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2023年5月の4件の記事

2023年5月28日 (日)

600円の映画原作料を直木にパクられた今東光、直木賞をもらったのでトントンだ、と笑う。

 最近はなかなか図書館にも行けません。ブログに書きたいことも別になく、最近は惰性でやっています。まあ、直木賞を調べたって、何ひとつ得することなんかありませんからね。惰性でだらだらやるのが一番です。

 直木賞とおカネのことも、ほんとうはもっと最近の、2000年以降のハナシを調べたかったんですが、ひまが取れずにまったく目的を果たせませんでした。人生、うまくいかないことばっかりです。

 と、それはそれとして、そろそろ別のテーマに変えたくなってきたので、「直木賞にまつわるお金のこと」は、今週で最後にします。最後もまた、ずいぶん昔にさかのぼって、苔むした受賞者のエピソードで締めることにしました。今東光さんです。

 直木三十五さん本人とは、7歳ちがい。生前は面識もあって、いろいろと縁のあった今さんが直木賞を受賞したのは、第36回(昭和31年/1956年・下半期)でした。年齢でいうと58歳のときです。

 今さんが語るところ、直木さんに対してはずっと貸しがあった……のだそうです。

「ぼくの作品が映画になったときに、直木のやつ、原作料をつかいこんじゃったことがあるんです。阪妻の独立第一回の映画として、ぼくの「異人娘と武士」というのを高松プロダクションでつくった。直木が撮影所で、「今とは無二の親友だから、おれがもってってやる」といって、原作料をうけとって、途中でつかっちゃった。(引用者中略)あいつがまだプラトン社の「苦楽」の編集長時代ですよ。こんど、ぼくが直木賞をもらったのは、あのときのかねをとりかえしたことになる。(笑)これで、トントンだてえわけだな。(笑)」(昭和33年/1958年2月20日・朝日新聞社刊『問答有用 夢声対談集X』より)

 直接、今さんからハナシを聞いたという足立巻一さんによれば、原作料は大正14年/1925年当時の相場からして2倍の600円(昭和42年/1967年12月・理論社刊『大衆芸術の伏流』)。それから10年後の直木賞の賞金が500円ですから、それよりもっと高かったわけです。今さんは「トントンだ」と言って笑いましたが、直木賞の一回分ぐらいじゃ、貸しは返しきれていないわけですね。まったく、直木さんのおカネのルーズさはむちゃくちゃです。いつも金欠でピーピー言っていたのは、自業自得です。

 さて、60歳近くなって直木賞をうけた今さんですが、彼もまた「カネがない」ってハナシをしょっちゅう語る人でした。住職を務める八尾のお寺を、貧乏寺だとさんざん言いふらしたのが、その代表的なエピソードです。

 昭和26年/1951年、特命住職の命を受けて、今さんが乗り込んだのが河内八尾の天台院です。檀家は35軒。そこから上がる収入は月2,000円~3,000円程度だったと言います。これだけじゃ寺の運営は成り立たない。夫婦二人の生活も送れない。それなのに檀家の連中は、住職のお経には重みがないだの何だの、文句ばっかり言いやがる。ひでえ檀家ばっかりだ、がはははは。と得意の毒舌をたびたび披露しました。

 しかしそれでも、何とか寺を守ってやっていけたのは、今さんに副収入があったからです。直木賞をもらう前から、文章を書いて原稿料を稼いでいましたし、講演や短大の講師の口もかかる。そういった個人の収入を、寺の運営につぎ込んで、楽しくやっていたのですから、案外、今さん自身はおカネを持っていたようにも思います。

 ただ、いったいいくら入ってきて、いくら使ったのか、まるでわからないというのが実状だったようです。妻のきよさんは、東光さんの没後のインタビューでこう語ります。

「金銭感覚はまったくない人でしたね。実印なんて自分で持ったことはないでしょう。土地の名義替えでも、すべて「おまえ、いいようにやっとけ」っていう調子でした。

(引用者中略)

