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2023年3月の4件の記事

2023年3月26日 (日)

乱歩賞・直木賞を受賞しても、藤原伊織の借金3,000万円ほどは完済ならず。

 直木三十五記念館は、大阪市中央区谷町6丁目にあります。歩いて数分足らずのところに、若き直木三十五さんの過ごした長屋があった、というコテコテ&バリバリの下町です。

 直木賞と直木さんは別ものです。直木さんゆかりの地だからといって、別に直木賞と深い関係があるわけじゃありません。ただ、そこは直木賞の風呂敷の広さ。この賞は全国各地のあちこちに、かすかなつながりを張り巡らせています。

 直木記念館の界隈でいうと、まさにそこら一帯を舞台にした万城目学さん『プリンセス・トヨトミ』(第141回・平成21年/2009年・上半期 候補作)とか、やはり浄瑠璃の本場ということで縁のある大島真寿美さん『渦 妹背山婦女庭訓 魂結び』(第161回・平成31年・令和1年/2019年・上半期 受賞作)などの作品が、近年では挙げられるでしょう……といったようなことを、こないだ記念館を観にいったときに、事務局長の小辻さんから聞きました。

 それと受賞者では、意外とこの近くで生まれ育った人がいるんですよ、と教えてもらったのが藤原伊織さんのことです。

 へえ。そうなんですか。あまり大阪のイメージはなかったですけど、たしかに調べてみれば藤原さんが高校まで育ったのは、大阪市の今里。記念館から少し距離は離れていますが、長堀通り一本でつながっていて近隣の街です。

 直木さんと藤原さん。無理やりこじつければ、その境遇は似ていないこともありません。藤原さんのエッセイにはこうあります。

「私の実家は裕福とはいいがたい。給与生活者になる以外、生きる方法は考えつかなかった。作家になろうなどとは当然、夢想だにしなかった。

赤貧というほどではないが、私の家はたしかにビンボーだった。実家は、大阪の今里にある長屋の端っこである。」(『オール讀物』平成8年/1996年3月号、藤原伊織「空白の名残り」より)

 家が貧乏である。高校を出たのち、東京の大学に進んだ。はじめ作家になろうとは、つゆほど思っていなかった。などなど。そしてやっぱり直木さんと藤原さんといえば、最大の共通点は「借金」です。

 直木さんの借金ネタは、みんな大好き、こぞって語り継ぐほどに有名ですが、藤原さんのエピソードも負けちゃいません。

 平成7年/1995年、第41回江戸川乱歩賞の受賞が決まったとき、受賞会見で賞金1,000万円の使い道を聞かれて、麻雀とかでふくらんだ借金の返済に使います、と返答。これがマスコミ陣に大層おもしろがられて、いろいろと記事に書かれたうえ、その半年後には直木賞までとってしまったことで、エピソード力も倍増し、フジワライオリといえば高額賞金を借金返済に使い、それでもまだ返し切れないほどの借金魔……として人々の印象に残りました。

 どんな麻雀を打っていたんでしょう。その一端が、上に引用した『オール讀物』の受賞記念エッセイで触れられています。

 時代は、藤原さんが『野性時代』の新人賞に応募していた昭和50年代から少しあと、すばる文学賞をとる昭和60年/1985年よりちょっと前の頃。マンションの一室で行う三人麻雀で、賭けのレートがべらぼうに高く、だいたい30分打って一ト月分の給料がふっ飛ぶぐらいだ、というのですから、異常な遊びです。藤原さんの友達は、そこで1年で1億円負けたんだとか。

 まあ、借金の額を誇るようになったら、人間おしまいだ、という気はします。藤原さんも別に、借金をたくさん抱えていることを自慢げに吹聴したわけじゃなく、乱歩賞のときも、記者にツッコまれて言わされた、といったことがあったようです。「賞金は何に使うんですか」「借金の返済に充てます」「住宅ローンとか?」「いや」「では、何の借金?」「麻雀の負けとかいろいろあって」と。あんなこと言うんじゃなかった、と藤原さんはあとで悔やんだらしいです。

 本人が語るところでは、このとき借金は3,000万円ほどあったのだと言います。乱歩賞の賞金。それから単行本(1冊税込1,400円)の印税。なにしろ『テロリストのパラソル』は、かなり売れましたので、印税の収入だって馬鹿になりません。仮に印税10%で、30万部売れたということになれば、税抜136円×30万=4,000万円ほど。そこから税金が引かれて、藤原さんの手もとに残るのは、もう少し額が落ちますが、賞金と合わせてこれで完済できたっておかしくありません。

