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2023年3月12日 (日)

あまりにカネがなかった佐木隆三、直木賞の賞金は晴着の新調代などに使う。

 書くハナシのストックがなくなってきました。なので、また『直木賞事典』(昭和52年/1977年6月刊)から、賞金の使い道をチェックしたいと思います。

 第74回(昭和50年/1975年・下半期)に受賞したのが佐木隆三さんです。賞金は30万円でした。

 選ばれた『復讐するは我にあり』(昭和50年/1975年11月・講談社刊)は、戦前の変則手ともいうべき鷲尾雨工さんの『吉野朝太平記』を除けば、直木賞ではじめて上・下巻の2分冊に賞が贈られた作品です。上・下それぞれ一冊790円。印税を10%とすると、佐木さんに入るのは79円。ものの記録によりますと、最終的に上・下合わせて43万7000部売れたそうなので、都合、印税は3,400万円以上になります。直木賞の賞金なんて鼻クソみたいなものです。

 それまでの佐木さんは、大して売れていない貧乏ライターでした。沖縄滞在中に再婚した奥さんと、生まれたばかりの長女を連れて、沖縄本土復帰を見届けてから、一家をあげて東京(住まいは千葉県市川)へと転居。しかし佐木さんには、そうそう仕事もありません。新たに第二児も生まれる。アパートの家賃が払えない。そこで市川の公団住宅に移りますが、貧窮・窮乏は何も変わりません。

 と、その辺りは、以前ブログでも書いたような気がします。20代から30歳になる頃には、新進の小説家として注目され、芥川賞だの直木賞だのの候補になったこともある。だけど、その程度の書き手は世のなかにゴロゴロいます。作家で食っていくためには、泥水をすするような取材記事でも、頼まれ仕事の提灯記事でも、何でも書かなきゃおカネになりません。

 そのなかで、完成するのかどうかわからない書下ろしの原稿を、新たに移った埼玉県幸手の公団住宅で、ほぼ2年間チマチマと書き進め、何とかできたのが『復讐するは我にあり』だったと。生活費がないので、講談社に少しずつ原稿を渡すたびに前借りで多少のおカネを融通してもらっていたそうです。

 これが昭和51年/1976年1月に直木賞を受賞します。佐木さんの文筆生活は状況が一変し、わんさか注文が舞い込んできます。無事に貧乏ライターの檻から脱出して、その後は実録物に強い作家として、物書き稼業を邁進することになりました。

 それもこれも、1970年代半ばには、過剰に膨れ上がっていた直木賞のブランド力のおかげです。直木賞をとって一発逆転の人生だ……と、ひとことで言ってしまうと、うさんくささが漂いますが、直木賞がもっている面白さのひとつなのは間違いありません。

 ともかく、直木賞までの佐木さんに、いかにおカネがなかったかは、賞金の使い道にもよく表われています。

「夫婦共に授賞式に出る晴着がなかったので賞金がもらえるまでのつなぎに友人から三十万円借りて新調しました。ほかに、郷里の北九州から母を招ぶ費用などです。」(『直木賞事典』「受賞作家へのアンケート」の「賞金は、当時何に使われましたか」に対する佐木隆三の回答より)

 生活費の一部に消えたのではない。授賞式に出るために賞金を使った、というのがこの回答のキモでしょう。

 戦前から戦後しばらくは、多くの受賞者が何に使ったのか覚えていない、つまり日常の暮らしのための生活費に、賞金が使われるのが一般的でしたが、もはや佐木さんの時代ともなると、生活費は受賞後の原稿料・印税でいくらでも稼げる、ひとまず賞金は授賞式に使ってしまう、ということです。

 実際、直木賞を受賞してまもなく、佐木一家は幸手の賃貸住宅から、同じ埼玉県の蓮田市に家を建て、そちらに移り住みました。佐木さんの1年後に受賞した三好京三さんのことは、先日、取り上げましたけど、三好さんもまた受賞後すぐに新築の家に移っています。1970年代、直木賞をとると家が建つ。そんな伝説が生まれたのは、このあたりが源泉でしょう。

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