オール讀物新人賞の賞金20万円、その半分を使って百科事典を買った佐々木譲。
小説業界にも景気がいい時代、なんてものがありました。しかし、そんなに長く続いたわけじゃありません。
いや、小説業界にかぎったことじゃないですよね。日本の経済社会が上向いた時代には、そのぶんだけ商業出版も儲かった。それだけのハナシです。
いずれにしても、稼げる作家は全体のひと握りしかいない、という状況も昔からそう変わりません。明治の頃に文筆をなりわいにする人が出てきてから(ひょっとして江戸時代の頃からでしょうか)、売れっ子と呼ばれる物書きは一部にすぎず、あとの大多数はピーピー言っている。その「ピーピー言っている」人の割合が、ちょっとだけ減ったのが、日本の高度経済成長から平成に入る頃までのことでした。いま振り返れば、ほんの30年ほどしかなかった栄華です。
30年というのはつまり、佐々木譲さんが作家デビューしてから直木賞をとるまでの時間と、だいたい同じくらいですね。
……と、強引に結びつけました。すみません。
佐々木さんが受賞したのが第142回(平成21年/2009年・下半期)のこと。つい最近のハナシのようですが、10年数年まえの出来事です。
それより前に、佐々木さんが確実に文学賞づいた時期がありました。バブル経済が終わりかけた1990年前後です。第100回(昭和63年/1988年・下半期)の直木賞で候補になり、日本推理作家協会をとり、第3回山本周五郎賞にえらばれたというアノ辺りの時期。もし直木賞が真に価値ある賞だったなら、そのころに佐々木さんに与えていたことでしょう。
しかし残念ながら、そのときは思いっきり上げそこねてしまいます。直木賞、ああ、しょせんは直木賞です。
で、山周賞をとった直後の平成2年/1990年6月、佐々木さんは『週刊文春』の「行くカネ来るカネ 私の体に通り過ぎたおカネ」に登場しました。『ベルリン飛行指令』で直木賞の候補になったときは、胃が痛むほどに緊張したが、『エトロフ発緊急電』で山周賞の候補になったときは、どうせ自分はとれっこないとまったく期待もしていなかった……みたいな文学賞のわくわく話につづいて、お金にまつわるインタビューに答えています。
佐々木さんがデビューしたのは昭和54年/1979年。直木賞では田中小実昌さんと阿刀田高さんが受賞したり、あるいは中山千夏・阿久悠・つかこうへいの「芸能三羽烏」が候補になってマスコミ陣が沸いたころのことです。佐々木さんが応募して受賞したオール讀物新人賞は、当時、賞金が20万円で、本田技研のサラリーマンだった佐々木さんには、ちょっとした臨時収入でした。賞金の使い道は、定価20万円ぐらいした平凡社の大百科事典、全33巻を、定価10万円ぐらいに負けてもらって買った、ということです。
処女作の『鉄騎兵、翔んだ』は単行本になって、初版はだいたい8000部。印税はおおよそ70万円ぐらいでしたが、合わせて映画化もされ、その原作料として70万円をもらったそうです。
夢がある業界だと思うか、大したことないなと感じるか。金銭感覚は人それぞれでしょうけど、佐々木さんは別に大金を手にしたという喜びもなく、ただそこから創作欲に取りつかれて会社をやめ、筆一本の生活に入ります。
当時、広告関係で付き合いのあったクライアントの社長に気に入られ、会社をやめて大変だろうからと、毎月10万円の顧問料をもらっていた、とのこと。家賃はそれより安いところに住んでいたので、あれはずいぶん助かった、と回想していますが、なんとも恵まれた作家人生のスタートと言っていいでしょう。
日本全体も、そこから経済はもりもり発展し、新人作家の初版部数も若干増えたりしながら、直木賞の賞金も第100回(昭和63年/1988年・下半期)から、50万円だったのが倍の100万円に。わあわあ、日本の出版文化はカネになるぜ、と絶頂期を迎えます。
いや。迎えた、と思ったんですが、このとき佐々木さんはこんな実感を吐露しています。傾聴いたしましょう。
「文筆業をとりまく経済状況というのは、相対的によくないと思うな。『エトロフ発緊急電』が原稿用紙一千枚で、書いていた期間が五カ月なんですよね。取材もあるし、資料を読み込む時間もあるでしょう。それで初刷りが一万五千部。正直いってそれじゃ割が合わないですね、職業としては。幸い評判がよくて増刷になっているから、やっとこれで収支が合ってきたというところです。」(『週刊文春』平成2年/1990年6月21日号「行くカネ来るカネ 私の体を通り過ぎたおカネ 冒険小説のテーマは“二十世紀と日本人”「作品が翻訳されない日本のもの書きは不幸です」」より)
平成2年/1990年にして、この実感です。いわんや令和4年/2022年の作家の経済事情たるや。なかなか哀しいものがあります。
まあ、書いても書いても収支が揃わない作家たちに、一人でも多く職業的な物書きとして食いつないでいってほしい、という思いから直木賞が運営され、また山周賞も後を追っているわけです。そこは平仄が合っているのかもしれません。
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