 しかし、けっきょく乱歩賞のアレコレでは完済することはできなかった模様です。かたわら、天下の電通に勤めて毎月、高給を得ます。その後、コンスタントに小説を書き、そのたびに評判もよくて本も売れ、文庫化されればさらに売れ、いずれは借金もなくなった……とは思うんですが、なにせヒトさまのフトコロ事情です。どうなったのか詳しいところまではわかりません。

 ところで、乱歩賞をとった半年後には直木賞を受賞して、このときは賞金100万円が出ました。いったいその賞金は何に使ったのか。普通に考えれば、これもまた借金の返済に全額あてた、と考えるのが自然でしょう。聞く記者がいなかったのか、乱歩賞のときに懲りて藤原さんが正面から答えるのを避けたのか。とくにエピソードとしては残されていません。

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2023年3月19日 (日)

「私は連城三紀彦だ」と言って観光客から1万円を騙し取る男、京都に出没する。

 こないだ、札幌・小樽に行ってきました。

 理由はもちろん、第168回(令和4年/2022年下半期)の直木賞を、札幌からほど近い江別市出身の作家がとったからです。

 ……と言えたら、直木賞オタクとしては美しいですけど、別にそうじゃありません。ただ、いちおう予定のあいまを縫って、江別の市役所に飾られているという祝・直木賞の垂れ幕だけは見物してきました。あれって、いくらぐらい経費がかかったんでしょうね。そのうち公表されたらメモっておきたいと思います。

 さて、旅行の主たる目的は、市立小樽文学館に行くことでした。今回お目当てだった展示内容は、残念ながら直木賞とは関係がなく、正直ブログで書くようなハナシでもありません。だけど小樽文学館といえば、ミステリー作家に関する展覧会をしばしば企画することでも知られていて(知られているのか?)、これまで小栗虫太郎とか、泡坂妻夫、連城三紀彦など、直木賞にも縁のある人たちが続々と取り上げられてきました。きっとそのうち、京極夏彦展も開いてくれることでしょう。開いてくれるといいなあ。期待しています。

 せっかくなので、今週のエントリーは、上記に挙げた作家のうちの一人にからめたおカネのことで行ってみます。いったい直木賞と関係があるのかないのか。よくわからないミミッちい話題です。

 以前、このブログで「犯罪でたどる直木賞史」というのを調べていたことがあります。そのなかで、ある男が「自分は向田邦子の甥だ」と嘘をつき、女性に近づいては金品を騙し取った一連の犯罪事件を取り上げました。

 この男は、スチュワーデス8人からおよそ3000万円を口八丁手八丁で奪って指名手配され、さらに別の女性に結婚を持ちかけて約55万円を詐取した、ということで昭和60年/1985年に実刑判決をくらったそうです。

 直木賞の受賞者の名前を使って、詐欺行為を働く。上記の場合は「受賞者の甥」ではありましたが、もちろん、受賞者本人の名前を騙った例は、古今、日本じゅうで数かぎりなく行われてきたでしょう。これもまた直木賞という文学賞の虚名が膨らんだ末に生まれた、直木賞がらみの案件です。

 小樽で企画展が行われた作家でいえば、連城三紀彦さんも、勝手に知らない人に自分の名前を使われたひとりです。

 報道されたことが2度あります。いずれも連城さんが存命中のことです。

 最初は平成9年/1997年11月。住所不定、当時50歳だった無職の男が、京都の観光地をぶらぶらし、これぞと目をつけた若い女性観光客に近づいて、私は連城三紀彦という作家ですが、いま京都に関する本を書いているところでして、などと話しかけ、ときに現金を騙し取ったり、ときに女性に抱きついたりして迷惑をかけ、京都府警の松原署に逮捕された、ということです。

 2度目はそれから約10年たった平成18年/2006年2月。今度もやはり京都の観光地が舞台にして、住所不定、無職の男が、私は連城三紀彦という作家ですが、と若い女性観光客に声をかけ、アルバイトに雇いたいんですが、いま約1万円を払ってくだされば、登録料というかたちでこちらで話を進めます、みたいなことを言ったようです。そんなこんなで、似たような手口で20件ほど犯罪を重ねたところで、そのうちの一人の女性が、インターネットで調べてみたら、連城って作家と全然、顔がちがうじゃん! と気づき、被害届が出されて、詐欺容疑で逮捕されます。

 まあいずれも、取り上げるのも馬鹿らしいミミっちい犯罪ですが、『毎日新聞』の記事を見比べてみると、当時の年齢や名前からして、この2つの犯罪は同一人物によるものです。

 どうして「連城三紀彦」を選んだのか。そこはよくわかりません。さすがにこの男が連城さんのファンだった、とは考えづらいところではありますが、男がどんな供述をしていたのか、少し詳しく書いているのが『産経新聞』の記事です。

