« 2022年8月 | トップページ | 2022年10月 »

2022年9月の4件の記事

2022年9月25日 (日)

オール讀物新人賞の賞金20万円、その半分を使って百科事典を買った佐々木譲。

 小説業界にも景気がいい時代、なんてものがありました。しかし、そんなに長く続いたわけじゃありません。

 いや、小説業界にかぎったことじゃないですよね。日本の経済社会が上向いた時代には、そのぶんだけ商業出版も儲かった。それだけのハナシです。

 いずれにしても、稼げる作家は全体のひと握りしかいない、という状況も昔からそう変わりません。明治の頃に文筆をなりわいにする人が出てきてから(ひょっとして江戸時代の頃からでしょうか)、売れっ子と呼ばれる物書きは一部にすぎず、あとの大多数はピーピー言っている。その「ピーピー言っている」人の割合が、ちょっとだけ減ったのが、日本の高度経済成長から平成に入る頃までのことでした。いま振り返れば、ほんの30年ほどしかなかった栄華です。

 30年というのはつまり、佐々木譲さんが作家デビューしてから直木賞をとるまでの時間と、だいたい同じくらいですね。

 ……と、強引に結びつけました。すみません。

 佐々木さんが受賞したのが第142回(平成21年/2009年・下半期)のこと。つい最近のハナシのようですが、10年数年まえの出来事です。

 それより前に、佐々木さんが確実に文学賞づいた時期がありました。バブル経済が終わりかけた1990年前後です。第100回(昭和63年/1988年・下半期)の直木賞で候補になり、日本推理作家協会をとり、第3回山本周五郎賞にえらばれたというアノ辺りの時期。もし直木賞が真に価値ある賞だったなら、そのころに佐々木さんに与えていたことでしょう。

 しかし残念ながら、そのときは思いっきり上げそこねてしまいます。直木賞、ああ、しょせんは直木賞です。

 で、山周賞をとった直後の平成2年/1990年6月、佐々木さんは『週刊文春』の「行くカネ来るカネ 私の体に通り過ぎたおカネ」に登場しました。『ベルリン飛行指令』で直木賞の候補になったときは、胃が痛むほどに緊張したが、『エトロフ発緊急電』で山周賞の候補になったときは、どうせ自分はとれっこないとまったく期待もしていなかった……みたいな文学賞のわくわく話につづいて、お金にまつわるインタビューに答えています。

 佐々木さんがデビューしたのは昭和54年/1979年。直木賞では田中小実昌さんと阿刀田高さんが受賞したり、あるいは中山千夏・阿久悠・つかこうへいの「芸能三羽烏」が候補になってマスコミ陣が沸いたころのことです。佐々木さんが応募して受賞したオール讀物新人賞は、当時、賞金が20万円で、本田技研のサラリーマンだった佐々木さんには、ちょっとした臨時収入でした。賞金の使い道は、定価20万円ぐらいした平凡社の大百科事典、全33巻を、定価10万円ぐらいに負けてもらって買った、ということです。

 処女作の『鉄騎兵、翔んだ』は単行本になって、初版はだいたい8000部。印税はおおよそ70万円ぐらいでしたが、合わせて映画化もされ、その原作料として70万円をもらったそうです。

 夢がある業界だと思うか、大したことないなと感じるか。金銭感覚は人それぞれでしょうけど、佐々木さんは別に大金を手にしたという喜びもなく、ただそこから創作欲に取りつかれて会社をやめ、筆一本の生活に入ります。

 当時、広告関係で付き合いのあったクライアントの社長に気に入られ、会社をやめて大変だろうからと、毎月10万円の顧問料をもらっていた、とのこと。家賃はそれより安いところに住んでいたので、あれはずいぶん助かった、と回想していますが、なんとも恵まれた作家人生のスタートと言っていいでしょう。

