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2022年8月の4件の記事

2022年8月28日 (日)

金沢から東京に出てくる五木寛之、滞在費として月10万円を使う。

 先週は野坂昭如さんを取り上げましたが、そうなると、やはりこの人のことも気になります。五木寛之さんです。

 五木さんが直木賞を受賞したのが第56回(昭和41年/1966年・下半期)、野坂さんは1年後の第58回(昭和42年/1967年・下半期)。いずれも、もともと放送業界にいた人で、受賞はだいたい30代なかばごろ。このころ出版界は膨張しつづけ、とくに読物雑誌や週刊誌といったそこら辺りがうねりを上げて量を増していましたが、そんな経済成長の時代を代表する、直木賞からうまれた二大スターです。

 野坂さんに比べて、五木さんはベストセラーも多く、たくさんの人に読まれてきました。いまのジイさん・バアさんたちにとっては、自分の生きてきた時代の文壇アイドルとして、強い親近感があるのでしょう。そのうち没後がやってきて、そんなの知らない世代が大半になったとき、果たして五木さんの残した膨大な著作の、どれだけが読まれるのか。はたまた時代の寵児として消えていくのか。正直、心許ないものがありますが、まあ未来のハナシはよくわかりません。

 ともかく五木さんが直木賞をとった当時のことです。いまから55年まえの昭和42年/1967年1月、賞金は10万円でした。

 野坂さんと同様、五木さんも、そんな金額はとっくのとうに自分で稼げていたレベルです。昭和39年/1964年4月、三木鶏郎さんの、冗談工房・音楽工房・テレビ工房が解散。五木さんも、そこのメンバーとして業界に知れ渡る働きをしていました。しかし、あまりに多忙で心のゆとりが持てなくなり、これではまずいと一念発起。ソビエト・ヨーロッパ旅行に出かけます。32、33歳ごろのことです。

 植田康夫さんの『現代マスコミ・スター 時代に挑戦する6人の男』(昭和43年/1968年12月・文研出版刊)によると、この当時の五木さんの月収は、30万円ぐらい。旅行費として25万円を工面した、といいます。一般的な感覚からすれば、とんでもない稼ぎ人です。

 五木さんは受賞から10年ほどで選考委員として指名され、第79回(昭和53年/1978年・上半期)から選考に参加、毎回カッコいい(というか、いささかカッコつけた)選評を書くようになりますが、第85回(昭和56年/1981年・上半期)に放送作家で国会議員の青島幸男さんが受賞したとき、こんなことを記しています。

「その性愚屈(直にあらず)にして幸運の星にもめぐまれず、文筆の道ただ一つに夢を托する者たちには、小説という世界はもはや遠いエスタブリッシュメントになってしまったのだろうか。青島氏の堂々の受賞に拍手をおくりつつも、一方でそんな感慨をおさえきれず、臨席の水上勉氏に「もう中退生や落伍者の時代じゃなくなったんですね」ともらしたら、水上委員は「つらいことやね」と微笑してうなずかれた。」(『オール讀物』昭和56年/1981年10月号、五木寛之「「この一作」の場で」より)

 いやいや、あんたが受賞した時も似たようなものだったじゃないか、と思わずツッコミを入れた文学青年(文学中年)が続出したとか、しなかったとか。ともかく五木さんが、小説家になるまえから、己の才ひとつでおカネを稼ぐ「幸運の星」にめぐまれた人だったのは、間違いないでしょう。

 直木賞の受賞で燦然と脚光を浴び、いたるところから原稿の注文(あるいはその風貌を芸能人よろしく撮影される仕事)が殺到。なるべくそういうものは断らないのが、五木さんの主義でもあったので、一気に多忙の嵐が巻き起こります。当然、入ってくるおカネは増えますし、出ていくおカネもブルジョアジー。カネをうならす作家、五木寛之さんの誕生です。