「容疑者は、近くの高台寺付近で、このOLらに「自分は連城三紀彦という作家で、社会派の本を書いている」と接近。OLの手帳に「火曜サスペンス“京都への旅”」と架空の本の題名を書いて信用させ、犯行に及んだ。

(引用者中略)

容疑者は、これまでにも同じく円山公園などで観光客の女性を相手に金品をだまし取っていたことを自供。「京都に観光に来ている女性は、ロマンチックな雰囲気や解放感から簡単にだませる」「だまされても被害届を出さない」などと話しており、同署で余罪を厳しく追及している。」(『産経新聞』平成9年/1997年11月16日「直木賞作家と偽りわいせつ行為 京都旅行のOLに抱きつきキス迫る 無職男を逮捕」より)

 あるいは、連城さんには若い女性をうっとりさせそうな、ロマンチックで信用のある名前だという印象があったのかもしれません。それはそれで、たしかに、とは思いますが、しかし1万円程度のおカネを騙し取るためには、「連城三紀彦は恰好の知名度(というか無名度?)だ」と認識されていたのですから、なかなか悲しくなります。

 ちなみに2度とも捕まったのは鈴木安男という男で、その後健在なら現在75歳ぐらいです。いまでもクソみたいなことやっているんでしょうか。わかりません。

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2023年3月12日 (日)

あまりにカネがなかった佐木隆三、直木賞の賞金は晴着の新調代などに使う。

 書くハナシのストックがなくなってきました。なので、また『直木賞事典』(昭和52年/1977年6月刊)から、賞金の使い道をチェックしたいと思います。

 第74回(昭和50年/1975年・下半期)に受賞したのが佐木隆三さんです。賞金は30万円でした。

 選ばれた『復讐するは我にあり』(昭和50年/1975年11月・講談社刊)は、戦前の変則手ともいうべき鷲尾雨工さんの『吉野朝太平記』を除けば、直木賞ではじめて上・下巻の2分冊に賞が贈られた作品です。上・下それぞれ一冊790円。印税を10%とすると、佐木さんに入るのは79円。ものの記録によりますと、最終的に上・下合わせて43万7000部売れたそうなので、都合、印税は3,400万円以上になります。直木賞の賞金なんて鼻クソみたいなものです。

 それまでの佐木さんは、大して売れていない貧乏ライターでした。沖縄滞在中に再婚した奥さんと、生まれたばかりの長女を連れて、沖縄本土復帰を見届けてから、一家をあげて東京(住まいは千葉県市川)へと転居。しかし佐木さんには、そうそう仕事もありません。新たに第二児も生まれる。アパートの家賃が払えない。そこで市川の公団住宅に移りますが、貧窮・窮乏は何も変わりません。

 と、その辺りは、以前ブログでも書いたような気がします。20代から30歳になる頃には、新進の小説家として注目され、芥川賞だの直木賞だのの候補になったこともある。だけど、その程度の書き手は世のなかにゴロゴロいます。作家で食っていくためには、泥水をすするような取材記事でも、頼まれ仕事の提灯記事でも、何でも書かなきゃおカネになりません。

 そのなかで、完成するのかどうかわからない書下ろしの原稿を、新たに移った埼玉県幸手の公団住宅で、ほぼ2年間チマチマと書き進め、何とかできたのが『復讐するは我にあり』だったと。生活費がないので、講談社に少しずつ原稿を渡すたびに前借りで多少のおカネを融通してもらっていたそうです。

 これが昭和51年/1976年1月に直木賞を受賞します。佐木さんの文筆生活は状況が一変し、わんさか注文が舞い込んできます。無事に貧乏ライターの檻から脱出して、その後は実録物に強い作家として、物書き稼業を邁進することになりました。

 それもこれも、1970年代半ばには、過剰に膨れ上がっていた直木賞のブランド力のおかげです。直木賞をとって一発逆転の人生だ……と、ひとことで言ってしまうと、うさんくささが漂いますが、直木賞がもっている面白さのひとつなのは間違いありません。

 ともかく、直木賞までの佐木さんに、いかにおカネがなかったかは、賞金の使い道にもよく表われています。

「夫婦共に授賞式に出る晴着がなかったので賞金がもらえるまでのつなぎに友人から三十万円借りて新調しました。ほかに、郷里の北九州から母を招ぶ費用などです。」(『直木賞事典』「受賞作家へのアンケート」の「賞金は、当時何に使われましたか」に対する佐木隆三の回答より)

