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2023年4月の5件の記事

2023年4月30日 (日)

広瀬仁紀、直木賞に落選して「2000万円は損した」と編集者に言われる。

20230430

 今日は東京・池之端(地下鉄・根津駅付近)で「不忍ブックストリート一箱古本市」があったので、ちょっと覗きに行ってきました。

 行ったところで、そこに直木賞の風は吹いていません。たいていはどの箱も見るだけに終わって、そっとため息をつきながら、スゴスゴと帰路につくことになります。

 たぶん今日もそうだろう。あきらめ気分でウロウロしていたところ、「HOTEL GRAPHY NEZU」に出店していた古書ますく堂の前にいたのが、春日部の奇人・盛厚三さんです。「これ、知ってる?」と『遊草の二人―潤一郎と勇』(昭和52年/1977年4月・學藝書林刊、真下五一・著)を差し出されたのですが、まるで知らないものだったので、びっくり仰天、思わず買ってしまいました。

 いや、びっくり仰天したのは、本のほうではなく、そこに挟まれていた學藝書林の刊行物案内のしおりです。「出版情報誌 風の軍隊」と銘打たれ、No.7 1977/3 と書かれています。

 問題は1ページ目に載っている記事のタイトルです。「『適塾の維新』直木賞を逸すの記」。うえっ、こんな文章があったのか。まったく知りませんでした。

 學藝書林と直木賞には、ほとんど接点がありません。直木賞80ン年の歴史で、同社の本で候補になったのは、ただ一作のみ。第76回(昭和51年/1976年・下半期)の候補作、広瀬仁紀さんの『適塾の維新――福澤諭吉別伝』です。

 広瀬さんはこの作品をきっかけに小説家としての道が開け、数多くの経済もの・金融界ものを残します。ただ、直木賞の候補になって落選したその当時の文章をあまり見かけたことがなく、いやまあ、ワタクシが知らないだけなんでしょうけど、思わずこのしおりに惹きつけられました。

 書いているのは編集部の(D)なる人です。おそらく当時、學藝書林で編集長をしていた出口宗和さんなんじゃないかと思います。

 場面は直木賞の選考会の日。広瀬さんといっしょに発表を待っていた編集者から見た、そのときの光景を描いたものです。銚子をあけること10本以上。発表の時間を1時間以上すぎても連絡がなく、次第に重苦しい雰囲気になってきたとき、ぽつりと広瀬さんが一言吐き出します。「西村さんですよね」。……同じく候補に挙がっていた西村寿行さん(作品『滅びの笛』)がおそらく受賞するだろう、と広瀬さんや編集者は思っていたわけですね。へえ、そうなんだ。

 けっきょくこの回は、産経新聞記者の三浦浩さん『さらば静かなる時』と、文學界新人賞をとってまもないド新人、三好京三さん『子育てごっこ』がせり合って、最終的に三好さんの受賞に決まります。広瀬さんの歴史小説はほとんど評価が得られず、まったく惜しくも何ともないまま落選しました。

 この文章の幕切れに、おカネのことが出てきます。

「鎌倉駅前での別離も、寒々しいものとなった。彼の後姿を追いながら、私は思わず叫んでいた。

「これで二千万はそんしたなあ――」

彼に対する私の言葉は、やはりそんなものでしかなかったのである。」(『出版情報誌 風の軍隊』No.7[昭和52年/1977年3月]「『適塾の維新』直木賞を逸すの記」より ―署名:(D))

 2,000万円。なんだか妙に具体的な数字が挙がっています。

 のちの広瀬さんの回想によると、『適塾の維新』は1冊1,400円の本ですが、1万部刷って印税は110万円。手取りは100万円。しかし、書下ろし小説に専念するために、ライター業をセーブしていたのでこの間生活費は稼げず、資料費・取材費などで約280万円もかけていました(『商工ジャーナル』昭和62年/1987年1月号、川原千寿子「作家に聞く「経営者像」(10)」)。まったくの大赤字です。

