斎藤一郎(刀剣鑑定売買師)。源清麿の刀に一生を捧げて、直木賞史に名を残す。
直木賞の候補作には、親と子のつながりがなければ絶対生まれなかった、という作品がけっこうあります。
けっこうあるので、全部取り上げられるかどうかわかりません。一つでも多くピックアップしたいな、と思いますが、まずはこれ。第52回(昭和39年/1964年・下半期)の候補作、『刀工源清麿』(昭和39年/1963年10月・徳間書店刊)は外せないでしょう。
作者は斎藤鈴子さんです。その後、小説家にはなりませんでしたけど、占星術のほうで多少名を知られる人になりました。
その鈴子さんが初めて書いた小説が『刀工源清麿』です。あとがきに父親のことが出てきます。
「私の父は三十年もの間、清麿刀を愛しつづけてきた。だから、生まれ落ちると同時に、私の心の中には清麿という一人の男が座を占めていた。
(引用者中略)
父は、書き終えて蒼ざめている私の心も知らず喜びに浮きたっている。私はこの父に三十年間、いろんな意味で不幸のしっぱなしだった。それを僅か二年余の苦しみで書きあげたこの小説で全部帳消しにしようというのだ。己れの人間及び技の未熟さを晒すぐらい、我慢すべきかもしれない。」(『刀工源清麿』「あとがき」より)
鈴子さんが小説を書いたのは、清麿の刀にぞっこん惚れ込んで人生を歩んできた父がいたからだ、というのは間違いありません。
斎藤一郎。明治33年/1900年10月生まれ。昭和49年/1974年6月12日没。神田の老舗の洋紙問屋、いわばわんさかカネのある家で育った一郎さんは、20歳ごろから日本刀の魅力に開眼。これぞと思う刀をごっそごっそと買い集めては、なんだあの若者はと、じわじわと刀剣界で知られるコレクターになります。
その蒐集にかける情熱はハンパありません。いったいそんなことをしてどうするのか。自己満足にすぎないんじゃないか。はたから見れば、そんなものに熱を上げて馬鹿バカしい、とすら思えなくもないんですが、当人にとって命に替えがたい大切なものなら、それは仕方ありません。他に商売をしながらも、刀剣の愛好心だけはまるで揺るがずに、家族を養います。
紙問屋から離れて、刀剣鑑定と売買だけで食っていけたのか。よくわかりません。『新婦人』昭和40年/1965年3月号「2DKから生れた時代小説 直木賞候補の斎藤鈴子さん」の記事によると、東京からいっときは静岡県の伊東に住んだこともあるらしく、ふたたび東京・板橋に越してきたときには外国人相手に土産物を売るスーベニール・ショップをやっていたんだとか。
しかし、刀剣界では、清麿好きの斎藤といえば知らぬ者なし、と言われるほどの存在だったみたいで、やがては刀剣一本で生活を立てるようになっていった……と思われます。まあ、このあたりもワタクシの想像が多分に入っています。
娘・鈴子さんの『刀工源清麿』は直木賞の候補になりました。それについての一郎さんの感想や言動は、とくに残っていません。ただ、同作の完成と出版を無用に喜んでいたようなので、直木賞の候補になっただけでも、父親孝行は十分に果たせたものと思います。
あまりに清麿に心酔しすぎて、一郎さんは、刀剣の鑑定売買をなりわいにした会社を株式会社にするとき、ずばり「清麿」という社名をつけたほどです。東京四谷の宗福寺にある山浦環=源清麿のお墓の隣りに、生前から自分の墓を建立。年をとるにつれ、早くあの墓に入りたい、早く清麿の隣りで眠りたい、と言っていたといいますから、直木三十五さんの墓の隣りに自ら墓をつくった胡桃沢耕史さんの、執念というか異常さと同じものを、一郎さんからも感じます。
直木賞の歴代候補作リストをつくったときに、「源清麿」という言葉が含まれているのは、明らかに、一郎さんのぶっ飛んだ清麿推しがあったからです。ぶっ飛んだ愛情も、バカにしたものではないですね。
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