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2023年4月 9日 (日)

友人に100円貸すために、ふっと魔がさして原稿を書いたんだ、と橘外男は言う。

20230409

 令和5年/2023年もまた、橘外男さんの本が出ました。『人を呼ぶ湖 橘外男海外伝奇集』(令和5年/2023年3月・中央公論新社/中公文庫)です。

 没してもうじき64年。ときどき思い出したように、その特異な(異常な)作品群に光が当たってきました。おそらくいまは第四次ぐらいの橘外男ブーム(?)ですけど、これからも五波、六波と繰り返して読み継がれることでしょう。こういう人に受賞してもらって、ほんとうに直木賞、よかったなと思います。

 さて、橘さんといえば、何と言ってもおカネです。

 実家は陸軍将校のお堅い家柄。幼少時代はおカネに困ったことはありませんが、たびたび学校の体制に歯向かったことで問題視され、家を追い出されてからというものの、おカネとの格闘が付いてまわります。

 橘さんの自伝的作品が面白いのは、具体的な金額がきちっと書かれているからだ。……というのは言いすぎですが、何だか嘘みたいなハナシでも、おカネのことが多少のリアリティを底上げしているのは間違いありません。むろん、どこまでほんとうかわかりませんけど、だいたいおカネにまつわる事件で人生の転機を迎える、というのが橘さんの自伝の大枠です。

 「若かりし頃」は、まだ橘さんが20代の頃、札幌で鉄道会社に勤めていた時代が素材になっています。大正初めの苗穂の鉄道工場では、15~16歳の給仕が日給35銭。中学を出ていない者は日給45銭。卒業者は50銭。橘青年は、工場長だった親戚の温情で50銭がもらえることになり、とすると月に30日で月給は15円です。カツカツです。

 そのうえにいくと、月給雇員になります。階級がいくつも分かれていて、月給は33円ぐらいから75円。このクラスになれば一人前といったところでしょう。

 では、橘さんの月給は最終的にいくらになったのか。並木行夫さんの「伝記読物 小説橘外男」によると、20歳のときに鉄道書記に任用されて月給35円になった、とあります。事実かどうかはわかりませんが、そのくらいであれば現実的にありえそうです。

 大正5年/1916年6月15日、橘さんは札幌署の刑事に逮捕されます。遊興費その他のために貨物運賃の着払金や、荷物引き換え代金を、およそ2か月にわたって着服したのだと、当時の新聞記事は伝えます。その額、700円。月給に換算するとだいたい20か月分に相当する大金です。ずいぶん派手にクスねたもんだな、と思います。

 それからおよそ20年後の昭和13年/1938年、橘さんは第7回(昭和13年/1938年・上半期)直木賞を受賞します。賞金は500円です。その20年間で貨幣価値はどれだけ動いたか。専門じゃないので、ざっくりとしか言えませんけど、だいたい2倍程度になったと考えれば、大正5年の700円は昭和13年/1938年では1400円。直木賞の賞金ごときじゃ全然、取り返せなかったわけですね。……って、そりゃそうか。

 ちなみに、橘さんが直木賞をとったのは、昭和11年/1936年に『文藝春秋』に「酒場ルーレット紛擾記」が載ったことが大きな引き金となっています。本人いわく、この実話(というか小説)を書くきっかけもまた、おカネのことだったそうです。

 当時、蠣殻町の貿易屋を切り盛りしていた橘さん。あいかわらず、そこまでおカネはありません。そこに100円貸してくれないかと頼んできた友人がいます。銀座で西洋料理屋「ボントン」をやっていた中川三吉郎さんです。料理屋もいつもピーピーして金まわりがよくなく、そのやりくりでどうしてもおカネを貸してほしい、ということでした。

 そこで橘さんは、ふと妙案を思いつきます。「ボントン」には雑誌社の編集者もけっこうたむろしている。おれが小説でも書いて、その連中に買ってもらえれば、原稿料で100円ぐらいの融通はつくだろう、と。

「が、しかしそれまで、小説を書いてみようという気持なぞを起したことは、私にはただの一度もない。小説を書くどころか! 年中商売にアクセクして、月々の雑誌や人の書いた小説一つのぞいて見たこともない。そんな人間が、なぜその時に限ってそういう妙な気が起ったか? 今以て私には、まったく謎である。ほかに金を作る道もないから、苦し紛れにそういう、途方もない料簡が起ったのか? しかし私は、それほどまでにこの友達に、同情したというのでもないし……まったく以てその時、ふっとそういう気がしたとより外は、なんとも私にもいいようのない、気紛れな気持だから仕方がない。」(橘外男「予は如何にして文士となりしか」より)

 何だのかんだの言い訳がましく書いています。橘さんのカワユさがあふれ返った回想です。

 120枚を書き上げて、それを中川さんに手渡したところ、それが『文藝春秋』の菅忠雄さんの手に渡り、掲載が決まったと言っています。

 原稿料はけっきょくどうなったのか。「金は半年ばかりたったら二百五十円だか三百円だったか返して来た」(「予は如何にして文士となりしか」より)といい、それはそこまでで、別に続けて物を書く気はまったくなかった、と橘さんは書いています。ただ、やはりこのあたりの心の動きがよくわかりません。カネのためなのか、それともただ書いてみたくなっただけなのか。

 貧乏性(のはずの)橘さんです。300円近くもらえるのなら、もう少し興味をもってもよさそうなものですが、いつもおカネを欲しがっているくせに、こういうところで急にシラをこいてしまうのです。まったく、橘さんったら、カワユい人です。

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