 直木賞ではその一年前に、佐木隆三さんが受賞して、その受賞作『復讐するは我にあり』(上・下)が40万部近くの大ベストセラーになっています。そこから推測すれば、直木賞の受賞作は20万部は売れる。1万部で100万円なら、20万部で2,000万円。それが落選で泡となった……ということなのかな、と思います。

 受賞するのとしないのとでは、生涯収入は大違い、と言われるのが直木賞です。しかし、生涯とか何とか、そんなことを言っている場合じゃありません。ともかく目先の2,000万円がスーッと消えてしまう。それだけで悲しくなるのは、たしかに想像できます。その後、広瀬さんは『銀行緊急役員会』(昭和52年/1977年1月)、『銀行破産』(昭和53年/1978年2月)、『銀行派遣役員』(昭和53年/1978年4月)と徳間書店から立て続けにビジネスものを出し、いずれもベストセラーになるほど売れて、家のローンの頭金ができたんだそうです。よかったです。

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2023年4月23日 (日)

受賞してからン十年、『天正女合戦』や『海の廃園』に古書の世界で高値がつく。

20230423

 大場啓志さんの編纂した『直木賞受賞本書誌』(龍生書林刊)という本があります。スゴい本です。

 発行は令和1年/2019年10月25日。と、まだ3年半しか経っていませんが、第160回(平成30年/2018年・下半期)受賞の真藤順丈さん『宝島』まで、直木賞の受賞作本がぜんぶカラーの書影で拝むことができる! ということの他に、大場さんが長年扱ってきた経験から、古書としてどのくらいするのか、およその価格まで載っている! 年季・労力・マニア熱、その他もろもろの要素が結集しなければまずつくることのできない一冊です。スゴいという他ありません。

 冒頭の「はじめに」から、面白い情報があふれています。大場さんいわく、「古書界で蒐集家の多いのは、どちらかと言うと芥川賞よりも直木賞のように思える」のだそうです。

 どんな勝負でも、直木賞が芥川賞を上回っているのは、ワタクシにとって無上の喜びです。おおっ、ここでも直木賞に軍配が上がっている、とほくそ笑んでしまいます。

 面白いのはそれだけじゃありません。コレクターが重要視するのが、要するに最初に流通したものかどうか(版数は初版で、帯はいちばんはじめに巻かれていたもの)、きれいかどうか、などなど、こっちにとってはどうでもいいことばかり。その馬鹿バカしさが、文学賞のアホらしさとか、人間の愚かさにも通じていて、古書の世界でも直木賞の面白さはあなどれません。

 それはともかく、手に入りにくければ価格がハネ上がる。自然の摂理です。いまの直木賞受賞本は、だいたい注目の作家がとることがほとんどですから、初版が受賞する前に刊行されたものであっても、まあまあ市場に流通しています。それと当然、あんまり時代を経ていないのできれいものが多い。それに比べて、時代がさかのぼればさかのぼるほど、受賞本のもつ古書的な価値は上がり、一冊につきン万円、ン十万円するものも珍しくなく、カネもっているヤツの道楽じゃん、というレベルに達します。こういうのは、指をくわえて遠目で見るのがいちばんです。

 『直木賞受賞本書誌』によると、戦前の受賞本のなかで、いま(というか令和1年/2019年の段階で)最も高い値がつきそうなのは、まずは第3回(昭和11年/1936年・上半期)の海音寺潮五郎さん「天正女合戦」を収録した同題の単行本。昭和11年/1936年8月18日・春秋社刊、函付き帯付きで、70万円以上。発売当時の定価が1円50銭ですから、だいたい47万倍になっている計算です。

 そのほかにも第7回(昭和13年/1938年・上半期)の橘外男さん「ナリン殿下への回想」収録の同題単行本は、元帯(受賞する前の帯)付きで60万円以上。第12回(昭和15年/1940年・下半期)の村上元三さん「上総風土記」収録の同題本は、帯付きで60~70万円ぐらいだということです。