 当時、まだ五木さんは金沢に住んでいましたが、打ち合わせとか取材のために、月に一度、10日ほどの日程で上京。ホテル暮らしをします。シングルの部屋が空いていないと、やむなくツインの部屋に泊まることになって、一泊およそ6000円。10日止まれば6万円

「正直な話、東京にでてくると航空料金、滞在費などで、すくなくとも月十万円はスッとびます。マンションを借りたらという人もいるが、これは金銭の問題じゃないなあ、」(『週刊文春』昭和42年/1967年8月28日号「五木寛之と一週間」より)

 だそうです。カネにがめつい守銭奴、みたいな印象はいっさい見せません。さらっと儲けて、さらっと使う。直木賞の賞金も、さらっと泡のように経済の循環のなかに消えていったことでしょう。さすがは高度経済成長時代の申し子、といった感じです。

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2022年8月21日 (日)

野坂昭如、直木賞をとってから10年後に年収1億円。

 賞金の10万円が、倍の20万円に上がったのが、第57回(昭和42年/1967年・上半期)のことです。

 そこから、わずか5年たらずでさらに賞金がアップします。第66回(昭和46年/1971年・下半期)に30万円に増額。そしてその時代もすぐに終わり、第80回(昭和53年/1978年・下半期)には、もっとビッグにどどーんと50万円に上がりました。

 要は、第56回で受賞した五木寛之さんと、第80回で受賞した宮尾登美子さん・有明夏夫さんは、受賞したタイミングは12年しか違いませんが、もらった賞金は5倍も差が出たわけです。直木賞どうこうより、高度経済成長のパワーっつうのは、おそろしいです。

 こういう上昇気流の時代というのは、いまとなっては価値観が違いすぎて、ファンタジックな世界にも見えてくるんですが、もちろん現実にあったことです。上向き時代の直木賞。なかでも今週は、とびきりに人気者だった人のおカネについて見てみたいと思います。

 野坂昭如さんです。

 焼け跡世代の申し子、というか、高度経済社会の申し子と言ったほうがいいでしょう。放送の分野から出てきた人ではありますが、野坂さんがものを書き始めたときは、大きい出版社からミニ出版社まで、どんどんと雑誌をつくって大量に売る、そんな流れがトルネード式に上がっていた頃です。直木賞をとった第58回(昭和42年/1967年・下半期)の段階で、すでにこの人は有名人だ、と選考委員の全員が認識していたのが野坂さんでした。それだけ、各所に顔を出し、原稿を書いて、おカネを稼いでいたわけです。

 では、どのくらい稼いでいたのか。野坂さんはこういうことを細かくサラすのが大好きらしく、いろんなところに収入が記録されています。とりあえずそのひとつ、長部日出雄さんとの対談「文壇ヤリクリ生活大告白」(『別冊文藝春秋』171号[昭和60年/1985年4月]、昭和62年/1987年6月・文藝春秋刊『超過激対談』所収)を見てみました。

野坂 ぼくが恒常的に小説を書き始めたのが十九年前(引用者注:昭和41年/1966年のこと。直木賞をとる1年ぐらい前)で、原稿料が一枚二千円だった。月に一本かりに五十枚の短篇を書いて、源泉課税の一割を引かれると手取り九万円で、これじゃ食えないと思いましたね。」(「文壇ヤリクリ生活大告白」より)

 50枚の短編でだいたい10万円。ということは100枚書けば単純に20万円です。このとき直木賞の賞金が20万円

 まあ、直木賞はおおよそ一般的な感覚からズレている、というのが昔からの持ち味ですけど、おカネの面でもズレていたのかもしれません。いくらなんでも安すぎます。

 野坂さんの収入でいうと、小説だけでは食っていけない。ということで、歌手として売り出し、地方を回ります。入ってくるおカネは、ワンステージ10万円。けっこうな額です。テレビからもいろいろ声がかかりますが、野坂さんが出はじめた1970年前後で、文化人ランクなら1本8500円、歌手ランク3500円だったそうです。本数をこなさいと、こちらも生活できるまではいきません。