 日本全体も、そこから経済はもりもり発展し、新人作家の初版部数も若干増えたりしながら、直木賞の賞金も第100回(昭和63年/1988年・下半期)から、50万円だったのが倍の100万円に。わあわあ、日本の出版文化はカネになるぜ、と絶頂期を迎えます。

 いや。迎えた、と思ったんですが、このとき佐々木さんはこんな実感を吐露しています。傾聴いたしましょう。

「文筆業をとりまく経済状況というのは、相対的によくないと思うな。『エトロフ発緊急電』が原稿用紙一千枚で、書いていた期間が五カ月なんですよね。取材もあるし、資料を読み込む時間もあるでしょう。それで初刷りが一万五千部。正直いってそれじゃ割が合わないですね、職業としては。幸い評判がよくて増刷になっているから、やっとこれで収支が合ってきたというところです。」(『週刊文春』平成2年/1990年6月21日号「行くカネ来るカネ 私の体を通り過ぎたおカネ 冒険小説のテーマは“二十世紀と日本人”「作品が翻訳されない日本のもの書きは不幸です」」より)

 平成2年/1990年にして、この実感です。いわんや令和4年/2022年の作家の経済事情たるや。なかなか哀しいものがあります。

 まあ、書いても書いても収支が揃わない作家たちに、一人でも多く職業的な物書きとして食いつないでいってほしい、という思いから直木賞が運営され、また山周賞も後を追っているわけです。そこは平仄が合っているのかもしれません。

| | コメント (0)

2022年9月18日 (日)

会社のトップだった森田誠吾、印税も賞金も、年収2000万円の税金の支払いに消えてゆく。

 出版業界は、だいたいカネまみれです。

 最近、大きな出版社のトップの人がワイロを贈ったとかどうだとかで、汚いおカネのハナシが出てきていますが、ジャーナリストのみなさん、どうか頑張って出版業界とカネの闇を暴いてやってください。

 とまあ、それはともかく、直木賞も商業出版の一部ですから、当然おカネとは無縁じゃありません。そのうち、どこかの候補者が選考委員のだれかにワイロを渡していた……みたいなハナシが、ジャーナリストの手であぶり出されたら面白いんですが、世のなか、そう面白いことは起きません。しかたがないので、今週もまた、昔の直木賞のことをほじり返して、ひまをつぶしたいと思います。

 出版(に関係する)企業のトップで、直木賞と関係する人といえば、この人のことが思い浮かびます。森田誠吾さんです。

 実家は東京・銀座に店を構えた、印刷・製版の会社「精美堂」です。さかのぼると江戸末期、浮世絵の彫り師だった父親が、明治になってなりわいを変え、新聞の挿絵などをつくる木版業に転身し、それがめぐりめぐって堀野精美堂となります。

 若いころの森田さんは、演劇のほうにドはまりし、ほとんど家から勘当されて、貧乏な演劇青年として育ちますが、もつべきものはカネの太い実家、といいますか、戦後、店をたてなおすに当たっておまえも手伝え、と引き戻されます。昭和25年/1950年、25歳のときに精美堂に入って、社長の兄を補佐しながら森田さんが店を法人化。専務として長年、兄貴を支えました。

 直木賞を受賞したのが昭和61年/1986年で、60歳のときです。肩書は精美堂の取締役社長。年商が22億円の会社のトップに座り、年収は2000万円。月給に換算すると170万円弱です。一流の大企業、とまでは言えないかもしませんけど、堅調な中小企業の社長として、けっこうな額が手もとに入るご身分でした。

 今回もまた『週刊文春』の記事から引いてみます。

「今度の本(引用者注:直木賞を受賞した『魚河岸ものがたり』)も、第一作と同様、初版七千部ですけれども、五万部の増刷が決まっています。私は、会社の給料が年収二千万円近うございますので、税金で三分の一以上もっていかれますし、本が増刷になりましても、副賞の五十万円をいただきましても、とにかく、税金でたくさん持っていかれちゃうわけでして、ですから、あんまり、貯金というのはございませんのです。」(『週刊文春』昭和61年/1986年2月6日号「行くカネ来るカネ 私の体を通り過ぎたおカネ 新直木賞作家は年商22億の製版会社社長、「原稿料だけだったら生活保護ですよ」より、取材・構成:坂元茂美)