 どうして他の回の作品に比べて、これらの値が高いのか、大場さんの解説がそれぞれ付いています。それを読むだけでも面白く、ほんとは全部引用したいんですが、そういうわけにもいきません。

 ひとつだけ挙げておきます。海音寺さんの『天正女合戦』は、とにかく帯がイノチなんだそうです。

「三十数年前、戦前の近代文学専門店で数多くの稀本珍本発見の実績を持つ、あきつ書店・白鳥恭輔氏に帯を譲って貰った。一般市場に流布しているものは凾付が殆どで帯付はこれを一度扱ったのみ。今では凾付だけでも入手は難しいが帯付は極珍である。」(『直木賞受賞本書誌』より)

 帯のない場合は、函付の美本でも、値は半分さがって35万円から。ううむ、なかなか付いていけない世界です。

 ちなみに戦後、第21回以降のなかで最も高い古書価になりそうなのは、第22回(昭和24年/1949年・下半期)山田克郎さん「海の廃園」を含む同題作品集。昭和25年/1950年8月15日・宝文館刊行のものです。カバー帯美で、25~30万円は、一冊定価150円に比べると、1600倍~2000倍ぐらい値が上がっています。

 大場さんの付けたコメントに「初版、再版ともに滅多に現れない。」とあります。昔、受賞作本の部数を調べたことがあって、そのときは『海の廃園』がけっきょくどれだけ売れたのかわからず、モヤモヤしたものが残りました。おそらく大して売れなかったんでしょうね。発売当初に売れなければ、それだけ世に出まわる部数も少ない。となれば、希少価値があがって、のちのち古書値も上がります。

 直木賞の受賞作は、受賞当時に売れれば、もちろんそれだけおカネが動きます。だけど、べつに売れなくたって、あとになればおカネを生む。「おカネにまみれた文学賞」と言われる直木賞、面目躍如です。

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2023年4月16日 (日)

『津軽世去れ節』を出した津軽書房、直木賞受賞後の約10年で2000万円以上の借金を抱える。

 いつも同じような本ばかり読んでいてもつまりません。新たな本に触れたいなと思っていたところ、今日は東京・雑司ヶ谷で「鬼子母神通り みちくさ市場」があると聞いて、春日部の奇人・盛厚三さんといっしょに、みちくさ市場へ、さらに近くの古書往来座まで歩いてきました。

 本はあふれるほどにありました。ただ問題は、こちらの関心分野が狭すぎることです。ううむ、もっといろいろなことに興味を持つようにならんと、ワタクシの未来も暗そうだな。と再確認して、トボトボ帰ってきたんですが、この本は面白そうだ、と脳内でささやくかすかな声を頼りに買ってきたなけなしの一冊が、林邦夫さんの『当世出版事情』(昭和59年/1984年4月・草思社刊)です。

 林さんは『毎日新聞』の学芸記者だった人です。同書では、昭和58年/1983年当時の出版界や、そのまわりにうごめく有象無象のありようを取材してレポートしています。いまから40年まえのハナシです。

 日本の出版界の市場規模は、平成8年/1996年が山のピークだったと言われています。昭和58年/1983年は何だかんだ言っても上り坂の成長期です。

 この年は、ミリオンセラーがたくさん出ました。しかし森村誠一さんの『悪魔の飽食』を除けば、著者は穂積隆信、鈴木健二、黒柳徹子、江本孟紀と、どれもこれもテレビがからんだ、いわゆる「テレ・セラー」ってやつで、文芸モノやお堅い小説は軒なみ大苦戦。マンガが支える一ツ橋、雑誌が支える音羽と、大きい会社はより肥え太りますが、ダメな会社は金回りにピーピー言っている。完全な二極化です。「活字離れ」という言葉が当たり前のように叫ばれて、活字文化は危機のまっただなか。ああ、これからどうなっていくというのか。……みたいなストーリーが同書の底流をつくっています。まあ、よくあるっちゃあ、よくあるハナシです。

