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2022年11月の4件の記事

2022年11月27日 (日)

昭和52年/1977年ごろの通り相場では、直木賞をとると翌月から原稿料が2倍にアップ。

 『作家の原稿料』(平成27年/2015年2月・八木書店刊)という本があります。

 元禄6年/1693年から昭和49年/1974年まで、だれのどの作品がどれくらいの原稿料だったか、多くの資料から抽出して並べた「年表篇」が圧巻の一冊です。編著者は「作家の原稿料刊行会」ということで、浅井清、市古夏生、竹内栄美子、菅聡子、谷口幸代、佐藤至子、藤本恵の各氏の名前が奥付に載っています。定価9000円+税もするこの本で、それぞれの編著者がいくら収入を得たのか。そういうことも書いてあったら、より面白かったと思いますが、そんなフザけた本じゃありません。すみません。

 原稿料は、直木賞にとっても重要な指標のひとつです。なにしろ直木賞っていうのは、おカネのためにやっています。受賞作が売れて印税が入るという以上に、やはり大きいのは受賞すればその作家の原稿料が上がることだ、と言われてきました。

 『直木賞事典』(昭和52年/1977年6月・至文堂刊)を見ると、読売新聞の有山大五さんがこう書いています。

「現代、ジャーナリズムをめぐって、エンタティナーたらんとして活躍をはじめている新進作家、およびその予備軍にとって、状況的にみて、直木賞がいかなる意味をもち、各種文学賞においてどのような「位置」にあるのかは、現代が、情報化社会の真っただ中にあることを承知したうえで「直木賞をとった作家は翌月から原稿料二倍、年収は十倍」が“通り相場”であることを知るならば、おのずと理解がゆきとどくのではないだろうか。」(『直木賞事典』所収 有山大五「文学賞における「直木賞」の位置」より)

 理解がゆきとどくそうです。

 これが書かれたのは、昭和52年/1977年1月に第76回で三好京三さんが受賞した直後。となると、有山さんのいう原稿料バクあがりの恩恵を受けたのは、第74回の佐木隆三さん、第72回の半村良さん、井出孫六さん、第71回の藤本義一さん、第69回の長部日出雄さん、藤沢周平さん、第67回の綱淵謙錠さん、井上ひさしさん……そのあたりの名前が挙げられます。たしかに直木賞のおかげで景気がよくなった印象のある人たちです。

 前述の『作家の原稿料』には、残念ながらこの時代についての記述はありません。はっきりと出てくるのは、おおよそ15年ぐらいさかのぼって昭和38年/1963年1月、第48回を受賞した山口瞳さんのことです。

 山口さんの受賞作「江分利満氏の優雅な生活」は、昭和36年/1961年から『婦人画報』に連載されました。原稿料は、400字詰め用紙1枚あたり3000円。1回につき30枚書いて9万円、源泉ひいて手取りは8万1000円。当時の直木賞の賞金は10万円ですから、それと大して変わりません。

 直木賞を受賞した直後、『オール讀物』のために受賞第一作として書いた「伝法水滸伝」は、ぐっと下がって1枚1000円。50数枚の作品で、手取りは5万円に満たなかったとあります。

 婦人雑誌の原稿料、どんだけ高かったんだよ。いや、読物小説誌、どんだけ安かったんだよ。と思うところですが、つづいて『作家の原稿料』の年表では、山口さんが直木賞をとったあとに注文が殺到、書いてもらおうとするメディアは、どうにかおカネで釣ろうとしますので、1枚7000円を提示するところまで現われた……と紹介されています。

 なるほど、1枚3000円だった読み物ライターが、7000円になったんですから、だいたい原稿料は2倍です。

 ただまあ、直木賞の威力すさまじいぜ、などと浮かれていたのも、けっきょく昭和30年代から昭和50年代、日本の経済成長が土台にあったからです。いまさらそんな逸話をみてもシラけるだけですね。