 どういうことでしょうか。

 『魚河岸ものがたり』は定価が1200円。印税が1割の120円だったとすると、5万7000部で684万円になります。

 直木賞の賞金は50万円。いずれにしても、本業の年収には、まったく及びません。

 そんなものをもらっても、けっきょくは、そちらの取得税等を支払うために消費される程度の雑収入だ……ということなんでしょう。

 ただ、わざわざ「貯金というのはございませんのです」というところに落とし込んでいるのを見ると、会社社長といってもみなさんが思うような景気のいい人間じゃありませんよ、私は、と防御線を張っているのかもしれません。豊かな人間がかもしだす余裕の謙虚。この人もまた、セコセコと生活費を稼いではきゅうきゅうしている人間とは、ちょっと違う世界に住む直木賞受賞者だったのだろうと思います。

| | コメント (0)

2022年9月11日 (日)

死んだ色川武大が遺した貯金通帳の残高、50万円。

 どうして直木賞は、阿佐田哲也じゃなく、色川武大に贈られたのか。……などと、よく言われます。

 まあ、よくは言われていないかもしれません。だけど、色川さんの純文学性みたいなものが語られるときに、直木賞が特異な位置にあることはたしかでしょう。

 色川さんはずっと文学がやりたかった。「阿佐田哲也」という名前にしみついたド娯楽小説のイメージをかなぐり捨てて、色川武大の名で再出発をはかった……。と、ここまでは理解できます。しかし、それで受賞したのが直木賞で、一般的にも色川武大は文学に返り咲いたんだなと思われた、というのが、どうにもハナシのねじくれているところです。

 だって、直木賞って「大衆文芸」の賞じゃなかったの? 昔からアレは「純文学」の賞じゃないからねとさんざん馬鹿にされ、芥川賞より一段格が落ちる、とすら思われていたような、バリバリのエンタメ作家がとる賞をとって、どうして色川さんが文学に帰ってきたと思えるのか。

 まったくその場その場でイメージを変える、直木賞の芯のなさには、ほとほと参ってしまいます。というか、芯がないのは直木賞じゃなく、「直木賞をまわりから見ている」われわれかもしれません。

 すみません、ちょっと脱線しました。今回は直木賞随一のアウトロー(?)色川武大さんの、おカネのことです。

 色川さんが受賞したとき、第79回(昭和53年/1978年・上半期)直木賞の賞金は30万円。その1年まえに受賞した泉鏡花賞は、当時は直木賞より賞金が高くて(いまは直木賞と同額)、賞金50万円だったんですが、第5回(昭和52年/1977年度)は津島佑子さんとの二人受賞だったために、両者折半。色川さんには25万円が払われた、と言われています。

 ただ、こんなものは、色川さんにとってはひと月、いや、ひと晩あれば吹っ飛んでいってしまう程度の、微々たる金額でした。

 そのあたりのガバガバな金銭感覚は、いろいろな人の証言が残っていますが、妻だった色川孝子さんの言葉を引くと、こうなります。

「あの人はとにかくお金のいるひとなんですよ。親分肌で出す必要のないところでもお金を出す。お金はいくらでもあったって足りませんよ。交際費じゃなきゃ博打に使う。しかも競輪と麻雀。博打で一晩に四百万円も負けたという日もありましたもの。」(『文藝春秋』平成1年/1989年6月号「わが家の「阿佐田哲也と色川武大」」より、インタビュアー:中本洋)

 一晩で400万円負ける、というのはどういう状況か。正直、ワタクシみたいな庶民にはうまく飲みこめませんが、百万円単位の月収、百万円単位の出費は、色川さんにとってはそう珍しくもなかったようです。