 ぺらぺら読んでいくうちに、文学賞の話題は載っていないかなあ、と探してしまうのがワタクシの悪いクセなんですが、昭和58年/1983年の文学賞は、だいたい唐十郎さんが話題を持っていっちゃったので、直木賞のことは出てきません。しかしそのなかで、ふっと目に留まったのが「〔七〕出版の原点ここにあり=地方出版社の活力=」です。

 この章は、秋田文化出版社、津軽書房、マツノ書店、葦書房といった地方の雄への取材記事や、当時の数値的なデータなどで構成されています。神田の「書肆アクセス」(地方・小出版流通センター直営店)のことも出てきます。

 そして地方と直木賞といえば、何といっても津軽書房です。長部日出雄さんの『津軽世去れ節』に収録された二篇が直木賞を受賞したのは昭和48年/1973年・上半期ですので、『当世出版事情』がレポートした年はそれからちょうど10年たった頃にあたります。

 ここに直木賞がもつ面白い一面が出てきます。

「全国に名をはせたのが四十八年、長部日出雄の『津軽世去れ節』が直木賞を受賞したときだ。初版二千部、受賞のとき七百部残っていたが、一日でなくなり、二刷り目を一万五千部、ついで三刷りを五千部……と今日でもロングセラーである。大手取次のルートに乗って売れつづけた。これだけならいいことずくめだが、このさい一気にと、全国に送り出したほかの出版物は返本があいつぎ、かえって経営を圧迫した。借金返済に苦労する。」(『当世出版事情』より)

 いや、面白い、なんて言っちゃいけませんね。

 長部日出雄さんだけじゃなく、ミスター津軽書房、高橋彰一さんにまで強烈なスポットライトを浴びせたのが、この回の直木賞です。受賞して2年後、同社に入社した伊藤裕美子さんによると、当時はスタッフも7人いて、東京出張所までできていたと言います。しかし直木賞が仇となって借金がぶくぶくと膨らんでいき、『当世出版事情』が出たその翌年、昭和59年/1984年2月には二度の不渡りを出して銀行取引が止められます。『読売新聞』平成23年/2011年1月28日、伊藤さんをフィーチャーした「あおもり人伝」(3)によると、借金の総額は2,000万円以上。

 それでも法人ではなく個人経営だったことから、現金取引で事業を続けます。在庫で残った本を現金で売り、取引先の支援もあって細々と刊行を継続。高橋さんと伊藤さんの涙ぐましい努力の日々は、ワタクシも興味があるので、いずれ追ってみたいと思いますが、とりあえず今週のエントリーはここまで。

 それもこれも直木賞のせいじゃないか。と思うと胸が痛みます。見た目が華やかで、ワーッと多くの人が視線を送るものは、たいていが一過性なんですよね。どうも、そこに直木賞という事業の罪多き性質がひそんでいます。

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2023年4月 9日 (日)

友人に100円貸すために、ふっと魔がさして原稿を書いたんだ、と橘外男は言う。

20230409

 令和5年/2023年もまた、橘外男さんの本が出ました。『人を呼ぶ湖 橘外男海外伝奇集』(令和5年/2023年3月・中央公論新社/中公文庫)です。

 没してもうじき64年。ときどき思い出したように、その特異な(異常な)作品群に光が当たってきました。おそらくいまは第四次ぐらいの橘外男ブーム(?)ですけど、これからも五波、六波と繰り返して読み継がれることでしょう。こういう人に受賞してもらって、ほんとうに直木賞、よかったなと思います。

 さて、橘さんといえば、何と言ってもおカネです。

 実家は陸軍将校のお堅い家柄。幼少時代はおカネに困ったことはありませんが、たびたび学校の体制に歯向かったことで問題視され、家を追い出されてからというものの、おカネとの格闘が付いてまわります。

 橘さんの自伝的作品が面白いのは、具体的な金額がきちっと書かれているからだ。……というのは言いすぎですが、何だか嘘みたいなハナシでも、おカネのことが多少のリアリティを底上げしているのは間違いありません。むろん、どこまでほんとうかわかりませんけど、だいたいおカネにまつわる事件で人生の転機を迎える、というのが橘さんの自伝の大枠です。