 いまの直木賞でも受賞しただけで原稿料が2倍になるのかどうか。そんなハナシをリアルタイムで明かしたがる作家や編集者は、おそらくいません。これは50年後の直木賞研究者に、そっくりお預けしたいと思います。

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2022年11月20日 (日)

平成16年/2004年、直木賞の事業は1年で3000万円ぐらいかかっていた。

 もうじきなくなるという八重洲ブックセンター本店で、こないだ面白いイベントがありました。免条剛さんと羽鳥好之さんが、それぞれ小説第一作目を発刊、それを記念したトークイベントです。

 免条剛さんといえば、本名、校條剛。元『小説新潮』の編集長を務め、『ザ・流行作家 笹沢左保 川上宗薫』(平成25年/2013年1月・講談社刊)、『作家という病』(平成27年/2015年7月・講談社/講談社現代新書)といった、直木賞の歴史をさぐるうえでも見逃せない文壇回顧ものを書いた人です。トークイベントでも、新潮社がいかに新人発掘で下手をこいてきたか、その澱んだ状況を打ち破るために、昭和63年/1988年、日本推理サスペンス大賞を新潮社側の担当として立ち上げたときの苦労バナシなどが語れていました。それはそれで面白いんですが、今週のブログは、そのことではありません。

 もうひとりの、遅れてきた新人作家、羽鳥好之さんのことです。

 昭和59年/1984年に文藝春秋に入社、長く文芸編集者の道を歩んできました。『オール讀物』の編集長になったのが平成16年/2004年。それから3年ほど、同職を務めます。『オール讀物』の編集長というのは、直木賞ファンにとっては代々おなじみの存在で、要するにそれは、この職にある人が直木賞の選考委員会の司会を務めるからなんですが、羽鳥さんも第131回(平成16年/2004年・上半期)から第136回(平成18年/2006年・下半期)まで司会の椅子に座っています。

 その最後の第136回とは、どんな回か。受賞作が出なかった回です。それ以来、第137回からこないだの第167回までえんえんと、直木賞では受賞者を出しつづけていますので、いまのところ「授賞なしを決断した最後の直木賞司会者」ということになります。

 トークイベントの本筋は、直木賞のことではなかったので、そこら辺の話題はあまり出ませんでしたけど、しかし司会をしていた頃のちょっとしたエピソードが出て、ワッとワタクシのテンションも上がりました。というのも、羽鳥さんは歴代の司会者のなかでも、かなり異質な特徴があるからです。

 第131回・奥田英朗『空中ブランコ』と熊谷達也『邂逅の森』、第132回・角田光代『対岸の彼女』、第133回・朱川湊人『花まんま』、第134回・東野圭吾『容疑者Xの献身』、第135回・三浦しをん『まほろ駅前多田便利軒』と森絵都『風に舞いあがるビニールシート』。……と、羽鳥さんが司会した直木賞ではすべて、文藝春秋の本が受賞しているのです。

 当時のことを羽鳥さんも「まわりからちょっとやりすぎじゃないかと言われたんですけど」とイベントで言っていました。司会は選考に加わりませんけど、最終的な決定をくだすまでの議論の流れは、司会に負うところ大です。文藝春秋の社員としては、そりゃあ、受賞作が自社のものになれば売り上げも見込めます。要は、文春の本が受賞するように司会の手練手管を効かせすぎたんじゃないか、とまわりからイジられた、というわけです。

 それについては、羽鳥さんもイベントの席で、釈明というか説明をしていましたが、編集者たちが作家と二人三脚でいい小説に仕上げていこうと努力するのは当たり前のこと、当時の文春の編集者たちがそれをした結果、直木賞にふさわしい作品が多く出てきただけのことだ、と文芸編集者としての矜持を語っていました。まあ、それはそうかもしれません。

