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2023年2月の4件の記事

2023年2月26日 (日)

邱永漢、直木賞をとって十万円作家になり、カネ儲けの話を書いて百万円作家になる。

 おカネにまつわる直木賞、ということでいえば、まだまだ取り上げなきゃいけない作家が何人もいます。なかでも、その最高峰(?)に位置するのが邱永漢さん。第34回(昭和30年/1955年下半期)の受賞者です。

 うちのブログでは、何かというと邱さんのことばかり触れています。作品のことは、ワタクシもよくわかりませんが(オイオイ)、邱さんは生きざまが特異すぎて、注目どころが満載すぎる。おのずと、うちみたいなゴシップブログではたくさん取り上げることになる、という寸法です。

 それで、おカネのことですが、邱さんといえば何でしょう。直木賞の受賞者であることよりも、物書きとして一気に売れたのがおカネにまつわる文章でした。

 戦後、日本の社会は「経済大国」を目指します。マスコミでも出版界でも、おカネの話題はカネになる。欠かすことができません。邱さんは昭和31年/1956年1月に直木賞を受賞して以来、乞われるまま、関心の向くままに原稿を依頼されますが、そのなかで、こいつの発想は面白いな、と邱さんの才能に惚れ込んだのが、中央公論社の嶋中鵬二さんです。

 昭和33年/1958年、嶋中さんが編集長だった『婦人公論』におカネに関するエッセイを連載します。それをもとにして『金銭読本』(昭和34年/1959年1月・中央公論社刊)を出したところ、これが大当たり。直木賞をとってもなかなか売れない小説家、になりかけていた邱さんに、なるほど読者はこういうものが読みたいのか、と目を開かせるに至ります。おカネ、というテーマは、邱さん自身の興味にもズバリ合っていました。そこから経済の素人、という仮面をかぶりながら、企業経営、株式投資、おカネ儲けの方面に、着々と足跡を残していきます。

 と、そんなふうに小説家から飛び出ておカネに関する評論・エッセイそして実践者として名を挙げるにいたった経緯は、邱さんの『私の金儲け自伝』昭和46年/1971年10月・徳間書店刊『邱永漢自選集第8巻』所収)に詳しく書かれています。邱さんがどうやって直木賞の世界に行ったのか、そしてそこから小説を書かなくなったのか。おカネの話題にからめて回想された楽しい一冊です。

 直木賞の賞金は、戦後5万円から出発します。そこから10万円に倍増したのが、5年ほど経った第32回(昭和29年/1954年下半期)から。朝鮮特需を経て、経済復興の足取りが確固としたものになった頃です。

 商業としての小説界全般の景気がよくなるのは、もう少しあと、昭和30年代以降に週刊誌が乱立しはじめた頃からだと思いますが、その少しまえ、邱さんが直木賞をとっていよいよ作家として食っていくか、と本腰を入れ始めた時代のことも、『私の金儲け自伝』では回想されています。

 邱さんを文壇に引き上げてくれた恩人のひとり、檀一雄さんが語った言葉です。

「「日本の文壇で、君はプロの小説家としてやっていけることは間違いない。しかし、十万円作家にはなれても、百万円作家にはなれないだろう」

(引用者中略)

「十万円作家とは、月収が十万円ということで、『新潮』や『群像』や『文学界』のような純文芸雑誌を舞台にして小説を書く作家のことです。純文芸雑誌は原稿料が一枚五百円から千円まで程度だから、一篇書いても五、六万円にしかならない。たまに中間雑誌に書くとして、まあ、月に十万円くらいの収入でしょうね。ところが、新聞や週刊誌の連載小説を書くようになると、原稿料も高いし、月に三本も五本も連載しておれば、月収が百万円になる。君の小説は、純文芸雑誌向きだから、十万円作家といったんだよ。」(『私の金儲け自伝』より)

 ほんとに、そう言ったのかもしれません。しかし、直木賞の賞金から見ると、当時の10万円作家は、現在の100万円作家、ということになります。月に原稿を書いて数十万から100万までの収入を得る。作家としては、妥当な部類です。

 十万円作家になれればスゴイじゃないか。と邱さんも、直木賞を受賞するまでは思っていたそうです。いざ受賞してみると、たしかに月収10万円ぐらいは原稿で稼ぐことができる。しかし、小説ではそれ以上の収入を得る作家になれそうもない、と考え始めます。転機です。