主人が亡くなって十年ぐらいたってから、「先生の借用証書をとっている」という人がやって来たことがあります。「幾らですか」「六百万円です」、候文で判も実印じゃない。何が何だかちっとも分からない。」(平成23年/2011年5月・文藝春秋/文春文庫『想い出の作家たち』より ―初出『オール讀物』平成5年/1993年7月号「回想の今東光」、聞き手:岡崎満義)

 このルーズさ。それでいて、カネのことに細かい面もあり、みみっちい収支にはうるさく口を挟んでくる。

 ああ、どこかでこんな人がいたよなあ、と思ったら、そうだ、直木三十五さんにもそんな感じの文章がたくさん残っています。

 友人の原作料を勝手に使い込む直木さんも、直木賞をもらってトントンだと笑い飛ばす今さんも、けっきょくの金銭感覚は似た者同士、ってことなんでしょう。選考基準だけじゃなく、おカネに関して(も)ざっくりルーズなのが、やっぱり直木賞にはお似合いです。

          ○

 次の第169回(令和5年/2023年・上半期)が目の前に近づいてきて、気が気じゃありません。そのあいまを縫って、また来週から別のテーマで、昔の直木賞の(どうでもいい)ハナシをあれこれほじくっていきたいと思います。

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2023年5月21日 (日)

小説書いて、なんぼほどもらえますのん、と聞いてくる大阪の人たちに、阿部牧郎、思わず笑う。

 阿部牧郎さんが、勤めていた〈タキロン化学〉を辞めたのは、昭和42年/1967年暮のことです。年齢でいうと34歳。

 ちょうどその年、阿部さんは文學界新人賞に送った「空のなかのプール」が最終候補になりながらも落選。しかし、そこから同誌の編集者、豊田健次さんと縁ができ、何か書けたら見せてください、と言われて送った「蛸と精鋭」が『別冊文藝春秋』に載ることが決まります。その話を聞きつけたのが『小説現代』編集部の三木章さんと大村彦次郎さん。遅れちゃならんとあわてて大阪まで会いにやってきて、早速「今月の新人」で取り上げてくれたのが昭和42年/1967年9月号で、「ビーナスのひも」という、ストリッパーとそのヒモのことを書いた小説が『小説現代』に載りました。一年のあいだに、めまぐるしく動きます。

 会社では、すでに課長職のポストを与えられ、そのままいれば安定的な収入も見込めたでしょう。社長の松井弥之助さんからは目をかけられ、別に居づらくなったというほどでもない。それでも阿部さんは、小説家としてやっていけるのではないか、と手ごたえを感じ、思い切って退社を決めます。

 サラリーマンを辞めて、筆一本で立っていこうと歩きだしたものの、そこから直木賞の候補になっては落ち、候補に挙がっては落とされる日々が始まります。直木賞さえとってしまえば、物書きとしての生活も安定する。それが、選考委員たちのその日の気分や腹芸で、とらせてもらえないことが続いたとなれば、そりゃあ阿部さんも泣きたくなるでしょう。

 そんな当時の思い出が綴られたのが『大阪迷走記』(昭和63年/1988年3月・新潮社刊)です。おカネのハナシも出てきます。

 阿部さんがタキロン化学に中途入社したのは、昭和36年/1961年でした。小学校に勤め出した同棲相手の〈映子〉と合わせて、二人の収入は月4万円ほど。阿部さん一人では月給2万円程度だったと言います。退社する頃にはさすがにもう少しもらっていたと思いますが、専業の物書きになってから、二年目以降は原稿依頼も途切れずに、昭和48年/1973年には、会社勤めの頃の4~5倍の収入があったそうです。阿部さんの順調さがわかります。

 いや、阿部さんは謙虚にこういう表現を使っています。

「(引用者注:直木賞には)落選つづきだったが、小説の注文はくるようになった。中間小説雑誌が隆盛を誇っていた時代だった。〈オール讀物〉〈小説現代〉〈小説新潮〉ほか〈小説セブン〉〈小説エース〉〈小説サンデー毎日〉などが発刊されていた。前三誌には新人の作品はめったに載らない。だが、後発の三誌は、たびたび発表舞台をあたえてくれた。なんとか食えるようになった。サラリーマンをやめて一年目は、経済的にどん底だった。だが、二年目から収入がサラリーマン時代の倍になった。四年目の昭和四十六年には四、五倍に殖えた。週刊誌やスポーツ紙からも、注文がきはじめていたからだ。スポーツ紙に観戦記を書いたり、テレビの野球中継にゲスト出演するようになった。私は幸運だった。新人の小説家が生活しやすい時代にあわせて、サラリーマンをやめたことになる。」(『大阪迷走記』より)

