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2022年11月20日 (日)

平成16年/2004年、直木賞の事業は1年で3000万円ぐらいかかっていた。

 もうじきなくなるという八重洲ブックセンター本店で、こないだ面白いイベントがありました。免条剛さんと羽鳥好之さんが、それぞれ小説第一作目を発刊、それを記念したトークイベントです。

 免条剛さんといえば、本名、校條剛。元『小説新潮』の編集長を務め、『ザ・流行作家 笹沢左保 川上宗薫』(平成25年/2013年1月・講談社刊)、『作家という病』(平成27年/2015年7月・講談社/講談社現代新書)といった、直木賞の歴史をさぐるうえでも見逃せない文壇回顧ものを書いた人です。トークイベントでも、新潮社がいかに新人発掘で下手をこいてきたか、その澱んだ状況を打ち破るために、昭和63年/1988年、日本推理サスペンス大賞を新潮社側の担当として立ち上げたときの苦労バナシなどが語れていました。それはそれで面白いんですが、今週のブログは、そのことではありません。

 もうひとりの、遅れてきた新人作家、羽鳥好之さんのことです。

 昭和59年/1984年に文藝春秋に入社、長く文芸編集者の道を歩んできました。『オール讀物』の編集長になったのが平成16年/2004年。それから3年ほど、同職を務めます。『オール讀物』の編集長というのは、直木賞ファンにとっては代々おなじみの存在で、要するにそれは、この職にある人が直木賞の選考委員会の司会を務めるからなんですが、羽鳥さんも第131回(平成16年/2004年・上半期)から第136回(平成18年/2006年・下半期)まで司会の椅子に座っています。

 その最後の第136回とは、どんな回か。受賞作が出なかった回です。それ以来、第137回からこないだの第167回までえんえんと、直木賞では受賞者を出しつづけていますので、いまのところ「授賞なしを決断した最後の直木賞司会者」ということになります。

 トークイベントの本筋は、直木賞のことではなかったので、そこら辺の話題はあまり出ませんでしたけど、しかし司会をしていた頃のちょっとしたエピソードが出て、ワッとワタクシのテンションも上がりました。というのも、羽鳥さんは歴代の司会者のなかでも、かなり異質な特徴があるからです。

 第131回・奥田英朗『空中ブランコ』と熊谷達也『邂逅の森』、第132回・角田光代『対岸の彼女』、第133回・朱川湊人『花まんま』、第134回・東野圭吾『容疑者Xの献身』、第135回・三浦しをん『まほろ駅前多田便利軒』と森絵都『風に舞いあがるビニールシート』。……と、羽鳥さんが司会した直木賞ではすべて、文藝春秋の本が受賞しているのです。

 当時のことを羽鳥さんも「まわりからちょっとやりすぎじゃないかと言われたんですけど」とイベントで言っていました。司会は選考に加わりませんけど、最終的な決定をくだすまでの議論の流れは、司会に負うところ大です。文藝春秋の社員としては、そりゃあ、受賞作が自社のものになれば売り上げも見込めます。要は、文春の本が受賞するように司会の手練手管を効かせすぎたんじゃないか、とまわりからイジられた、というわけです。

 それについては、羽鳥さんもイベントの席で、釈明というか説明をしていましたが、編集者たちが作家と二人三脚でいい小説に仕上げていこうと努力するのは当たり前のこと、当時の文春の編集者たちがそれをした結果、直木賞にふさわしい作品が多く出てきただけのことだ、と文芸編集者としての矜持を語っていました。まあ、それはそうかもしれません。

 ハナシが逸れてきました。このブログでは、おカネのことに触れておかないと終われません。

 羽鳥さんが『オール讀物』編集長になった平成16年/2004年、日本文学振興会が直木賞の事業費としてかけたおカネはだいたい3000万円です。年二回の開催なので、1回あたりは単純に2で割ると1500万円といったところになります(「財団法人日本文学振興会 平成16年度収支計算書」より)。ちなみに、同振興会が文学賞の事業として行っているのは、ほかにアクタ何とか何だとか、直木賞を合わせて5つあり、そのすべての支出決算総額はおおよそ1年で1億2000万円ほどです。

 これがいまから18年ぐらい前。その後、出版業界は下向き路線に歯止めがかからず、とくに文芸は厳しい、文芸は売れない、と念仏のように唱えられてきました。

 振興会のサイトを見ると、ここ数年の文学賞事業は、年8000万円ぐらいでやりくりしているようです。ざっと計算すればおわかりのとおり、賞にかけるおカネが羽鳥編集長のころに比べるとだいたい3分の2に減ったことになります。ということは、直木賞にかけるおカネも、ぐっと縮小されたに違いありません。まったく、世知辛いです。

 司会した直木賞の選考会でぜんぶ自社本を受賞させてしまうぐらい敏腕だった羽鳥さんは、そこから役員クラスまで上り詰めますが、けっきょく社を去るときが来ます。そりゃ会社だって、いつまでも高給取りを抱えておく余裕はない。ということなんでしょう。もうお前は要らない、と言われた気がして退職後の人生を悩み、あれやこれやといろいろありながら、羽鳥さんがたどりついたのが、小説を書くことだった。……と先日のイベントでは語られていました。

 羽鳥さんぐらいの経歴なら、高橋一清さんとか豊田健次さんとか、それこそ校條剛さんのように、自分が見てきた作家と文壇についての回想録をいつか書いてもいいんじゃないか、と思います。しかし、いまのところ羽鳥さんにその気はなく、フィクションを書いていきたい、とのこと。この世知辛いを「作家」としてどのように歩いていくのか、注視しておきたいと思います。

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