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2022年10月の5件の記事

2022年10月30日 (日)

筆一本の白石一郎と滝口康彦、貯金100万円の生活を夢に見る。

 年をとると、どんどん記憶が抜けていきます。昔は、どの雑誌のどこに直木賞のことが書かれていたか、ワタクシも必死に覚えようとしていましたが、もはや完全に耄碌してしまい、いまとなっては水の泡。直木賞を趣味にするというのは、ほんと、むなしさの極致ですね。

 というハナシはさておいて、こないだ『オール讀物』のバックナンバーをめくっていたら、こんな記事にぶつかりました。平成2年/1990年9月号、第103回直木賞に泡坂妻夫さんが決まったときの発表号ですけど、往年の受賞者が直木賞に関するエッセイを寄せています。白石一郎さん「小説の恩」、深田祐介さん「誰にも青春があった〈番外篇〉「息のながーい挑戦のナミダ」」の2つです。

 深田さんのことは措いておきます。今日の主役は白石さんです。

 エッセイの内容をかいつまむと、以前、横浜そごう百貨店で古書展が開かれた、そのとき「白石一郎」と署名された「直木賞との長いつきあい」と題する生原稿5枚が6万円で売りに出た、目録に載った写真を見たところ、自分が書いた覚えがない、きっとニセ物だと確信して主催者に連絡したが、送られてきた全文コピーをみると、どうやら自分の原稿のようだ。いったい、どこに発表されたものなのか、まるで記録がない。……というような、自筆原稿との出会いが書かれています。

 本文中、古書展に出されていた原稿の内容が転載されています。そこから「島原大変」が第87回(昭和57年/1982年・上半期)の候補になった翌年に書かれたものだとわかりますが、白石さんいわく、5枚で6万円の値がつくなんて馬鹿ばかしい、そのときの原稿料はおよそ3分の1ぐらいだった、とのこと。

 要は、6万÷5÷3……。昭和58年/1983年、直木賞候補6度の白石さんの原稿料の相場は、400字詰用紙1枚あたり4000円ぐらいだったらしいです。

 白石さんといえば、おれにゃサラリーマン生活は無理だと若いうちに覚って、本気で作家を志望。昭和32年/1957年、講談倶楽部賞を受賞したのが25歳のときで、それ以来、ずっと筆一本で生計を立ててきた人です。

 昭和30年代から経済成長期、直木賞なんかとらなくても物書きだけで食っていたわけですが、直木賞をとったあとのエッセイや対談を読むと、かなり厳しい収入状況だったことが回顧されています。

 たとえば、古川薫さんが受賞したときに『オール讀物』に載った「おめでとう対談 直木賞受賞の瞬間」(平成3年/1991年3月号)です。

 古川さんにとって長年の心の支えは、福岡に白石さん、佐賀に滝口康彦さん、筆一本でどうにか生活できている人が二人もいる、ということだった、と出ています。それを受けて、白石さん(と滝口さん)の、貧乏作家バナシが始まるのです。

白石 ただね、滝口さんが元気なころ、「白石さん、疲れたあ……」としょっちゅういってましたね。滝口さんは僕らに比べたらはるかに、華やかな花がいっぱい開いた人ですよ。書いた作品が映画になり、舞台になり……。それでもやっぱりくたびれるというのは、わかるね。

(引用者中略)

打ち明けた話をすると、おたがいせめて貯金を百万円ぐらい、いつか持ちたいなといっていたよ、あなた(笑)。」(「おめでとう対談 直木賞受賞の瞬間」より)

 100万円を貯金するのが夢だった、という。昭和中期の職業作家も、なかなか必死で生きていたんだなと思います。

 このあとに古川さんも、当時の収入状態を振り返っています。山口新聞を辞めたのが昭和45年/1970年。原稿注文がたくさんあったわけでもなく、本を出すのも年に一、二冊。それでも年収は250万円ぐらいあった、と言います。

 その主な収入源は、ひとつは講演。もうひとつは、あまりに些細な雑文をいろいろな媒体に書くこと。古川さんは「作品目録にも載らないような雑文」と表現しています。直木賞をとってしまえば別でしょうが、定職をもたず、「筆一本」で生活する人たちにとって、この雑文というやつが、どれほど大事な命綱だったか。しみじみと心に染み入ります。

