんの挿絵デビューは直木三十五だったと、逢坂剛さんが直木賞をとったときにもしきりに公言され、それが一組の親子と直木さんを結ぶ美談(?)として知られるようになったのは間違いありません。まあ、それでいいんじゃないでしょうか。

 さて、父のハナシはそれでいいとして、逢坂さんの母についても書いておきたいと思います。操(みさを)さんのことです。

 一弥さんと操さんが結婚したのは昭和9年/1934年暮れ。ともに小田さんところに通っていた弟子仲間で、操のほうが後輩だったと言います。

 結婚後、操さんは画業から離れて、昭和10年代に三人の子をなしました。ところが30歳をすぎてまもなくの昭和20年/1945年1月、肺病を患い、そのまま命を落とします。昭和18年/1943年11月に生まれた浩正さん、つまりのちの逢坂さんは生後1年3か月ほど。もちろん、まったく母の記憶がありません。

 父の一弥さんは後妻をとらず、一人で三人の息子を育てましたので、逢坂さんにとっての親とは、家にこもって絵ばかり描いている父のことです。母がいない。その環境で学校に通い、大人になるあいだ、母の愛情を知らずに育ったことは、おそらく自分が小説を書き始めることになる何らかの影響があったものと思う、と後年語っています。

 昭和62年/1987年1月、逢坂さんは第96回(昭和61年/1986年・下半期)に直木賞を受賞しました。息子と父の写真がたくさん撮られて、いろんなメディアを飾りましたが、やはりそこに母親の姿はありません。

 直木賞をとったときに、父がいるか、母がいるか、どちらもいないか。……偶然のなりゆきで決まることです。いずれのケースだったからといって、別にどうということはないんですけど、逢坂さんにとっては、意識せざるを得ないことだったようです。

 平成6年/1994年、逢坂さんは直木賞と親のことで、こんな感慨を述べています。

「結婚したあと家内の母親と親しく話したりするうちに、やはりおふくろがいたらよかったなあ、と思うようになったことも事実である。さらに、ここ一年ほどの間に出久根達郎、高村薫、大沢在昌と立て続けに親しい作家が直木賞を受賞し、パーティでそれぞれのご母堂の喜びに満ちたお顔を拝見するにつけ、いささかうらやましくなる傾向があった。

しかし一方でこの三氏のご厳父は、申し合わせたようにすでに他界しておられる。(引用者中略)三氏の立場から見れば、今度はわたしがうらやましがられる番だろう。人間の幸不幸は、まさにあざなえる縄のごとし、である。」(平成6年/1994年10月・中央公論社刊『私の父、私の母』所収 逢坂剛「めでたくもあり、めでたくもなし」より)

 直木賞の受賞パーティに、生み育ててくれた元気な両親に来てもらう、というのは、そう当然なことでもないんだなと思います。長く生きた父親と、短命で亡くなった母親。逢坂さんの場合はかなり極端でしたが、その極端さがより鮮明に出たのが、直木賞のパーティだったんですね。きらびやかなようであり、考えさせられる場面でもあり。直木賞の多面な性格が、よく出ています。

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2023年6月 4日 (日)

平岩満雄(代々木八幡神社宮司)。娘が直木賞を受けた夜、げっそり疲れ果てる。

 第41回(昭和34年/1959年・上半期)に直木賞を受賞したのが平岩弓枝さんです。実家はよく知られています。渋谷区にある代々木八幡宮です。

 そこで父親が宮司をしていました。社務所がそのまま自宅です。家には使用人がゴロゴロといて、にぎやかだったそうですが、平岩さんは一人っ子なので、幼いころは同世代の友人がいません。遊び相手はいつも父や母だったのだ、と回想されています。

 父の名は平岩満雄。明治40年/1907年5月22日、東京生まれ。平成5年/1993年8月8日没。もともとは旗本だった家柄の矢島家に生まれた人です。なので旧姓は「矢島」といいます。

 実家は明治になって職業が変わり、渋谷・千駄谷八幡神社の神職をしていましたが、父の矢島慎吉が急死。入り婿が後を継ぎ、14歳だった満雄は近くの代々木八幡神社へ養子に出されます。その代々木のほうで宮司を務めていたのが平岩家です。皇典講究所神職養成部を卒業して代々木八幡の社掌となると、昭和5年/1930年、23歳のときに箱根神社の巫女だった武子と結婚します。昭和7年/1932年3月15日に、長女、弓枝誕生。

 長いこと剣道を続けていて、おそらくそういった縁から刀剣にも関心を深めます。刀についてのあれこれを、かわいい一人娘に話して聞かせることも多かったらしいです。

 正直、弓枝さんはほとんど刀のことはわかりませんでしたが、のちに小説を書くようになったとき、父から聞いた刀剣界隈のことを題材に選んだのですから、この父あっての娘の直木賞、とは言えるでしょう。刀剣鑑定師と偽銘入りの名人のことを書いた「鏨師」で、あっとびっくり直木賞を受賞します。