 けっきょく、コラムや雑文書きの連載が、最も安定して将来設計も立てやすかった、というのですから、野坂さんのコラムニスト(雑文家)としての人気のほどがうかがい知れますが、昭和40年ごろの野坂さんの収入をさらっておくと……広告会社や芸能プロ等の顧問料・嘱託料が3社、それぞれ2万円。『小説現代』『マンハント』『週刊サンケイ』のコラム記事、『アサヒ芸能』連載インタビュー、週刊誌の特集記事、『婦人公論』の映画評、CMソングの作詞で1ト月30万円(平成27年/2015年10月・幻戯書房刊『マスコミ漂流記』)……。

 売れっ子と言っていいでしょう。これだけ稼げている人に、さすがに「新人向け」と言われる直木賞はやりたくないなあ、と思った選考委員がいたとしても、全然おかしくありません。

 ともかく、佐藤愛子さんもそうでしたが、野坂さんの場合はそれ以上に、とりまく金銭が「上向きな出版業界仕様」すぎます。ワタクシみたいなヒラ庶民からすると、やっぱりファンタジーです。

 「文壇ヤリクリ生活大告白」によると、野坂さんの収入のテッペンが、昭和52年/1977年ごろの年収1億円。長部さんと対談している段階で、年収4000万円だったといいます。ちなみに長部さんのほうは、昭和59年/1984年度で約1500万円。これはこれでけっこうな額ですけど、野坂さんに言わせれば、一般企業でそのくらいもらっている人はたくさんいるし、大したことはない、ということです。

 そりゃあ、他に比べれば、上はいくらでもいるでしょう。しかしやはり、野坂さんにしろ長部さんにしろ、直木賞をとったことでカネまわりがよくなったことは間違いなく、日本の景気が上がっていたことも相まって、年収ン千万のところまで行ったものと思います。

 いまから見れば、異常な世のなかです。

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2022年8月14日 (日)

賞金10万円を目当てに近づいてくる連中に、藤井重夫、太っ腹なところを見せる。

 先週は佐藤愛子さんを取り上げましたが、おカネの金額が、庶民感覚から離れすぎていました。いくらなんでも稀有な例です。あんなのばかり見ていると目がヤラれます。

 もうちょっと身近な感じの賞金の使い道はないものか。と思って受賞者一覧を見ていたところ、佐藤さんの受賞の4年まえ、おお、この人が受賞しているじゃないですか。

 第53回(昭和40年/1965年・上半期)。アクも強けりゃ、鼻っ柱も強い。行く先ざきで煙たがられては伝説をつくった(……と思われる)男。藤井重夫さんです。

 藤井さんのまわりは、どうしてそんなに喧嘩ばっかり起きているんだ、と思うほどに、いつもキナ臭いです。直木賞の受賞直後に書かれたエッセイ「『虹』始末記」(『作家』昭和40年/1965年10月号)のことは、たしか以前にも触れた気がするんですけど、直木賞をとるまでのドキュメントのなかに、なぜか喧嘩沙汰のハナシが差し込まれています。

 この年、『作家』4月号に高橋しげるさんが「箱根の山」という、小説のようなエッセイのようなものを発表。同人仲間との文学談義などを描いた正真正銘の内輪バナシなんですが、これを読んだ藤井さんが大激怒。なんでこんなヤツがヌケヌケと『作家』誌上に登場してるんだと、「要注意人物」(6月号)という一文を書き、高橋さんを猛攻撃します。高橋さん=作中ではTとイニシャルにしていますが、この人のことを「うそつきで信用ゼロの男」と何度も中傷しながら、自分がどれほどイヤな目にあったか、いかに高橋さんが信用できない奴かを、めんめんと罵倒したのです。