 「若かりし頃」は、まだ橘さんが20代の頃、札幌で鉄道会社に勤めていた時代が素材になっています。大正初めの苗穂の鉄道工場では、15~16歳の給仕が日給35銭。中学を出ていない者は日給45銭。卒業者は50銭。橘青年は、工場長だった親戚の温情で50銭がもらえることになり、とすると月に30日で月給は15円です。カツカツです。

 そのうえにいくと、月給雇員になります。階級がいくつも分かれていて、月給は33円ぐらいから75円。このクラスになれば一人前といったところでしょう。

 では、橘さんの月給は最終的にいくらになったのか。並木行夫さんの「伝記読物 小説橘外男」によると、20歳のときに鉄道書記に任用されて月給35円になった、とあります。事実かどうかはわかりませんが、そのくらいであれば現実的にありえそうです。

 大正5年/1916年6月15日、橘さんは札幌署の刑事に逮捕されます。遊興費その他のために貨物運賃の着払金や、荷物引き換え代金を、およそ2か月にわたって着服したのだと、当時の新聞記事は伝えます。その額、700円。月給に換算するとだいたい20か月分に相当する大金です。ずいぶん派手にクスねたもんだな、と思います。

 それからおよそ20年後の昭和13年/1938年、橘さんは第7回(昭和13年/1938年・上半期)直木賞を受賞します。賞金は500円です。その20年間で貨幣価値はどれだけ動いたか。専門じゃないので、ざっくりとしか言えませんけど、だいたい2倍程度になったと考えれば、大正5年の700円は昭和13年/1938年では1400円。直木賞の賞金ごときじゃ全然、取り返せなかったわけですね。……って、そりゃそうか。

 ちなみに、橘さんが直木賞をとったのは、昭和11年/1936年に『文藝春秋』に「酒場ルーレット紛擾記」が載ったことが大きな引き金となっています。本人いわく、この実話(というか小説)を書くきっかけもまた、おカネのことだったそうです。

 当時、蠣殻町の貿易屋を切り盛りしていた橘さん。あいかわらず、そこまでおカネはありません。そこに100円貸してくれないかと頼んできた友人がいます。銀座で西洋料理屋「ボントン」をやっていた中川三吉郎さんです。料理屋もいつもピーピーして金まわりがよくなく、そのやりくりでどうしてもおカネを貸してほしい、ということでした。

 そこで橘さんは、ふと妙案を思いつきます。「ボントン」には雑誌社の編集者もけっこうたむろしている。おれが小説でも書いて、その連中に買ってもらえれば、原稿料で100円ぐらいの融通はつくだろう、と。

「が、しかしそれまで、小説を書いてみようという気持なぞを起したことは、私にはただの一度もない。小説を書くどころか! 年中商売にアクセクして、月々の雑誌や人の書いた小説一つのぞいて見たこともない。そんな人間が、なぜその時に限ってそういう妙な気が起ったか? 今以て私には、まったく謎である。ほかに金を作る道もないから、苦し紛れにそういう、途方もない料簡が起ったのか? しかし私は、それほどまでにこの友達に、同情したというのでもないし……まったく以てその時、ふっとそういう気がしたとより外は、なんとも私にもいいようのない、気紛れな気持だから仕方がない。」(橘外男「予は如何にして文士となりしか」より)

 何だのかんだの言い訳がましく書いています。橘さんのカワユさがあふれ返った回想です。

 120枚を書き上げて、それを中川さんに手渡したところ、それが『文藝春秋』の菅忠雄さんの手に渡り、掲載が決まったと言っています。

 原稿料はけっきょくどうなったのか。「金は半年ばかりたったら二百五十円だか三百円だったか返して来た」(「予は如何にして文士となりしか」より)といい、それはそこまでで、別に続けて物を書く気はまったくなかった、と橘さんは書いています。ただ、やはりこのあたりの心の動きがよくわかりません。カネのためなのか、それともただ書いてみたくなっただけなのか。