 生活費の一部に消えたのではない。授賞式に出るために賞金を使った、というのがこの回答のキモでしょう。

 戦前から戦後しばらくは、多くの受賞者が何に使ったのか覚えていない、つまり日常の暮らしのための生活費に、賞金が使われるのが一般的でしたが、もはや佐木さんの時代ともなると、生活費は受賞後の原稿料・印税でいくらでも稼げる、ひとまず賞金は授賞式に使ってしまう、ということです。

 実際、直木賞を受賞してまもなく、佐木一家は幸手の賃貸住宅から、同じ埼玉県の蓮田市に家を建て、そちらに移り住みました。佐木さんの1年後に受賞した三好京三さんのことは、先日、取り上げましたけど、三好さんもまた受賞後すぐに新築の家に移っています。1970年代、直木賞をとると家が建つ。そんな伝説が生まれたのは、このあたりが源泉でしょう。

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2023年3月 5日 (日)

50銭だった直木賞発表号、78年たって2,400倍の1,200円に。

 こないだ『オール讀物』令和5年/2023年3・4月合併号が発売されました。

 今回は試験的に、kindleやら何やらでも読める電子雑誌版も発売された、本屋にわざわざ行かなくても済むんだ、ということで大盛り上がり、いままで以上に直木賞の選評に触れる人もぐっと多くなる……かどうかはわかりませんけど、直木賞といえば、『オール讀物』を買うところまでが一連のコースです。ワタクシにとってもルーティンです。

 しかし、最近は一冊に1,200円も払わなきゃいけません。お財布もピーピーです。ああ、もはや大衆誌というより、活字を読むマニアのための雑誌になっちまったんだな、という感を強くしますが、『オール讀物』の歴史を見ると直木賞よりちょっと長くて92年。その価格の変遷を追うだけで、この雑誌と直木賞のおカネについての関係性が、なにがしか浮かび上がってくるんだろうなと思います。

 ただ、変遷を追うのは面倒です。それはまた別の機会にしまして、今週は第1回(昭和10年/1935年・上半期)直木賞が発表された『オール讀物』昭和10年/1935年10月号と、最新回の発表号とを並べてみることにしました。

20230305193510
昭和10年/1935年10月号
20230305202303
令和5年/2023年3・4月合併号
上昇率
一冊定価 50銭 1,200円 2,400倍
直木賞の賞金 500円 100万円 2,000倍
表2広告 コロムビアポータブル
25円
むぎ焼酎壱岐 1800ml・25度
1,900円
76倍
表3広告 ローヤルナイトクリーム
60銭
池井戸潤『シャイロックの子供たち』文春文庫
770円
1,284倍
表4広告 妙布
1円
4711 Portugal
3,000円
3,000倍

※広告掲載商品については、最新号では価格表記がないので、ネット情報で補完

 ほんとは、単号あたり制作にいくらかかったかとか、載っている原稿料の総額とか、そういうのを比較できればいいんでしょう。しかし、さすがにそれはわかりません。

 で、代わりにどのくらいの価格の商品が表紙まわりの広告に出ているのかを挙げてみました。いやいや、そんなの何の比較になるんだ、っていうハナシですけど、とりあえず最新の号では、表紙まわりに自社の商品広告が入ってしまっている。一抹の哀しさを感じます。

 上記には挙げませんでしたが、おカネにまつわる話題でいうと、昭和10年/1935年当時の『オール讀物』には、いくつか懸賞企画が載っています。

 夢野久作「二重心臓」の犯人当ては、当選者には賞品があって、一等・客用座布団一揃(2名)、二等・美術置時計(5名)、三等・特製コーヒーセット(20名)、四等・優美便箋組合せ(50名)、五等・本社特製タオル(100名)、六等・本社特製美麗絵ハガキ(300名)……とのことです。客用座布団、そんなに欲しいか? と思いますが、このあたりは戦前昭和といまとの、生活文化の違いかもしれません。

 懸賞は他に、麻雀、詰碁、詰将棋、聯珠があり、それぞれ当たると賞金・賞品が出ています。一等2円、二等1円、三等・本社特製美麗絵ハガキ一組。

 こういう企画は、現在はときどきはやっていても、毎号ということはありません。それに近いものを感じるのは「短歌の部屋(東直子・選)」「俳句の部屋(高橋睦郎・選)」ぐらいでしょうか。ただ、投稿が採用されても賞金・商品はなく、掲載誌の贈呈のみです。世のなか、おカネより大事なものがある、と(おそらく)言いたいんだと想像します。

 それはともかく雑誌の定価ですが、そのうち1,500円、2,000円という時代が来てもおかしくはなさそうです。そのとき、直木賞の賞金も同じくらいに上がっているのか。いまから期待して、『オール讀物』の値上がりを待ちたいと思います。

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