 最初に挙げた白石さんの、どこに発表したかわからない自筆原稿も、おそらくそういう雑文の一つだったわけです。一枚あたり4000円の微々たるお仕事。けっこう馬鹿にしたもんでもありません(って、だれも馬鹿にはしていないか)。

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2022年10月23日 (日)

借金2億円を返済するために小説を書こうと決意した、と語った山本一力。

 直木賞とおカネ、といって、このテーマにテッパンな受賞者が何人かいます。

 まえに取り上げた佐藤愛子さんもそうですが、やはり直木賞には借金がよく似合う。まあ、なんつったって直木三十五さんの賞ですからね。そりゃそうです。

 ということで21世紀に入ってすぐ、第126回(平成13年/2001年・下半期)に山本一力さんが受賞しましたが、直木賞=おカネ=借金、の系譜ここにありをはっきり示してくれる大きな出来事でした。

 小さいころから人に愛され、人を愛するアクティブなお人柄。日本の経済社会が上を上をと目指して活気づく、そんな時代に成長し、社会に出ます。

 あくせく働き、生活の安定と向上のために必死でおカネを稼ぐ。と同時に、経済至上の風潮に虚しさを感じて、豊かなこころを持ちたいと願う。……というのは、だいたいお決まりの展開ですが、山本さんも例にもれず、おカネの世界と、それだけでは図れない世界、それぞれに関心を抱いて年齢を重ねます。

 山本さんが数多く残しているエッセイやインタビュー等によれば、借金まみれ(?)へのきっかけが訪れたのは、平成2年/1990年。42歳のときです。逆にいうと、それまでの山本さんは、二度の結婚、二度の離婚、女性に対して誠実さを欠いたことはあっても、金銭のことで大きな穴が開いたわけではありません。貧乏ではあったでしょうが、そこそこ普通の経済生活を送っていたらしいです。

 それが平成2年/1990年、雑誌の企画で自転車を特集することになり、その制作を請け負っていた山本さんが、だれかビジュアルのモデルになる人はいないかと思っていたところ、たまたま街で見かけたのが、三度目の妻になる英利子さん。どうにか実家・親戚の反対を押し切って、平成3年/1991年に結婚にこぎつけますが、そこでぶちあたったのが、英利子さんの実家で起こっていた相続争いです。

 実家は東京・銀座にあった五十坪の酒屋です。英利子さんの父親がそこの店主でしたが、他界したことで親戚間に相続問題が勃発。英利子さん家族は17億円を、亡父の姉妹たちに支払わなければならなくなります。

 17億円。もうこの金額が、とてつもありません。

 とんでもない巨額をノンバンクから借り入れざるを得なくなったのは、何も山本さんに才覚がなかったからではなく、むろん新妻の実家のせいでもないんですが、これが山本さんが最終的に抱えた2億円の借金の発端でした。

 平成4年/1992年、山本さんは「ほりはたビデオツインズ」という会社をつくって、ビデオを制作・販売することになります。しかし、わずか2年ほどで商売が失敗。会社設立と継続のために借りたおカネが、おおよそ2億円。サラリーマンの生活に戻りますが、とてもその給料では賄えない。どうやって返したらいいのか。よし、小説を書いてベストセラーを叩き出し、返済に当てよう! ……という思いに至って、根をつめること2か月ほど。完成したのが、第1回小説新潮新人賞(第2回以降「小説新潮長編新人賞」と改称)の最終候補にまで残った「大川わたり」です。それから2年後には、第77回オール讀物新人賞を受賞します。平成9年/1997年のことです。

「しかし家計はこの3年(引用者注:平成11年/1999年から直木賞受賞まで)、いつも火の車だった。マンションの家賃は滞りがち、社会保険料も払えない。何度もサラ金の世話になった。この間、シングルで働く妹は「側面から力になることが私の仕事だ」と数百万円もの援助をしている。英利子も一時はパートに出た。しかし「中途半端な金を稼ぐより、家の中の大事なことをしてほしい」という山本に応えた。買い物上手で値切り上手の彼女は、1日千円の予算で夫と子どもたちに手作りの料理を腹いっぱいに食べさせる。」(『AERA』平成14年/2002年7月15日号「現代の肖像 小説家・山本一力 下町を走る少年」より―執筆:沢部ひとみ)