 ハナシが逸れてきました。このブログでは、おカネのことに触れておかないと終われません。

 羽鳥さんが『オール讀物』編集長になった平成16年/2004年、日本文学振興会が直木賞の事業費としてかけたおカネはだいたい3000万円です。年二回の開催なので、1回あたりは単純に2で割ると1500万円といったところになります(「財団法人日本文学振興会 平成16年度収支計算書」より)。ちなみに、同振興会が文学賞の事業として行っているのは、ほかにアクタ何とか何だとか、直木賞を合わせて5つあり、そのすべての支出決算総額はおおよそ1年で1億2000万円ほどです。

 これがいまから18年ぐらい前。その後、出版業界は下向き路線に歯止めがかからず、とくに文芸は厳しい、文芸は売れない、と念仏のように唱えられてきました。

 振興会のサイトを見ると、ここ数年の文学賞事業は、年8000万円ぐらいでやりくりしているようです。ざっと計算すればおわかりのとおり、賞にかけるおカネが羽鳥編集長のころに比べるとだいたい3分の2に減ったことになります。ということは、直木賞にかけるおカネも、ぐっと縮小されたに違いありません。まったく、世知辛いです。

 司会した直木賞の選考会でぜんぶ自社本を受賞させてしまうぐらい敏腕だった羽鳥さんは、そこから役員クラスまで上り詰めますが、けっきょく社を去るときが来ます。そりゃ会社だって、いつまでも高給取りを抱えておく余裕はない。ということなんでしょう。もうお前は要らない、と言われた気がして退職後の人生を悩み、あれやこれやといろいろありながら、羽鳥さんがたどりついたのが、小説を書くことだった。……と先日のイベントでは語られていました。

 羽鳥さんぐらいの経歴なら、高橋一清さんとか豊田健次さんとか、それこそ校條剛さんのように、自分が見てきた作家と文壇についての回想録をいつか書いてもいいんじゃないか、と思います。しかし、いまのところ羽鳥さんにその気はなく、フィクションを書いていきたい、とのこと。この世知辛いを「作家」としてどのように歩いていくのか、注視しておきたいと思います。

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2022年11月13日 (日)

三好京三、直木賞の賞金を家の新築代金の一部に充てる。

 高橋一清さんが書いてきた直木賞の舞台裏バナシ。果たして『芥川賞 直木賞 秘話』(令和2年/2020年1月・青志社刊)で打ち止めなんでしょうか。

 高橋さんしか知らない、高橋さんしか公開しようとしない逸話は、まだまだあるんじゃないかと思います。聞き書きでもいいので、もう少し後世のために残しておいてほしいよなあ。売れないでしょうけど。

 ということで、文藝春秋の編集者として、日本文学振興会の事務方トップとして、のぼり調子な出版業界の波に乗り、多くの受賞と落選に立ち合ったのが高橋さんです。『芥川賞 直木賞 秘話』にも数々の作家のことが出てきます。おカネに関することも、ちょっと触れられています。

 賞金のことです。

 第1回(昭和10年/1935年・上半期)、受賞した川口松太郎さんに贈られた賞金は500円です。それを高橋さんは、今日の調べでは500万円相当だと見積もっています。

 これがなかなか問題です。さすがに500万円というのは高く見すぎなんじゃないか、と思うんですが、高橋さんの回想における直木賞の価値は、だいたい高く見積もられているので、こういうところに書かれる金額もまた、少しでも高めに設定してしまうのかもしれません。

 それはともかく同書には、賞金を受け取った作家のその後として、車谷長吉さんと三好京三さん、もうひとり芥川賞受賞者の3人のことが紹介されています。なるほど、車谷さんもおカネについては、いろいろと面白い逸話がありそうだな、と思いながら、とりあえず今日は三好さんのハナシを見てみます。

 三好さんが初めて東京の出版社(というか文藝春秋)に注目されたのが、昭和50年/1975年のこと。第41回文學界新人賞を「子育てごっこ」でとったときです。

 住んでいたのは、岩手県胆沢郡衣川村。衣川小学校の大森分校で教える学校の先生で、当時44歳です。別にそこまで裕福でもなく、貧乏でもない、ごく普通の田舎の先生でした。