 10万円でいいと思うか。100万円を目指すか。直木賞をとってもそれだけじゃカネを稼げる物書きにはなれない。というのが真実でしょうけど、邱さんがのちにおカネのことを書いて百万円作家になれたのは、そもそも直木賞で十万円作家になれていたからだ、とも言えます。どっちにしたって、読者にとっては遠い遠いおとぎ話のようなおハナシです。

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2023年2月19日 (日)

直木賞を受賞すれば講演料が3倍の30万円にハネ上がる、と百々由紀男は断言する。

 何の世界でもそうでしょうが、たいてい外から見ているほうが楽しいです。中に入れば入ったで、おそらく公にはできない汚濁や地獄が広がっているはずなので。

 直木賞もそうなんじゃないか。ということは容易に想像できます。少し離れたところから見ているのが、直木賞は平和で楽しいです。

 というところで、現実に行われている直木賞を追うのに疲れたとき、いつも読みたくなる本があります。百々由紀男さんの『芥川直木賞の取り方 あこがれが“勝利の女神”に!今』(平成5年/1993年7月・出版館ブック・クラブ刊)です。

 あまりに面白すぎて、うちのブログでも十何年か前に取り上げました。どんなふうに紹介したのか、もはや全然覚えていませんが、いまでも手もとに置いて、つらいときや苦しいときには、そっとページをめくってしまう。ワタクシにとって心の清涼剤です。

 こんな本を読んでも、直木賞が取れるとは思えません。そんなことは、著者の百々さんも重々承知のはずで、直木賞の世界を、遠目から見て楽しみたい外野の傍観者たちに向けて、楽しみを提供しよう。そう思って書かれた一冊……なのだと思います。ですので、そういうことに興味のある人は、ぜひ読んでみてください。

 目次を引くと、内容はこんな感じです。「第1章 芥川・直木賞作家の優雅でリッチな生活」「第2章 誰でも作家になれる!受賞のコツと作家修業いろいろ」「第3章 新人賞のここを狙えば芥川・直木賞の道が開ける」「第4章 芥川・直木賞受賞の最短距離を行く」「第5章 芥川・直木賞作家になる、小説の書き方いろいろ」

 小説の書き方、みたいな部分は、正直どうでもいいです。ここで取り上げるのは、やっぱりおカネに関するところです。

 一冊そのものが下品で下世話を煮詰めたような内容なので、おカネのハナシもたくさん出てきていいようなところ、実際そこまででもありません。

 人サマのおカネのことは、外から見ていてもわからない部分が多い、ということでしょう。新人賞に応募して最終選考に残り、だれか作家に選評で触れてもらったら、かならずお礼の手紙を書け、と言っている文章があるんですが、とにかく百々さんは、売れないうちは有名な作家に顔を覚えてもらえ、ゴマをスッて、どうにか自分の原稿が大きな賞の候補になるチャンスを探せ、と主張しています。何か百々さんか、近くにいる人の経験が入っているのかもしれません。

 ここに具体的な金額が書かれているのが、作家がひらく出版記念パーティーの参加費です。「会費を払って(3万~5万)出席すると、署名本をくれるし、挨拶して顔を覚えてもらうのも作戦。」なのだそうです。こういう文章に、百々さんがどういう姿勢で出版業界の底にへばりついていたかが、よく現れています。

 さて、肝心なのは直木賞の受賞に関するおカネのことです。

 受賞すればスゲエ儲かるんだぜ、というその例として百々さんが出しているのが、吉本ばななさんの『キッチン』の例。150万部のミリオンセラー、印税収入が1億5000万円。といったところから見ると、受賞さえしていれば、生涯収入は10億円以上は軽い軽い……。というんですけど、いやいや、爆発的なミリオンセラーを基準に言われてもね、直木賞はどうなんだよ。と、読者にツッコむ余地を与えているところなど、百々さんの芸のこまかさです。

 もうひとつ具体的な金額が挙げられているものがあります。講演のギャラです。

「受賞前10万円の講演料が、受賞したとたん30万円以上にハネあがるのが常識。

テレビ出演も「出たくない」とゴネると、たちまち芸能人なみにアップする。ちなみに出演料は、芸能人、文化人、政治家の順が一般的。」(『芥川直木賞の取り方 あこがれが“勝利の女神”に!今』より)

 そもそも、講演料が10万円から30万円に上がる、ってハナシが、なぜ、じゃあわたしも作家になろう! というところにつながるのか。つながると百々さんは思っているのか。