 貧乏性(のはずの)橘さんです。300円近くもらえるのなら、もう少し興味をもってもよさそうなものですが、いつもおカネを欲しがっているくせに、こういうところで急にシラをこいてしまうのです。まったく、橘さんったら、カワユい人です。

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2023年4月 2日 (日)

本屋大賞の実施事業、年1,000万円近くに膨れ上がる。

 いま現在、直木賞一回あたりの経済効果は2億円、対して本屋大賞のそれは3倍近い5億8,000万円ぐらいだ、と言われています。

 ……とまあ、そんなのは(もちろん)真っ赤なウソですけど、ワタクシ自身、春になると自然と本屋大賞を欲するからだになってしまいました。今年も「直木賞のすべて」のわきのスペースを借りて、「本屋大賞のすべて」というサイトをつくりましたが、準備期間約2か月、こんなのに時間をかけても何のおカネにもなりゃしません。そうさ、文学賞に対する興味は、いつだってプライスレス。本屋大賞は毎年楽しいので、それはそれで文句ありません。

 野次馬にとって、おカネのことなんかどうでもいいです。しかし本屋大賞といえば、本を売りたいんだ、本を買ってほしいんだ、という思いで始まった経緯があります。いわばおカネを前提にした事業と言ってもよく、ノミネート発表から受賞発表、そしてその後にいたるまで、出版業界、印刷業界、メディアを含めて、ドロドロ、ズブズブ、カネまみれの文学賞であることは確かな事実です。

 こないだ『読売新聞』に載った本屋大賞に関する記事でも、やっぱりおカネのことが出ていました。

「インターネットなどの影響で、文芸書を取り巻く環境は厳しい。出版科学研究所によると、04年に9429億円だった紙の書籍の推定販売金額は、22年には6497億円に減少した。」(『読売新聞』令和5年/2023年3月2日「「本屋大賞」20回目 出版不況下 名著発掘の場に」より ―署名:文化部 川村律文)

 平成16年/2004年からこの20年間で、紙の本は急激に売れなくなってきている。とおカネのことが持ち出されています。この賞を目の前にすると、つい目ん玉が¥マークになってしまう。本屋大賞の宿命です。

 ということで、今週は本屋大賞にまつわるおカネのことを取り上げます。

 ところで、あの催しって、毎年どのくらいかかっているんでしょうか。主催しているNPO法人本屋大賞実行委員会が、毎年の収支をホームページで公開しています

 決算書が初めて公開されたのが平成17年/2005年度(平成17年/2005年6月1日~平成18年/2006年5月30日)です。平成18年/2006年4月に、リリー・フランキーさんの『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』が大賞をとった時期で、フリーペーパー『LOVE書店!』の発行事業を除いて大賞実施事業だけを見ると収支は大きく赤字。約280万円入って、約420万円かかったために、140万円程度のマイナスになったそうです。

 ちなみにそのころ、直木賞はどうだったのか。以前、羽鳥好之さんを取り上げたエントリーで触れました。

 直木賞の主催者は、本屋大賞とちがって、5つも文学賞をやっている公益財団法人日本文学振興会で、平成16年/2004年度の収支決算書によると、1年の直木賞の事業費は約3,000万円。1年に2回やるので、1回あたり約1,500万円程度だった、ということになります。

 ざっくり言ってしまえば、本屋大賞400万円 対 直木賞1,500万円の構図。3~4倍のひらきがあります。

 400万円の賞だってけっこうな規模だろ、とは思います。でもまあ、手づくり感満載であることを打ち出して、まんまと世間の心をつかみながら本屋大賞も回を重ねて今年で20年。収支計算書のうえでも、実施事業の収入が1,600万円を超える年も出てきました。近年では、1,000万円近くの収支を続け、しかも黒字に転じています。

 ああ、もはや庶民には手の届かない存在になってしまったんですね(……って、庶民って何だよ)。今年もきっと、目ん玉を¥マークにした人が本屋大賞を盛り上げるんでしょう。直木賞オタクとしては、それを指をくわえながら遠目で楽しみたいと思います。

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