 文學界新人賞の賞金は10万円です。これは今でいうと、だいたい20~30万円といったところでしょうか。昭和26年/1951年に同僚だった京子さんと結婚したとき、三好さんは新婚旅行もせず、結婚指輪も買わなかったので、その代わりということで賞金をまるまる京子さんに渡し、これで指輪でも買ってくれ、と言ったそうです。

 さて、新人賞を受賞してから単行本の『子育てごっこ』(昭和51年/1976年11月・文藝春秋刊)が出るまでのあいだに、三好さん夫妻は長年の分校生活から去ることなります。昭和52年/1977年1月に、直木賞を受賞。このときの賞金は30万円でした。

 直木賞を受賞して、三好さんの生活は急激に騒がしくなります。小説の注文もさることながら、雑誌インタビューやら講演やら、他の用事がどっと増えるのが、直木賞の特徴です。三好さんが教職をやめて独立、筆一本で立つことにしたのが昭和53年/1978年4月ですから、受賞からわずか1年ちょっとで決断したわけです。

 ちなみにそのころ、三好さんは胆沢郡前沢町に新築で家を建てています。ちょうど直木賞の騒ぎが盛り上がっている頃合い、単行本はばんばんと売れ、おおよそ1年で25万部超。1冊定価1100円の本が25万部なら、印税が1割として2750万円

 地元の人たちから「直木賞御殿」と呼ばれるほどの立派な家が建ったとのことです。あまりに過分に直木賞なんかとっちゃって、田舎の先生が浮き足立ち、やたらと虚勢を張って「売れてる作家、っぽく見えること」にカネを使い始めた……三好さんと直木賞の、ちょっとせつなくなる物語はそこから始まりました。

 ところで、受賞してまもなく建てた家のことなんですが、三好さん本人によると、こうです。

(引用者注:直木賞の賞金は何に使ったか、の問いに)受賞以前から家の新築にとりかかっていた 山の友人から木材を譲ってもらっているので、その代金の一部にあてた。」(昭和52年/1977年6月刊『直木賞事典』「受賞作家へのアンケート」より)

 新築したのは、別に直木賞に浮かれたからではなく、そのまえから計画していたのだ、と。岩手の前沢に「豪邸」を建てたといっても、まあかかった費用はたかが知れています。それが「御殿」呼ばわりされたのは、まわりの人たちが直木賞を異様に買いかぶり、受賞すればそのくらいの大金がガッポガッポ入ってくる、と思っていたせいなんでしょう。「直木賞あるある」です。

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2022年11月 6日 (日)

新喜楽の会場で、選考委員に現金100万円ずつを手渡した白石一文。

 先週は白石一郎さんのハナシでした。となると今週は、やっぱり白石一文さんということになります。

 父親・一郎さんが直木賞を受賞したのは第97回(昭和62年/1987年・上半期)。そのときが賞金50万円で、子・一文さんの第142回(平成21年/2009年・下半期)のときは、賞金が倍の100万円。どんな時代でもおカネは大事です。いずれも有効に使われたことでしょう。

 そういえば、白石一文さんと賞金、といえば山本周五郎賞のことが思い出されます。ちょっと直木賞から脱線します、すみません。

 平成24年/2012年5月の第25回。白石さんは山周賞の選考委員になりました。任期は一期4年で、ほかのメンツは、みんな二期8年を務め上げたのに、白石さんは5年やったところで途中で委員を下りてしまいます。

 なので『小説新潮』に載った選評は5回分しかありません。だけど、白石さんの選評は、さすがかつては文藝春秋で、直木賞の運営をやっていただけのことはあるな、という筆さばき。文学賞オタクの心にぐさぐさと突き刺さる書きっぷりで、まあ、そういう選評が本にまとまることはないんでしょうが、『白石一文選評集』として一冊になってほしいものだと思います。読んだところで、文学賞の大好きなゲス人間でないとあまり面白くないかも、ですけど。

