広瀬仁紀、直木賞に落選して「2000万円は損した」と編集者に言われる。
今日は東京・池之端(地下鉄・根津駅付近)で「不忍ブックストリート一箱古本市」があったので、ちょっと覗きに行ってきました。
行ったところで、そこに直木賞の風は吹いていません。たいていはどの箱も見るだけに終わって、そっとため息をつきながら、スゴスゴと帰路につくことになります。
たぶん今日もそうだろう。あきらめ気分でウロウロしていたところ、「HOTEL GRAPHY NEZU」に出店していた古書ますく堂の前にいたのが、春日部の奇人・盛厚三さんです。「これ、知ってる?」と『遊草の二人―潤一郎と勇』(昭和52年/1977年4月・學藝書林刊、真下五一・著)を差し出されたのですが、まるで知らないものだったので、びっくり仰天、思わず買ってしまいました。
いや、びっくり仰天したのは、本のほうではなく、そこに挟まれていた學藝書林の刊行物案内のしおりです。「出版情報誌 風の軍隊」と銘打たれ、No.7 1977/3 と書かれています。
問題は1ページ目に載っている記事のタイトルです。「『適塾の維新』直木賞を逸すの記」。うえっ、こんな文章があったのか。まったく知りませんでした。
學藝書林と直木賞には、ほとんど接点がありません。直木賞80ン年の歴史で、同社の本で候補になったのは、ただ一作のみ。第76回(昭和51年/1976年・下半期)の候補作、広瀬仁紀さんの『適塾の維新――福澤諭吉別伝』です。
広瀬さんはこの作品をきっかけに小説家としての道が開け、数多くの経済もの・金融界ものを残します。ただ、直木賞の候補になって落選したその当時の文章をあまり見かけたことがなく、いやまあ、ワタクシが知らないだけなんでしょうけど、思わずこのしおりに惹きつけられました。
書いているのは編集部の(D)なる人です。おそらく当時、學藝書林で編集長をしていた出口宗和さんなんじゃないかと思います。
場面は直木賞の選考会の日。広瀬さんといっしょに発表を待っていた編集者から見た、そのときの光景を描いたものです。銚子をあけること10本以上。発表の時間を1時間以上すぎても連絡がなく、次第に重苦しい雰囲気になってきたとき、ぽつりと広瀬さんが一言吐き出します。「西村さんですよね」。……同じく候補に挙がっていた西村寿行さん(作品『滅びの笛』)がおそらく受賞するだろう、と広瀬さんや編集者は思っていたわけですね。へえ、そうなんだ。
けっきょくこの回は、産経新聞記者の三浦浩さん『さらば静かなる時』と、文學界新人賞をとってまもないド新人、三好京三さん『子育てごっこ』がせり合って、最終的に三好さんの受賞に決まります。広瀬さんの歴史小説はほとんど評価が得られず、まったく惜しくも何ともないまま落選しました。
この文章の幕切れに、おカネのことが出てきます。
「鎌倉駅前での別離も、寒々しいものとなった。彼の後姿を追いながら、私は思わず叫んでいた。
「これで二千万はそんしたなあ――」
彼に対する私の言葉は、やはりそんなものでしかなかったのである。」(『出版情報誌 風の軍隊』No.7[昭和52年/1977年3月]「『適塾の維新』直木賞を逸すの記」より ―署名:(D))
2,000万円。なんだか妙に具体的な数字が挙がっています。
のちの広瀬さんの回想によると、『適塾の維新』は1冊1,400円の本ですが、1万部刷って印税は110万円。手取りは100万円。しかし、書下ろし小説に専念するために、ライター業をセーブしていたのでこの間生活費は稼げず、資料費・取材費などで約280万円もかけていました(『商工ジャーナル』昭和62年/1987年1月号、川原千寿子「作家に聞く「経営者像」(10)」)。まったくの大赤字です。
直木賞ではその一年前に、佐木隆三さんが受賞して、その受賞作『復讐するは我にあり』(上・下)が40万部近くの大ベストセラーになっています。そこから推測すれば、直木賞の受賞作は20万部は売れる。1万部で100万円なら、20万部で2,000万円。それが落選で泡となった……ということなのかな、と思います。
受賞するのとしないのとでは、生涯収入は大違い、と言われるのが直木賞です。しかし、生涯とか何とか、そんなことを言っている場合じゃありません。ともかく目先の2,000万円がスーッと消えてしまう。それだけで悲しくなるのは、たしかに想像できます。その後、広瀬さんは『銀行緊急役員会』(昭和52年/1977年1月)、『銀行破産』(昭和53年/1978年2月)、『銀行派遣役員』(昭和53年/1978年4月)と徳間書店から立て続けにビジネスものを出し、いずれもベストセラーになるほど売れて、家のローンの頭金ができたんだそうです。よかったです。
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