 満雄さん自身は、小説を書いたことはありません。ただ、物を書いたことがなかったわけじゃなく、『物語 八幡宮縁起 武蔵国代々木野』(昭和17年/1942年7月・八幡神社々務所刊)なる冊子を執筆したことがありました。鎌倉時代の建暦2年に始まったと言われる代々木野の八幡宮について、その歴史をさまざまな史料をもとに組み立てながら、物語風に記したものです。

 幼い弓枝さんは思います。それはそれで史料的な価値があるけれど、やっぱりもう少し一般にも伝わるように小説にしたらいい。いつか私が歴史小説として書いてみたいな、と。戸川幸夫さんの弟子として、長谷川伸さんの門下に入る前から、ずっとそれだけは頭のなかにあったと言いますから、弓枝さんが作家になるまでの道に、父の背中が大きくそびえていた、と言っておきたいと思います。

 弓枝さんは若くして直木賞をとりました。ですので両親も健在でしたし、受賞したのも代々木八幡に住んでいたときのことです。直木賞受賞の風景に、父も当然出てきます。

 弓枝さんが受賞の報を聞いたのは外出先です。踊りの稽古のために、深川の西川鯉男さんのところにいたところ、文藝春秋新社の係りから電話がかかってきたのです。それから文春から迎えの車がくる、同乗して文春まで行く、芥川賞をとった斯波四郎さんといっしょに取材陣のインタビューを受ける、その足でフジテレビに連れていかれて、三木鮎郎さん司会の「スター千一夜」に、斯波さん、渡辺喜恵子さんと出演させられる、それが終わるとまた文春に返されて、ふたたび取材やら撮影やら、今後の打ち合わせやらが続く。先に何があるのかわからない、てんやわんやの時間を過ごします。

 解放されたのは夜10時すぎです。文春の車で神社の前まで送ってもらいます。ようやくそこで弓枝さんは両親と顔を合わせます。

「「ただいま」

と草履をぬぐ。

「おかえり」

父と母がげっそりした顔を並べた。今まで電話と来客で右往左往していたという。

「どうも、お疲れさまで……」

私はひどく悪い事をしたような気がして手をついた。父と母が同時に言った。

「いいえ、どう致しまして、あなたこそお疲れさまで……」」(昭和42年/1967年4月・現文社刊、平岩弓枝著『随筆 お宮のゆみちゃん』所収「その日の三時間」より)

 この日、弓枝さん自身、直木賞の選考会があるとは知らなかったそうです。ということは、父の満雄さんも母の武子さんも、おそらく知らなかったでしょう。

 突然やってきた嵐の数時間。その意味では、弓枝さん以上に、急に暴風に襲われたという感覚は強かったはずです。

 直木賞のせいで(いや、直木賞をとりまく騒ぎのせいで)、満雄さんと武子さんには要らぬお手間をかけてしまいました。お疲れさまでした。

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第17期のテーマは「親」。彼らがいたから直木賞の受賞者や候補者がいる。とても大事な人たちです。

 直木賞のことしか書かない、と心に決めて始めたブログも、どうにか17年目に入りました。

 調べたいことはまだまだたくさんあります。だけど時間がとれずに、最近は以前と同じような文献やエピソードを繰り返し書いているだけだったりします。

 消化不良を感じたまま、けっきょくワタクシも年をとって死んでいくんでしょう。死んじゃったら、こんなブログはきれいさっぱり消滅しますから、まあ続くかぎり、だらだらやっていきたいと思います。

 それで17年目のテーマですが、これならネタに困ることはなさそうだ、というものを選んでみました。直木賞の受賞者・候補者と、その親のハナシです。

 人間にはかならず親がいます。父と母の2人。というのが基本ですけど、養父や養母、義父や義母を含めれば、ひとり当たり何人かいる場合もあります。どんな親だったのか、いくら調べてもわからない作家はたくさんいますが、直木賞の場合は「受賞しちゃうと、ケツの穴まで個人情報をほじくろうとする人たちが沸いてくる」、そんな違法行為ギリギリのところでやっている賞です。受賞者・候補者のことを調べていると、その親のエピソードも自然と公開されていることが、けっこうあります。

 とはいえ、単に親のハナシを調べるだけでは面白くありません。やっぱりここは直木賞に関係したことを入れたい。子供が受賞したとき、あるいは落選したときに、親がどう反応したのか。受賞作・候補作に親の存在が大きく関わっていた。……そういう直木賞にからめたことを中心に、できるだけ取り上げていきたいと思っています。

 親が有名人ということもあります。子供につられて有名になった、というケースもあります。そうであれば調べやすいので、たぶん有名な親を取り上げることが多くなりそうですが、チャンスがあれば、あまり知られていないけど強烈に直木賞に縁がある、というような親の逸話を探し出せたら最高です。

 ただ、最初にこうしたいと思っても、1年つづけてみると理想どおり行かないことばっかりです。ひょっとしたら直木賞と関係ないエピソードでお茶を濁す週が出てくるかもしれません。ボチボチやっていきます。

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