 涙ぐましい夢みる極貧生活。日本の社会もバブルがはじけて、借金を抱える人が特別ではなくなった時代です。

 小説を書き始めたのが46歳から。その動機が、仕事でつくった借金を返すため。ということで、直木賞をとってから山本さんは一躍、「下降ぎみの日本人に勇気を与える」存在として多くのメディアに取り上げられましたが、そういうハナシを、10年ぐらい前にうちのブログでも書きました。やはりおカネのことは、世間の耳目を集める強烈なインパクトがあるんですね。

 それでも、佐藤愛子さんしかり山本一力さんしかり、直木三十五さんの借金と明らかに違うのは、自分自身の自堕落な欲望でふくれ上がったものではなく、主に連れ合い・家族のためにできた負債、ということでしょう。そこで一発逆転、直木賞を受賞してプラスに転じるから、両者の受賞は美しいわけです。

 直木賞の賞金は100万円。山本さんが具体的に何に使ったかはわかりませんが、受賞直後、記念として家族で囲める鉄板つきのテーブルを買ったそうです。

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2022年10月16日 (日)

直木賞を受賞しても収入が増えない榛葉英治、「金がほしい」と日記に書く。

 『職業作家の生活と出版環境 日記資料から研究方法を拓く』(令和4年/2022年6月・文学通信刊)という本があります。今年出たばかりです。

 編者の和田敦彦さんはじめ、参加している須山智裕、加藤優、田中祐介、中野綾子、河内聡子、大岡響子、宮路大朗、康潤伊といった諸氏が、どんな思いをもち、何を明らかにしようとしたのか。それはもう、高尚ですばらしい文学研究に対する野心が渦巻いているのでしょう。

 ワタクシはハグレ直木賞厨なので、そういう研究的なことはさっぱりわかりません。わからないんですけど、アノ榛葉英治さんの日記が、かなり詳しく紹介されている。何なら、原文の一部まで読めてしまう。それだけで、直木賞大好きゴコロが揺さぶられます。

 「アノ」と言ったのは他でもありません。直木賞受賞者のなかでも、つまらない作品で受賞したことではトップクラス、海音寺潮五郎さんや『下界』のお仲間たちがいなければ、まず受賞しなかっただろう榛葉さん。『八十年 現身の記』(平成5年/1993年10月・新潮社刊)という「ぶっちゃけトーク」な回顧録を残して、その売れない作家人生に華を添えた、半世紀以上まえの直木賞受賞者です。

 その榛葉さんの日記の内容が、またえげつなくて、たまりません。嫉妬と怨念に彩られ、昭和24年/1949年、戦後復活第一回の芥川賞で「蔵王」が候補にも挙げられなかった、だけどあんなに評判がよかった作品なのだから絶対とれたはずだ、とそんなハナシを、えんえんと死ぬまで言いつづけます。戦後の作家人生のなかで、数々の人と接触、語り合いますが、そのときに自分を馬鹿にした連中のことを、終生忘れず、「第2部 データ編―日記資料から何がわかるか」の「文壇グループの動態――人脈の記録」などは、もうワタクシみたいな意地きたないゴシップ好き人間には、よだれだらだらの記述が満載です。

 と、いい年こいてよだれを垂れ流している場合じゃありません。ハナシはおカネのことです。

 本書のひとつの長所は、榛葉さんがいつ、どのくらい、どうやって稼いでいたのか、詳細に書いてあること。作家にとってのおカネが重要視されているところです。

 直木賞の受賞者のなかには、原稿注文が跡を絶たず、ベストセラーを連発、儲けたお金で豪邸を建て、ウッハウッハのセレブな暮らしをした人もいます。ただ、そんな人ばかりでもなく、いつしか雑誌から名が消え、本もほとんど出ず、貧乏なまま一生を終えた受賞者もいます。

 後者もまた、直木賞の歴史が持つ現実の一つです。直木賞なんてとっても、まったく売れない。たとえば河内仙介さん、千葉治平さん、笹倉明さんなど、ワタクシはどうしても、そういう人のほうに興味が沸くんですけど、なかでも榛葉さんは、その卑屈でルサンチマンな回顧とあいまって、思わず引き込まれます。