 いや、賞金のハナシでした。白石さんが初めて選考に携わった第25回は、原田マハさん『楽園のカンヴァス』が受賞した年です。このとき、いったん選考会では、辻村深月さんの『オーダーメイド殺人クラブ』と合わせて二作授賞という結論を出した、と白石さんが暴露しています。

 一作受賞と二作受賞、何が違うのか。いちばんの違いは、主催者がフトコロを痛める総額です。

 賞によっては、規定の賞金を分割して折半にすることもありますけど、それは正直ケチくさい。直木賞や山周賞、吉川新人賞など、出版社がバックに付いている賞は、世間体もありますので、およそ一人ずつに既定の賞金を渡すのが主流です。

 山周賞にしたって昭和63年/1988年5月に決まった第1回以来、二人授賞がなかったわけではありません。そのたびに、賞金は100万円100万円と、新潮文芸振興会の持ち出しが増えました。ところが、第23回の貫井徳郎さん・道尾秀介さんの同時受賞からこっち、山周賞はここ10数年、二作授賞がぱったりとなくなります。

 それは選考委員が賞を贈りたい作品が減った……のではなくて、主催者がおカネを出したがらなくなったからだ、というのが白石さんの選評からうかがえるのです。

 うかがえるんでしょうか。白石さんの選評に「カネを出したくないからだ」とは書かれていません。当時の新潮文芸振興会理事長、佐藤隆信さんの決断は不明ですけど、しかし一度、二作と決まったものを一作にしろと言う。ふつうに考えて、ケチだなと思います。あるいは、出版社もよほどカツカツなんだな、と同情します。

 文学賞は、出版社の宣伝活動の一部です。いわばおカネをかけ、おカネを生み出すビジネスの一貫だということを、元・文春の編集者、白石さんはもちろんよくわかっていて、その一端をわれわれ外野の人間にも伝わるように、わざわざそういう楽屋話めいたものを選評に残してくれたのでしょう。おそらくは。

 白石さんが直木賞の裏方だったときのことは、自伝的小説と謳われた『君がいないと小説は書けない』(令和2年/2020年1月・新潮社刊)にも出てきます。多くは名前や作品を変え、事実と異なることもあるんでしょうけど、たとえば宮城谷昌光さんが『天空の舟』で文壇に衝撃を与えて、直木賞の候補にまで選ばれる舞台裏や、海越出版社の天野作市さんとの交流なども、素材になっています。

 そのなかに、作中では「N賞」と書かれた直木賞にまつわるおカネについて、こんな記述があります。

「現在はどうなっているのか知らないが、私が在社中はA賞とN賞の選考料は選考会場(築地の料亭だった)でそれぞれの委員に現金手渡しだった。

担当だった頃、この選考料(一回百万円)を両賞計二十人の委員に渡して領収証にサインを貰うのが私の役目だったが、興味深かったのはA賞とN賞とでは各委員の選考料の受け取り方に大きな違いがあったことだ。

ベストセラー作家がずらりと名を連ねたN賞の委員たちは百万円の現金を手渡しても、

「はいはい」

と実にあっさりしたものだった。」(『君がいないと小説は書けない』より)

 A賞の委員がどんな反応だったのかは、同作を読んでもらえればと思います。白石さんが裏方をしていた平成のはじめ頃、新喜楽には毎回、100万円×20人分、計2000万円の現金が積まれていたんですね。

 文学賞っていうのは、カネのかかる事業だよなあ、と白石さんも実感したのか、しなかったのか、それはわかりません。ただ、キレイごとばかりじゃ文学賞はできない。それを身に染みて知っているのが、白石一文という作家でしょう。直木賞オタクを喜ばせるような今後の(ゲスな)活躍に、期待したいです。

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