 それを読んで、いやいや、ちょっと攻撃のしかたがおかしいのでは、と思った花井俊子さんが「要注意人物」(8月号)というのを書いたりした他、藤井さんのもとには、いいぞそのとおりだ、という喝采だの、あの書き方はよろしくないのでは、という指摘だの、いろいろ来たそうです。いずれにしても『作家』なる狭い同人誌のハナシで、どうでもいいいざこざなんですけど、こういうことを受賞直後の感想エッセイに書いちゃうあたりが、さすがは藤井さん、安定の毒舌人間です。

「あれだけ慎重な態度で書いた「要注意人物」について、まるでナンセンスとしかおもえない読みちがえを堂々と犯している人物や、それをまた堂々と、「あえて皮肉として申しあげます」のマクラ付きで、おのれの無知をさらけだしたばかな“同人”がいたため、あきれ果てて私はモノがいえなくなったのだ。このことは、ハッキリここに書きとめておく。

――ヤメよう。「要注意人物」は、はじめからおしまいまで、じっさい不快の二字につきる“事件”だった。(しかし、あの一文に快哉をさけんで、手紙や電話をくれた人のほうが、前記のバカ者よりはるかに多かったことも、あわせしるしておく)。――話を、『虹』の受賞にもどそう。ずいぶん祝電や手紙類をもらった。およそ四〇〇通。」(藤井重夫「『虹』始末記」より)

 おのれのことは棚に上げて、やたらと、ばかだの、バカ者だと、他人を痛罵しています。藤井さん、面白い人ですよね。

 しかし、喧嘩ばかりが藤井さんの特徴じゃありません。届いた祝電や手紙などが400通。と、そこに藤井さんの、人とのつながりを大事にする、困っている人がいれば世話もやく、そんな情の厚さが現われています。

 ということで、ワタクシも話をおカネのことに戻します。藤井さんが受け取った直木賞の賞金は10万円。これをどう使ったのか。

 『直木賞事典』(昭和52年/1977年6月)の「受賞作家へのアンケート」によると、受賞直後、藤井さんのところには数々の方面から、そのおカネを当てにする連絡が来たそうです。400通のなかにも、そんなものがいくぶんかはまぎれ込んでいたものと思います。

 けっきょく藤井さんは、そこに賞金をぜんぶ使います。まずは、自分の郷土のために、出身の兵庫県豊岡小学校が校舎を新築するおカネ、同郷の人たちが集まった「東京但馬会」の運営費のために、ぽーんと半額5万円を寄付。それから、受賞祝いにやってきてくれた保険の勧誘員のために、保険も加入。いきなりやってきた昔の知り合いのために、おカネをあげちゃう。

「そんなこんなで受賞から三ヵ月くらいのあいだに受賞金の三倍余の三十何万円、貯金をはたいたりした。」(『直木賞事典』より)

 10万円を使い果たしただけじゃなく、賞金目当てにやってくる、さもしい連中の頼みを聞き入れて、20万円余りは貯金を崩して対応した、と言っています。

 これもまた、佐藤愛子さんと同じくらい稀有な例かもしれません。だけど、佐藤さんの場合より、まだしも親近感のわく金額だし、使い方だよなあと思います。

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2022年8月 7日 (日)

2500万円の借金を5年で返している最中の佐藤愛子に、贈られた20万円。

 直木賞と借金はよく似合う。……というのは、もはや手垢のついた常套句です。でもそれを言い出すと、直木賞そのものが、いまでは手垢のついたシロモノでしょう。気にしないで先に進みます。

 なぜ直木賞と借金がセットになるのかといえば、それはもちろん直木三十五さんという人がいたからです。

 人からどんどんカネを借りる。しかし返す約束は打ち棄てる。借金取りが家にきても、ずっと無言で座っているだけ。そのうち相手がしびれを切らして帰っちゃう、なんてハナシがゴロゴロしています。要は多額の借金を抱えたというよりも、借りたカネを返さないというエピソードで面白がられた、とんでもなくイカれた野郎なんですが、とにかく直木さんといえば、カネ、カネ、カネのハナシが欠かせません。