 同書の「作家の経済活動――金銭収支の記録」には、昭和21年/1946年から平成10年/1998年までの約40年の日記から、収支に関する記述が抜粋されています。

 榛葉さんが直木賞を受賞したのが昭和33年/1958年、45歳。その前後の榛葉さんは、まったくカツカツの生活で、田村泰次郎さんに3000円を借り、丹羽文雄さんに20000円を借り、『小説公園』から3000円を前借りし、荒木太郎さんに3000円を借り……、というふうに原稿料の収入だけでは、まるで生活ができていません。

 税金滞納で、税務署からはもうそろそろ家を公売にするぞ、と脅される始末。「なぜ、こう自分は不幸なのか。根本は、やはり書けないこの自分にあるのだ。あるいは、書いた作品の悪さ、つまりは自分の才能にあるのか。」(昭和32年/1957年5月11日の項)などと書いています。20歳、30歳の青年がいうならまだしも、40歳こえたオッサンが、こういうことを日記に記さなければならない悲哀。ジュンと胸がいたいです。

 第39回直木賞を受賞したのは、完全に生活が立ち行かなくなったそんな時期でした。賞金10万円は、『直木賞事典』(昭和52年/1977年6月・至文堂刊)によると生活費に使ったそうです。そりゃそうです。受賞記念パーティーとかで浪費できわけがありません。

 しかも榛葉さんはすごいことに、直木賞をとってもまるで収入が好転しなかった様子。昭和36年/1961年には「金がほしい。(引用者中略)仕事の注文はない。」と書いていますし、昭和37年/1962年「今は最悪のどん底である。熱海君に借りた一万五千で食っている。」とあります。直木賞とって、最悪のどん底って。これが直木賞という文学賞の面白いところです。

 この日記の解説で、田中祐介さんは、こんなふうにまとめています。

「『赤い雪』(一九五八年)による直木賞の受賞後も経済的な苦境は続き、無収入への不安や、不安が解消された一時的な安堵は最晩年まで綴られる。(引用者中略)榛葉英治の日記は、一面では経済的安定を最後まで得なかった直木賞受賞作家の生活の実態を示す。しかし他面では、作家として稼ぐことにこだわり続けた人間の執念の記録でもある。」(『職業作家の生活と出版環境』「作家の経済活動――金銭収支の記録」より―筆者:田中祐介)

 「執念の記録」とは、ものは言いよう……という感じはしますが、これをめんめんと記録してきた榛葉さんの行為には、頭が下がります。いま、直木賞をとっても生活が苦しい受賞者がいたら(そんな人、いるかな)、没後に公開されることを前提に、ぜひ日記は残しておいてほしいです。未来の直木賞オタクを、喜ばせてあげてください。

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2022年10月 9日 (日)

直木賞をとる直前、翻訳で年間1500万円超、その他を含めて年収3000万円を稼いでいた常盤新平。

 日本が高度経済成長の大波に乗ったとき。直木賞も急に大きな顔をしはじめます。

 直木賞にかぎりません。出版全体が上げ潮です。あらゆる分野の出版がどどーっと成長して、一気におカネまみれになりました。そのなかに翻訳出版も含まれます。

 いや、ほんとうに含まれるのかどうか。テキトーに言っているだけなので、テキトーに読み流してください。

 常盤新平さんは、戦後の復興が進む昭和25年/1950年に、早稲田入学のために東北から上京してきた人ですが、みずからの人生(とくに翻訳人生)と経済成長の時期がちょうど重なっています。昭和30年前後、大学から大学院に進むころには、中田耕治さんから下訳の仕事をポロポロもらって、翻訳=おカネの業界に足を踏み入れると、昭和34年/1959年に早川書房に入って、昭和44年/1969年に退社。その後も翻訳家としての仕事を長くつづけますが、趣味としてやっていたのではなく(当たり前か)、仕事の対価としておカネをもらうプロの翻訳家でした。

 その後に小説を書き始めて、昭和62年/1987年1月に第96回直木賞(昭和61年/1986年・下半期)を受賞。対象となった『遠いアメリカ』も内容からして、常盤さんの翻訳人生なくしては生まれることのなかった小説です。ということで、常盤さんと直木賞、というハナシになれば、昭和20年代から昭和30年代以降、元気におカネにまみれていた時代のハナシは欠かせません。