 たしかに、昭和40年代後半ごろは、やたらと中間小説誌が湧き返っていました。いまからすると、なんであんなものがたくさん刷られて売れたのか、異様さ、狂気さも感じます。

 それでも、その狂気的な時流に、すべての新人作家が乗れたわけじゃありません。阿部さんの筆力のなせるわざだったでしょう。

 おカネに関するハナシでは、『大阪迷走記』には、 阿部さんの回想が面白いのは、大阪っぽいエピソードが語られているからです。プロ作家として駆け出しだったとき、大阪の飲み屋に行くと、相客と会話することになります。おたく何してはる人、へえ作家ですか。そうなると、大阪の人たちはたいてい、かならず聞いてくるそうです。それで小説書くと、いくらほどもらえますのん、と。

 露骨にカネのことを聞いてくる大阪の酔っ払いたち。阿部さんはそこで、うろたえることもなく対応します。

「「まあ一枚三千円ぐらいですな。雑誌によってちがいはありますがね。このあいだの作品は五十枚でした」

駄法螺であった。当時私は一枚千円ももらっていなかった。

「へえ。ほなあれで十五万円でっか。えらい儲かるもんでんなあ」

相客ははじめて敬意にみちた顔になる。」(『大阪迷走記』より)

 だいたいのことはカネ、カネ、カネ。ああ、大阪らしいな。と阿部さんは笑っちゃいながらも、あらためて考えたそうです。そうか、作家というだけで尊敬のまなざしを送ってくるような、高尚な土地柄もあるけど、小説を書いていくらになるのか、そういう目でしか見てこない土地のほうが、書き手としてはいちばんの修練の場所になる、と。まったく、阿部さん自身、たくましい人です。

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2023年5月14日 (日)

300~500円程度の原稿料が、直木賞をとると1,000円以上にはね上がる、と青木春三は言う。

 青木春三さんの『文壇登竜 作家になる道』(池田書店/実用新書)が出たのが、昭和35年/1960年1月のことです。

 ブログを始めて16年、歴史的にも重要なこの面白本を、まだ一度も取り上げたことがない、というのはどうしたことでしょう。まったく不徳の致すところです。すみません。

 昔の文士といえばビンボーが定番だった。だけど戦後10年ほどがすぎて、出版界も文芸界も金回りがよくなり、作家の生活も激変します。作家になりたい、と思う人の数も増えるいっぽう。だけど、どうやったら作家になれるのか、実践的な本が見当たらない。じゃあおれが書いてみよう……というのが本書の基本姿勢です。まあ、もう60年以上も前の本ですからね。内容については、ふうん、そうなんだろうな、と言うしかありません。

 ところで、青木さんとは何者か。いまとなっては名も残っていませんが、雑誌編集者、物書き稼業をコツコツやってきた人です。戦前からベッタベタの大衆小説を書いていました。

 明治43年/1910年、栃木県宇都宮市生まれ。小学校高等科を出たあとは東京逓信講習所に学び、郵便局で働きます。23歳のとき上京して、白井喬二さんに師事。『大法輪』や『婦人と修養』で時代小説の連載を持ったそうですが、すみません、ワタクシは読んだことがありません。昭和初期には『主婦の友』の編集、わかもと製薬広告部、古河鋳造勤労課、陸軍航空補給廠労務掛と転職して戦後を迎え、美松宣伝部、『新日本』『ウインドミル』『読切講談』と編集部を渡り歩いて、昭和25年/1950年に作家生活に入った……、と『作家になる道』の「あとがき」にあります。

 この本が出る直前の直木賞受賞は、渡辺喜恵子さん『馬淵川』と、平岩弓枝さん「鏨師」、第41回(昭和34年/1959年・上半期)です。だいたいそれまでの、ほんの20~30年しかやっていない直木賞や芥川賞を語っているだけですので、いまとなっては参考にしようもありません。ただ、なぜ芥川賞は同人雑誌からよく選ばれるのに、直木賞はそうでないのか。直木賞をめざすには同人雑誌ではなく懸賞小説に挑戦するのが主流だが、それはなぜなのか。青木さんなりに簡潔にまとめてあって参考になります。

「なぜ純文学をめざす同人雑誌だけが多く、大衆文学の同人雑誌がないのか?