 入ってきたおカネはどんどん使っていってしまう。「阿佐田哲也」としてマージャン小説を書き散らし、じゃんじゃんおカネをもらっていた大衆作家のお仕事が、そういう生活を支えていました。

 秘書をひとり雇い、毎月40万円もの家賃を払い、交際費と称する飲み食いにどんどんおカネをつぎ込む日々。まさに昭和の時代の流行作家、といわれて抱くイメージどおりのおカネの使い方です。少なくとも純文学というより大衆文芸の作家、という感じはします。

 ところが、こういう高収入・高消費の生活の流れが変わったのが、直木賞の受賞だった、と色川さんは語ります。受賞したことで、みるみる収入が落ちたそうです。

「直木賞をもらったのは、もちろんありがたいんだけども、ぼくの場合は、阿佐田哲也のほうを一時休んだから、むしろ収入はガタ減り。直木賞で収入が少なくなったというのは、おれぐらいなもんだ。」(『週刊文春』昭和62年/1987年4月23日号「行くカネ来るカネ 私の体を通り過ぎたおカネ 放縦と大ケチが同居するバクチ打ちの経済感覚は作家としては大きなマイナス」より、取材・構成:谷口源太郎)

 いくらからいくらにガタ減りしたのか。具体的な金額はわかりませんが、色川孝子さんの『宿六・色川武大』(平成2年/1990年4月・文藝春秋刊)を読んでも、直木賞以後、「純文学」をやりはじめて、どんどん権威ある賞はもらう、だけどどんどん入ってくるおカネが減る、という色川さんの後半生の家計事情が書かれています。それでもおカネをため込むという概念はなく、入ってきたものは何だかんだとすぐに使ってしまう。亡くなったときに通帳に残っていたのは50万円ほどだった、というのが孝子さんの証言です。

 けっきょくどうしても「純文学」をやりたくて、そちらに舵を切ったんでしょうから、色川さん本人としても収入減は本望だったでしょう。「直木賞で収入が少なくなったというのは、おれぐらいなもんだ」という発言の、なんとも嬉しそうなこと。直木賞が純文学なのかどうなのかは、よくわかりませんけど、とりあえずそれ以上におカネの儲かる小説・読物のジャンルが他にあったのだ、ということはよくわかります。

| | コメント (0)

2022年9月 4日 (日)

山口洋子、受賞当時のひと月の出費は50万円くらい。

 直木賞は、それをとりまくすべてのことが面白いです。言うまでもありません。

 そして、とくに面白いのは、直木賞がメディアでどのように取り上げられてきたか、その変遷や詳細をたどっていくこと。これもまた言うまでもない……とはさすがに言い切れませんが、ワタクシの体感的には、自然の摂理です。

 たとえば、直木賞をやっている文藝春秋には、いくつか定期刊行物があります。『オール讀物』『文藝春秋』『別冊文藝春秋』、そして『週刊文春』。『オール讀物』はもちろんですが、その他の雑誌でも「直木賞はこんなにすごいんだぞ」という前提の記事を、あの手この手でつくってきました。それぞれの編集部が、それぞれの特色のなかで、どうやって自社の事業を宣伝するか。いや、宣伝していないように見せながら読者の気を引くか。悪戦苦闘の歴史があります。

 なかでも、一般大衆に興味をもってもらえるような切り口を、常に考えつづけてきたのが『週刊文春』です。

 週刊誌をわざわざ買って読むような人は、たいてい政治ネタか芸能ネタが大好きです。他人の失敗とか、隠しておきたい恥部とかを、何百円ものおカネを払って読みたがる人がいる。そういうイカレた読者たちに『週刊文春』も支えられています。

 まあ、イカレているかどうかは別として、少なくとも週刊誌の読者は、直木賞そのものにはあんまり興味がありません。そういう人たちの目を、どうやって直木賞に向けてもらうか。編集サイドはいろいろと企画を立てて紹介してきました。