 それで、また今週も『週刊文春』の語りおろし連載「行くカネ来るカネ 私の体を通り過ぎたおカネ」を参照させてもらいます。

 常盤さんが『遠いアメリカ』を刊行したのはバブルまっただ中で、この連載も好評裡に続行中。まだ第96回直木賞の選考が行われる前、昭和61年/1986年の年末に、常盤さんのインタビュー記事が載りました。とらせたい(というか、とってもおかしくない)という文春の人たちの気合が、ぷんぷん匂ってきます。

 それによると、はじめて翻訳の下訳をやったのが、大学4年生のとき。昭和28年/1953年のことです。ミッキー・スピレイン『裁くのは俺だ』の最初の部分、そこの下訳を100枚ばかり担当して、もらったおカネは5000円。いまなら小遣い程度の額面ですけど、当時の5000円といったらけっこうなもので、大卒初任給の半分ぐらいに当たった、ということです。

 昭和34年/1959年に早川入社のときの、常盤さんの初任給は1万3500円。直木賞のほうはまだ賞金が10万円だった時代です。先週とりあげた出久根達郎さんも、奇しくも同じ時期にはじめての給料をもらっていますが、そちらは住み込みで3000円の月給だったといいますから、常盤さんはエリートもエリート、といったところでしょう。

 出版業界でも、このころには「推理小説ブーム」ってやつが定着しはじめ、直木賞ですら多岐川恭さんだの戸板康二さんだの黒岩重吾さんだのにぞくぞくと受賞させはじめます。そちらの方面に熱を入れていた早川書房は、内情はケチだの何だのと言われたりしますが、それはそれ、とりあえず常盤さんは人並みぐらいの給料はもらっていたようです。

 そこから、翻訳だけじゃなく自分でも文章が書けることにめざめ、社外のお仕事もどんどんやるようになって、ついにはそちらのほうが収入面で上回るように。昭和44年/1969年に退社して、翻訳家・文筆家として一本立ちします。

 この記事の書かれた昭和61年/1986年の前の年の、常盤さんの収入が、おおよそですが紹介されているので引いておきましょう。年収は約3000万円。けっこうな稼ぎです。翻訳での収入はそのうち半分ぐらいで、残りは雑文・エッセイ、小説の原稿料や、講演、翻訳学校講師料とのこと。年齢は55歳、まあ、これだけおカネを稼げていたのなら、成功者と言っていいんじゃないでしょうか。

 常盤さんいわく、

「正直いいますと、翻訳をやってたほうが儲かるんじゃないかと思います。本当は、雑文も書かないで、翻訳に専念したほうが経済的にはいいんじゃないかと思いますけど、昔、人の悪い、ある老編集者に、「翻訳ばっかりやってると、バカになるよ」なんていわれた。ですから、結局、小説まで行き着いてしまったわけです。」(『週刊文春』昭和61年/1986年12月25日号「行くカネ来るカネ 私の体を通り過ぎたおカネ 小説を書くのは心細いし、儲からないが、翻訳ばかりじゃ馬鹿になると言われて」より ―取材・構成:小林靖彦)

 仕事はカネのためにするわけじゃない、ということでしょうか。翻訳だけやっていれば、また別の(金銭的な)成功もあったでしょうが、たいしてカネにならない小説のほうにシフトした……。常盤さんらしい選択だと思います。

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2022年10月 2日 (日)

出久根達郎の古書店「芳雅堂」、平成5年/1993年初日の売上はゼロ円。

 直木賞にまつわる本は、いろいろあります。

 最もわかりやすいのが「受賞本」です。受賞対象そのもの、もしくは受賞作が雑誌発表だった場合にそれが最初に収録された書籍のことを指します。

 「受賞第一作」というカテゴリーもあります。これはこれで、価値があるように見せかけて特別な意味は何もありません。他にオビに書くような宣伝文句がないので、とりあえず「直木賞」という言葉を使って派手ハデしく見せようとした、出版社の人たちの涙ぐましい商売精神が宿っている本のことを言います。「直木賞受賞第一作」だけを蒐集しているコレクターっているんでしょうか。まあ、世のなか広いですからね。どこかにいるかもしれません。

 あるいは、「受賞エッセイの本」ともいうグループがあります。昭和も半ば以降になってからでないと存在しない本です。直木賞に選ばれた人がいる。その直後に『オール讀物』に受賞記念エッセイを書く。それが収められて発売された、受賞者による随筆集・エッセイが、過去にはいろいろとありました。受賞当時の、その作家と直木賞の距離感が、本全体からうかがえるので、ワタクシは大好きです。