それは作家志望者のほとんどが最初、純文学を志すからである。というのは、純文学の方がとつつきやすく、若くても書ける点にある。

純文学は自分の体験を見つめて書けばよい。自分の知らないことは書かずに済む、狭い範囲内を掘り下げればよいのである。

ところが大衆文学となると、そうは行かない。自分の体験を離れて、広い視野に立たなければならない。社会観が必要になつて来る。それに雑学がいる。年が若くてはそれが手にはいらない。」(『文壇登竜 作家になる道』より)

 わかったような、わからないようなハナシです。まあこれも、青木さんの実体験と当時の見聞から導き出された説ですので、別に反論する気は起きません。ふうん、そうなんでしょうね、と言いながら先に進みます。

 おカネのことです。同書に「作家の収入について」という項があります。

 流行作家になれば子々孫々まで財が残るが、無名の作家は収入がなくカツカツの極貧暮らし。と当たり前のことが書いてあるんですが、具体的な金額も出てきます。400字詰め換算原稿用紙1枚分の雑誌の原稿料です。『作家になる道』の記述をもとに、以下表にしてみました。

A級 B級 C級 D級
総合雑誌 1,000円前後 500~800円
文芸雑誌 500~1,000円 300~500円
大衆雑誌 1,000円前後 500~1,000円 200~400円 100~200円

 ちなみに直木賞の賞金が10万円のころの金額です。いまは賞金100万円ですから、ざっくり見るには、だいたい現在の10分の1ぐらいの水準だと考えるといいんでしょう。

 こんなふうに具体的な金額が挙がっています。

「普通三百円から五百円までぐらいで、千円以上の原稿料が常に取れるようになれば、堂々たる作家である。

(引用者中略)

「芥川賞」や「直木賞」を受賞されると、原稿料は千円以上にはね上がる。

(引用者中略)

映画の原作料はどのくらいかというと、最初は二十万円から三十万円だが、名が売れてくると、五十万円から七十万円ぐらいになる。

(引用者中略)

(引用者注:単行本は)初版は三千部から五千部が普通で、一万部刷るというのは大出版社か特殊の場合であろう。

かりに印税一割とみて、定価二百八十円の単行本を三千部刷ったとする。印税は八万四千円であるが、そのうち一割五分を源泉徴収されて税務署の方へ廻されるから、手取りは八割五分の七万一千四百円となる。」(『文壇登竜 作家になる道』より)

 原稿料1,000円なら一ト月50枚売れると5万円。単行本や映画原作料は、毎月入ってくるわけじゃない臨時の収入ですけど、青木さんが挙げたとおりに7万1400円やら20~30万円やらが入ってくれば、十分すぎるほどのおカネになります。そりゃあ、直木賞受賞=おカネ、と言いたくなるのも、よくわかります。

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2023年5月 7日 (日)

直木賞で落ちた岡戸武平、仕送りが1000円だという同郷の友人の話を聞いて目を剥く。

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 ここ最近、文芸同人誌『北斗』を毎号送ってもらっています。岡戸武平についての連載小説が載っているからです。

 作者は寺田繁さん。題名は「幻の直木賞作家 小説 岡戸武平」。先日送られてきた5月号で第六回を数えました。

 岡戸武平って何者か。ワタクシはよく知りません。作者の寺田さんも「覚悟していたことではあるけれど、岡戸武平についての資料の少なさには唖然とする外ない。」(『北斗』令和5年/2023年1・2月合併号「岡戸武平 つれづれ」)と書かれていて、自分なりの想像や解釈をまじえなければ、その人物像を描くことはとても難しく、だから「小説」として書いてみる……ということなんだそうです。

