死んだ色川武大が遺した貯金通帳の残高、50万円。
どうして直木賞は、阿佐田哲也じゃなく、色川武大に贈られたのか。……などと、よく言われます。
まあ、よくは言われていないかもしれません。だけど、色川さんの純文学性みたいなものが語られるときに、直木賞が特異な位置にあることはたしかでしょう。
色川さんはずっと文学がやりたかった。「阿佐田哲也」という名前にしみついたド娯楽小説のイメージをかなぐり捨てて、色川武大の名で再出発をはかった……。と、ここまでは理解できます。しかし、それで受賞したのが直木賞で、一般的にも色川武大は文学に返り咲いたんだなと思われた、というのが、どうにもハナシのねじくれているところです。
だって、直木賞って「大衆文芸」の賞じゃなかったの? 昔からアレは「純文学」の賞じゃないからねとさんざん馬鹿にされ、芥川賞より一段格が落ちる、とすら思われていたような、バリバリのエンタメ作家がとる賞をとって、どうして色川さんが文学に帰ってきたと思えるのか。
まったくその場その場でイメージを変える、直木賞の芯のなさには、ほとほと参ってしまいます。というか、芯がないのは直木賞じゃなく、「直木賞をまわりから見ている」われわれかもしれません。
すみません、ちょっと脱線しました。今回は直木賞随一のアウトロー(?)色川武大さんの、おカネのことです。
色川さんが受賞したとき、第79回(昭和53年/1978年・上半期)直木賞の賞金は30万円。その1年まえに受賞した泉鏡花賞は、当時は直木賞より賞金が高くて(いまは直木賞と同額)、賞金50万円だったんですが、第5回(昭和52年/1977年度)は津島佑子さんとの二人受賞だったために、両者折半。色川さんには25万円が払われた、と言われています。
ただ、こんなものは、色川さんにとってはひと月、いや、ひと晩あれば吹っ飛んでいってしまう程度の、微々たる金額でした。
そのあたりのガバガバな金銭感覚は、いろいろな人の証言が残っていますが、妻だった色川孝子さんの言葉を引くと、こうなります。
「あの人はとにかくお金のいるひとなんですよ。親分肌で出す必要のないところでもお金を出す。お金はいくらでもあったって足りませんよ。交際費じゃなきゃ博打に使う。しかも競輪と麻雀。博打で一晩に四百万円も負けたという日もありましたもの。」(『文藝春秋』平成1年/1989年6月号「わが家の「阿佐田哲也と色川武大」」より、インタビュアー:中本洋)
一晩で400万円負ける、というのはどういう状況か。正直、ワタクシみたいな庶民にはうまく飲みこめませんが、百万円単位の月収、百万円単位の出費は、色川さんにとってはそう珍しくもなかったようです。
入ってきたおカネはどんどん使っていってしまう。「阿佐田哲也」としてマージャン小説を書き散らし、じゃんじゃんおカネをもらっていた大衆作家のお仕事が、そういう生活を支えていました。
秘書をひとり雇い、毎月40万円もの家賃を払い、交際費と称する飲み食いにどんどんおカネをつぎ込む日々。まさに昭和の時代の流行作家、といわれて抱くイメージどおりのおカネの使い方です。少なくとも純文学というより大衆文芸の作家、という感じはします。
ところが、こういう高収入・高消費の生活の流れが変わったのが、直木賞の受賞だった、と色川さんは語ります。受賞したことで、みるみる収入が落ちたそうです。
「直木賞をもらったのは、もちろんありがたいんだけども、ぼくの場合は、阿佐田哲也のほうを一時休んだから、むしろ収入はガタ減り。直木賞で収入が少なくなったというのは、おれぐらいなもんだ。」(『週刊文春』昭和62年/1987年4月23日号「行くカネ来るカネ 私の体を通り過ぎたおカネ 放縦と大ケチが同居するバクチ打ちの経済感覚は作家としては大きなマイナス」より、取材・構成:谷口源太郎)
いくらからいくらにガタ減りしたのか。具体的な金額はわかりませんが、色川孝子さんの『宿六・色川武大』(平成2年/1990年4月・文藝春秋刊)を読んでも、直木賞以後、「純文学」をやりはじめて、どんどん権威ある賞はもらう、だけどどんどん入ってくるおカネが減る、という色川さんの後半生の家計事情が書かれています。それでもおカネをため込むという概念はなく、入ってきたものは何だかんだとすぐに使ってしまう。亡くなったときに通帳に残っていたのは50万円ほどだった、というのが孝子さんの証言です。
けっきょくどうしても「純文学」をやりたくて、そちらに舵を切ったんでしょうから、色川さん本人としても収入減は本望だったでしょう。「直木賞で収入が少なくなったというのは、おれぐらいなもんだ」という発言の、なんとも嬉しそうなこと。直木賞が純文学なのかどうなのかは、よくわかりませんけど、とりあえずそれ以上におカネの儲かる小説・読物のジャンルが他にあったのだ、ということはよくわかります。
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