 そのなかで出てきたのがおカネのことです。直木賞の受賞者に、これまでどれだけおカネに苦労したり、翻弄されたりしてきたのかを語ってもらう。これなら、おカネ大好きゴシップ厨たちも興味をもってくれるんじゃないか。

 ということで、『週刊文春』は昭和の終わりから平成にかけて「語りおろし連載 行くカネ来るカネ 私の体を通り過ぎたおカネ」(昭和60年/1985年8月1日号~平成3年/1991年8月29日号、全300回)という企画を毎週載せていました。その連載に、直木賞が決まった頃になると、ほとんど毎回だれかひとり受賞者が登場、自身の人生とそれにまつわるおカネの話題を語っていたわけです。

 この連載に登場する受賞者が、圧倒的に直木賞のほうばかりで、芥川賞の人に声がかかることはまずなかった……というのもワタクシの好きな点です。おカネといえば(芥川賞じゃなく)直木賞でしょ、とそういうイメージが『週刊文春』編集部のなかにあったのかもしれません。

 昭和60年/1985年、この連載がスタートした年に、さっそく登場した直木賞受賞者が山口洋子さんでした。第93回(昭和60年/1985年・上半期)の受賞決定が7月18日。それから5か月の年末に、「行くカネ来るカネ 私の体を通り過ぎたおカネ」第20回の人物として山口さんがインタビューを受けています。取材・構成は坂元茂美さんです。

「平均したら、ひと月に遣うおカネというのは、大雑把ですけれども、二、三十万円から七、八十万円の間……そんなに遣わないかな、五十万円くらいかな。」(『週刊文春』昭和60年/1985年12月19日号「直木賞作家、銀座マダム、作詞家の三本立て才女は少女時代に競輪で人生勉強を」より)

 この当時の直木賞の賞金は50万円でした。その時代に、月に50万円ぐらいを使う生活を送っている、というのは、とうてい庶民の暮らしじゃありません。

 東京・目黒に敷地200坪の自宅を構える。作詞の印税は入る、銀座のバー「姫」を経営する。とはいっても、「姫」のほうはカネ勘定はまるでノータッチで、直木賞をとった頃にはお店に出るわけでもなく、とくべつウハウハ儲けていたわけじゃないそうですが、それでも銀座にある、女の子がいる、有名著名人の集まる飲み屋なんていうのは、いかにもザ・マネー社会の象徴です。

 山口さんが直木賞をとった決定発表の『オール讀物』は、その翌月の昭和60年/1985年11月号を「直木賞五十周年記念特大号」と銘打ち、歴代受賞者たちの小説、エッセイ、読み物を載せました。ここで山口さんは、野坂昭如さんと対談しているんですが、1960年代以降の銀座のバーの料金水準に、なんとなく触れられています。

 野坂さんが、「姫」の商売がたき、東銀座の「ゴードン」に通いはじめたのが昭和38年/1963年。1日おきくらいで友人を連れていって酒を飲んで、1年間にツケた感情は全部で18万円。ぜったいに「姫」には行くな、という「ゴードン」のママの引き止め料のような意味合いで、こんなに安かったんじゃないか、ということらしいです。じっさいに野坂さんが「姫」に行き出したら、「ゴードン」からの請求は、1ト月で80万円になった、といいます。

 このあたりは、どんなレベルの作家にどのくらいを請求するか、考慮しながら客と付き合っていく、文壇バーと呼ばれるお店の経営のしかたがあるんだと思います。そういう方面から文壇やら出版界隈を調べた研究書が、すでにあったような気がしますが、ともかくも日本経済が右肩で上がっていく時代の最後が、1980年代から90年代に訪れます。そのタイミングで、銀座のママでならした山口さんが受賞したというのも、直木賞の歴史にはちょうどぴったり。……と言っていいのか、よくわかりませんけど、週刊誌で、直木賞×おカネのことを取り上げるには、やはりしっくりする受賞者だった、とは思います。

| | コメント (0)

« 2022年8月 | トップページ | 2022年10月 »