 ともかく、知らない作家のことを知るとわくわくします。それが直木賞とつながりがあった人となればなおさらです。岡戸さんは第1回(昭和10年/1935年・上半期)の直木賞のときに、最終的に名前が挙がった候補者のひとり、とモノの本には記されていますが、その実態はよくわかっていません。

 第1回のときは、直木賞の運営側もどうやって進めていいのかわからない。前後2回にわたって作家や評論家など100数十の宛先に、だれか適切な無名・新人作家を推薦してくれませんか、とアンケートを送り、その回答を参考にしながら数度にわたって選考委員会を開いた、と言われています。アンケートの回答者の名前が『文藝春秋』昭和10年/1935年9月号に載っていますが、まともに大衆文芸の新進を推薦してきた人がどれだけいるのか。加藤武雄、北村小松、浜本浩、長谷川伸、大下宇陀児といった辺りは、いちおうそれなりの人を回答したのではと思いますけど、詳細は不明です。

 そこには名前は出ていませんが、海音寺潮五郎さんも、すでにこの頃デビューして数年経っていましたので、誰か候補を挙げてくれるよう依頼された側だったそうです。それがフタをあけてみれば、海音寺さん自身が有力な候補として選考会で議論されている。もうムチャクチャです。

 岡戸さんは小酒井不木さんを師と仰ぎ、その小酒井さんが昭和4年/1929年に亡くなったあと、東京に出てきて博文館の編集者となります。昭和7年/1932年まで同社に勤めて、その後は独立して文筆生活を送ったそうですが、寺田さんの連載第1回目では、第1回直木賞の頃のことが触れられたあと、第2回以降それまでの岡戸さんの歩みが語られていて、最新回では小酒井さんの急逝と、岡戸さんが東京に出てくるところで終わっています。そこから岡戸さんがどのように編集者、作家生活の荒波にこぎ出していくのか。楽しみに待ちたいと思います。

 さて、それはそれとして、無理やりにでもおカネのハナシに結びつけないと今日のエントリーは締められません。

 「小説 岡戸武平」のなかで直木賞のことが出てくるのは、先に書いたとおり冒頭の(一)です。博文館を辞め、〈畳々庵〉と名づけた部屋で妻と二人暮らし。同郷の青年、寺田栄一とはしばしば会う間柄で、直木賞選考会が終わった秋、その栄一に連れられて東京會舘の洋食レストランプルニエに足を運びます。そこで舌鼓を打つ武平と栄一。

 小説ですから、そういう事実があった、とは断定できません。ただ、以下の辺りは、それなりに事実に近い記述かと思われます。

「「旨い。うみゃあなあ」

武平も唸る。

「栄ちゃん、立ち入ったころを聞くが、どのくらい仕送りもらっとる」

「月に大体、千円。財布が底をつけば、カネオクレってね。(引用者中略)」

千円。目を剥く武平。直木賞と芥川賞の副賞が五百円だった。」(『北斗』令和4年/2022年11月号 寺田繁「幻の直木賞作家 小説 岡戸武平(一)」より)

 どうして事実に近そうなのかというと、寺田栄一とは、作者・寺田繁さんの亡父のことだからです。寺田さんには『名古屋の栄さまと「得月楼」 父の遺稿から』(令和3年/2021年10月・鳥影社刊)の一冊もあります。名古屋の料亭のドラ息子として、当時、どのくらいの仕送りをもらっていたかは、きちんと調べていてもおかしくありません。

 しかしまあ、昭和10年/1935年、直木賞の賞金が文藝春秋社にとっては太っ腹の500円だった時代に、1,000円仕送りをもらっていた、というのは生活レベルが違いすぎます。

 岡戸さんがどのくらいの部屋に住んでいたのかはわかりませんが、〈畳々庵〉と名づけたぐらいですから、畳にして数枚程度、慎ましく狭かったのだろうなとは想像できます。仮に家賃を20円と見積もると、栄一さんの豪勢さとは雲泥の差。格差社会の縮図のような状況に、直木賞はとれなかったけど、がんばれ武平、と思わず応援したくなるところです。

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