 百々さん自身、自分が名もない売文ライターだったせいで、講演のギャラ設定で苦い経験をしたんだろうな。思わずうるっとしてしまいます。

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2023年2月12日 (日)

立原正秋、俺が月に5万円ずつやるから仕事をやめろと高井有一にせまる。

 数か月前、高井有一さんの本を集中的に読みました。

 直木賞オタクなどが、いくら読んだってわかるような作家じゃありません。ただ、芥川賞をとった人のなかでも、直木賞とはかなり縁があった、と言われています。読まずに済ますにはいきません。

 高井さんと直木賞の関わりで、やっぱり目に留まるのは立原正秋さんの存在です。

 両者、いったい何がどうやって性が合ったのか。よくわかりませんが、むかし仲がよかった人も含めてバッサバッサと切り捨てた暴君・立原さんが、なぜか心を許したのが高井さんです。

 高井さんもまた、何度か絶交・絶縁をしながらも、けっきょくは立原さんと復縁し、『立原正秋』(平成3年/1991年11月・新潮社刊)なんちゅう作品まで書いてしまいます。こういう人と人との関係は、はたから見ていても正直、理解が及びません。

 さて、おカネのハナシです。高井さんが芥川賞を受賞したのが第54回(昭和40年/1965年・下半期)。立原さんの直木賞受賞は、その次の第55回(昭和41年/1966年・上半期)。賞金が10万円だった時代の、最後のほうに当たります。日本の経済がびゅんびゅん加速して太り肥えていった時代です。

 『立原正秋』のなかで面白いのは、高井さんと立原さんのあいだで、「小説を書いて世に出る」ことに大きな認識のズレがあった、というところです。高井さんは、別に働きながら小説は自分のペースで少しずつ書いていけばいい、と思っていたのに対し、立原さんはまったく違いました。せっかく作家として世に出たなら、書いて書いて書きまくれ。おカネもどんどん稼いでそれで生活を立てろ、と考えていた、と言います。

 昭和43年/1968年ごろ、と言いますから両者ともすでに文学賞をとったあと、高井さんは立原さんから執拗に、いまの仕事はすぐにやめろ、筆一本で立て、とけしかけられます。そして立原さんはこう言ったんだそうです。

「「向う一年間、俺が君に月づき五万円づつやるよ。年に六十万だ。それだけあればどうにか共同を辞められるだらう。どうだ」

この唐突な申し出に何と答へたか、私は自分の言葉が思ひ出せない。口ごもつたあげくに絶句するしかなかつたやうな気がする。月五万円は、当時なら一人がかつかつに暮して行けるだけの金であつた。立原正秋は、その辺も考慮した上で、金額を口にしたのだつたらう。」(高井有一・著『立原正秋』より)

 どれだけあれば生きていけるか、金額をはっきり提示して、それで作家として基盤ができるまでの生活費にしろ、と申し出る。おまえは創設時の直木賞か。と、思わず立原さんにツッコミを入れたくなるところです。

 このとき、直木賞の賞金は20万円に上がっていました。最低限の暮らしを送るには月に5万円が要る、ということは直木賞の賞金は、このとき4か月分程度の生活費、というぐらいの水準だったわけです。まあ、少なくとも直木賞を賞金でもって見るような視点は、すでにこの頃にはなくなっています。

 いずれにしても、一年がんばれば、何とか小説を書くことで安定した職になる、と思われていたのも、経済成長期らしい発想です。いま、そんなことを言える人がどれだけいるか。小説業界は尻つぼみの産業です。一年程度おカネが与えられたところで、その後の収入が安定する未来は、ほとんど見通せません。

 その辺り、高井さんはさすがに見抜いていて、こんな一文も書いています。

「順風満帆の(引用者注:立原の)歩みの背景には、高度経済成長によつて繁栄する社会があつた。古典志向の強い彼は、戦後の社会に美的節度が失はれたのを嘆き、金銭と能率万能の風潮に嫌悪を示し続けたが、一方では、高度成長の余恵を蒙つて、金銭的にも時間的にも余裕を得た女性たちが、派手やかな作風の彼の小説の、最もよい読者となつた事実は争へない。」(高井有一・著『立原正秋』より)

 たしかにそうだろうな、と思います。

 経済成長のこの頃でなければ、売れようもなかった立原正秋。この人もまたおカネに縛られ、おカネの中に生きた受賞者でした。

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2023年2月 5日 (日)