 直木賞が、金儲けに成功したキンキラの財産家のことよりも、貧乏でカネに困った人のことを書いたほうが受賞しやすいのは、そういうところに原因があるわけです(って、そんなわきゃないです)。とにかくそういう借金まみれのハナシを小説で書き、直木賞をとった人というと、まず名前の挙がるのがこの人。佐藤愛子さんです。

 当時結婚していた田畑麦彦さんのやっていた事業が、昭和42年/1967年に倒産。多くの借金を抱えます。佐藤さんにも、そのうちの一部が背にのしかかり、ほうぼうにおカネを返さなきゃなりません。その頃までに、佐藤さんはジュニア雑誌や中間小説誌につながりができていて、原稿をおカネに代える手段をもっていました。小説やら、エッセイやら、おカネになる仕事をどんどん引き受ける。収入は借金返済に当てられる。と、そんな生活を続けていたときに、第61回直木賞を受賞します。昭和44年/1969年夏のことです。

 よっしゃあ、これでカネまわりがよくなるぜい、借金も返せるぞ。とガッツポーズを決めないところが佐藤さんのイイところでしょう。いや、おそらくそこで大はしゃぎを爆発させるような受賞者は、直木賞の歴史のなかにはいないかもしれません。佐藤さんの場合も、むしろまわりの人のほうが、直木賞=おカネの皮算用をすぐに意識したようです。

 受賞決定の報を聞いたとき、佐藤さんのそばにいたのが、入院中の川上宗薫さんです。その病室でのやりとりを、佐藤さんが受賞後のエッセイに書いています。

「「直木賞が佐藤さんと決定しましたが、お受けいただけますか」

と文春の人が急に改まっていった。

「は、はい、あのう……はい、やむをえま……」

と思わずいいかけて慌てて口をつぐんだ。文春の人は苦笑いをして部屋を出て行った。電話で私の返事を伝えるためである。私は呆然としてベッドの上の宗薫氏を見た。

「どうしよう。川上さん」

「いいじゃないか、貧乏しとるんだから、これから稼げるぞ」

と何やらドサまわりの一座の座長のような顔つきである。」(『文藝春秋』昭和44年/1969年10月号 佐藤愛子「直木賞がくれたラブレター」より)

 ……ということなんですが、このブログで具体性のないことばかり言っていてもラチが明きません。金額のハナシに移ります。

 佐藤さんがとったとき、直木賞の賞金は20万円でした。むろん、全額を返済に当てたそうですが、まったく足りません。

 そもそも田畑さんが倒産して残った借金は総額2億4000万円だったそうです。いやはや、まるでケタが違います。

 そのうち、債権者たちと交渉したり折り合いをつけたりして、妻の佐藤さんが負った分が、約10分の1の2500万円。文献によると2400万円とするものもありますが、いずれにしても、これを個人で返すのです。正直、かなり浮世離れした世界です。

 前年の昭和43年/1968年、一年間で佐藤さんが返した借金は、だいたい500万円ぐらいだった、といいます(『週刊文春』昭和44年/1969年8月4日号)。50年以上まえの500万円といえば、いや、いまでもそうですけど、けっこうエゲツない金額です。直木賞をとろうがとるまいが、死にもの狂いで働ければ、年間でこのぐらいを返すことができていた、というのは、そりゃもう相当な高額所得者だった、と言わざるを得ません。

 べつに直木賞をとったから借金を返せたわけではなく、賞の動向なんか関係ないところで、佐藤さんは2000ン百万を5年がかりで返す計画を立てていました。直木賞をとって、原稿の注文や講演会の依頼も急増。返済計画も順調に進んだでしょう。

 そういう意味では、佐藤さんが受賞できてよかったとは思うんですけど、そもそも賞金の20万円が一瞬で消え去るような、嵐のなかの出版業界。貧困家庭がどうのこうのとか、寝る場所にも食うものにも困る貧乏人とか、そういう世界とはまったく違います。佐藤さんの受賞に、鼻白んだ感がただよっているのも、また事実です。

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