 第108回(平成4年/1992年・下半期)に受賞した出久根達郎さんの「受賞エッセイの本」は、『思い出そっくり』(平成6年/1994年3月・文藝春秋刊)です。巻頭に受賞記念エッセイ「親父たち」(初出『オール讀物』平成5年/1993年3月号)と「受賞のことば」が入っています。

 どうしてここで出久根さんのハナシになるのか。というと、なにしろ出久根さんは、れっきとした商売人。直木賞を受賞した当時も古書店主でした。そのためか、エッセイの多くに、次から次へとおカネの話題が出てくるわけです。楽しいですよね、おカネのハナシ。

 出久根さんが地元の茨城から上京して古書店に勤めはじめたのは昭和34年/1959年。直木賞でいうと第41回、渡辺喜恵子さんと平岩弓枝さん、第42回、戸板康二さんと司馬遼太郎さんが受賞した頃です。直木賞の賞金は10万円。大学卒の初任給の平均が1万円、出久根さんの最初の月給は、住み込みで3000円だったそうです。

 出久根さんの本ですから、出てくる金額は、古書値のことが多いんですけど、そのなかでも『思い出そっくり』の白眉は、何といっても「売上ゼロ」(初出『新潮45』平成5年/1993年2月号)でしょう。

 最近出た向井透史さんの『早稲田古本劇場』(令和4年/2022年8月・本の雑誌社刊)を読んでも思うんですが、一冊二冊、どかーんと高い本が売れることもあるけど、基本、古本屋は単価が安い。しかも、だれひとり客のこない、ないしは一冊も売れない日なんていうのがざらにある。とうてい続かずにつぶれていく店があるいっぽうで、「古書」というものに耽美な感覚をもつ人間が、昔からいままで一定数いるのは変わらないらしく、そのなかから暮らしと文化が生まれ、じっとりと社会にしみこんでいく。……と、そういうなかから出久根さんみたいな稀有な受賞者が出てきたわけですし、古書業界のおかげで直木賞が支えられてきた部分は、けっして小さくないと思います。

 それでエッセイ「売上ゼロ」なんですが、これは出久根さんが独立して古書店「芳雅堂」を開業した昭和48年/1973年の頃から、直木賞を受賞することになる平成5年/1993年まで、年明け一発目の開店日について、業務日誌に書かれた文章を紹介しながら、そのときどきの思い出を綴っていくという内容です。

 はじめて迎えた正月、昭和49年/1974年には、店を開けたのが1月4日で、1日で客2人・売上1500円。5日は0円、6日は2000円。およそ50年まえの、生の古本屋の売上記録が出てきます。

 それが昭和53年/1978年には初日の売上2000円、昭和54年/1979年は4000円、昭和61年/1986年300円、昭和62年/1987年0円、平成3年/1991年200円(他に店内で100円を拾う)……

 何年たっても、何十年たっても一向に変わらないこの感じ。ああ、耽美といえば耽美です。

 そして最後は、このエッセイが書かれた平成5年/1993年1月、この年は他とは違って元日に店を開けたらしいんですが、

「むろん日記のような情けない稼ぎが、一年中続くわけではない。正月の四日だから、特別だともいえる。(引用者中略)今年もなんとか命をながらえることができるかどうか、それは日記で見る通り、年頭の口あけで決まるのである。美人の高校生の年は、よいことが連続したのである。売上げゼロの年は、やはり衰運であった。

今年は? 冗談じゃない。いつのまにか、もう午後も六時すぎではないか。往来には人通りもなければ、車も走っていない。」(『思い出そっくり』所収「売上ゼロ」より)

 要するに売上0円。今年も苦しい商売になりそうだ、と匂わせているわけです。

 けっきょくその直後に、出久根さんは直木賞を受賞。なんだかんだと忙しさが押し寄せ、しばらく「芳雅堂」を休店せざるを得なくなりました。

 それを「衰運」と言っていいのかどうなのか。見方はそれぞれ違うでしょうけど、「古本屋を長くつづけること」が成功ととらえれば、直木賞の受賞はとてつもなく邪魔くそな凶事でしかなく、大きなマイナスです。年頭初日の売上でその年の営業を占うという意味では、この年も当たった、ということなんでしょう。

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