月900円稼いだそばから、月1200~1300円使ってしまい、俺は貧乏だと言い続ける直木三十五。

 先週にひきつづき、また直木三十五さんのハナシです。

 直木賞には関係ないかもしれません。だけど、2月といったら何なのか。直木三十五&直木賞の月です。

 直木さんは2月に生まれて、2月に死んだ人ですし、これまで直木賞の「前年下半期」の回は、2月に選考したり、2月に授賞式をおこなってきました。なのでまあ、この時期に直木さんについて考えることは、すなわち直木賞を語ることにつながるのかな、と思います。……正直、こじつけです。

 それはそれとして、直木さんは「昭和前期に活躍した流行作家」と紹介されることがあります。その時代には流行していたのに、死んでしまったら誰も読まなくなった。という、過去何百人(?)もいる普通の物書きの一人ですけど、普通と違うのは、とにかく何でもあけすけに、べらべら、滔々とぶっちゃけたハナシを手当たり次第に書き殴った、ということです。当時の文人は、菊池寛さんもたいがいですが、あけすけに物を言う人たちばっかりだったとはいえ、直木さんの暴露ヘキもなかなかのものでした。

 おカネのこともさまざまに書いています。何を書いていくらもらった。何をいくらで買った。と、こまごましたハナシまで発表してしまう栓のゆるさ。そんなこと書いてどうするんだ、と思います。ただ、世の中の人はおカネのハナシが大好きです。さらけ出せば出すだけ、それだけ喜ぶ人もいた、ってことでしょう。捨て身の人間は、それだけで魅力的です。

 没後に出た『直木三十五随筆集』(昭和9年/1934年4月・中央公論社刊)に「生活の打明け」というエッセイがあります。昭和8年/1933年頃に書かれたもので、いわば直木さんが「流行作家」として絶頂を迎えた頃のものですが、そこで直木さんはわざわざ、自分の稼ぎというか収支状況を明かしています。

 定収入は、新聞・雑誌への連載で得る稿料です。

「この稿料であるが「夕刊大阪」は、一回原稿紙四枚で、金十圓、一枚二圓五十錢である。「國民」は、最初交渉しにきた時に、一回三十圓であつた。だが私は、成績のよくない會社から、三十圓をとつては悪い、と思つて、二十圓でいゝと辞退した。所が、最近三社が、自力更生といふ事をやるんで、又値下げした。即ち、両社で、三百圓と、四百五十圓と、計七百五十圓。「日本少年」一枚三圓「家の友」一篇百圓。九百圓足らずと見ていゝ。」(直木三十五「生活の打明け」より)

 一ト月の収入が900円というのは、なかなかのセレブな高額所得者です。おおよそ一般には月に100円もあれば、並の生活ができた時代で、切り詰めれば40~50円でも何とかなるだろう、というぐらい。

 なので、直木賞の最初の賞金が500円でも、けっこうな使い出のある金額だ、そうに違いない、と菊池さんや佐佐木茂索さんが主張したわけですね。

 もろもろと鑑みると、月収900円というのは、いまの感覚では200万円ぐらいに相当するんじゃないか、と思われます。物書きのなかでもけっこうな稼ぎ屋です。

 ただ、直木さんに言わせると、それだけ稼いだって、どんどん出ていってしまう。だからいまでも俺は貧乏なんだ、と言い張っています。支出のほうは一ト月だいたい1200~1300円。まあ、どう見ても浪費中の浪費です。

 直木さんは経営や経済に興味があり、俺だって本気を出せばすぐにカネ儲けができるんだ、と信じていたふしがあります。ふしがある、というか、実際そんな文章も残しています。しかし直木さんにとってのカネ儲けはあくまで刹那的です。その意味からして、ほとんど商売人には向いていません。

 もしも、直木さんがカネにシビアで、商売を後まで続けよう、という意思のある人だったら。と仮定で言っても意味はないですが、おそらく昭和9年/1934年には死ななかったでしょうし、菊池さんもわざわざ文学賞をつくって名前を残してやろう、とは思わなかったでしょう。

 いっときバーッと稼いでおきながら、けっきょくは後に財を残さなかったこと。菊池さんが、直木さんのために没後何かしてやろうという気になったのは、やはり直木さんがおカネを全部使っちゃったことにも、多少の理由はあったと思います。『文藝春秋』の昭和9年/1934年4月号を直木追悼号にして、売上の一部を直木さんのために使い、多磨霊園に記念碑をつくったのも、そのひとつ。そして、文春でおカネを負担して、直木の名を冠した文学賞をつくった、というわけです。

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