賞金5万円の一部を使って、山田克郎、家の屋根を直す。
新しい直木賞が決まりました。
だいたい直木賞は、時がたてばたつほど面白くなるシロモノです。なので、第167回(令和4年/2022年上半期)で受賞した窪美澄さんとか、候補者の人たちのことは、また10年、20年ぐらいたったときに取り上げていければいいな、と思います。
とりあえず12月が来るまでは、過去の直木賞のことを掘っていくことにしますけど、中心のテーマは直木賞にまつわるお金のこと。とくにしばらくは直木賞の賞金について調べます。
受賞者が賞金を何に使ったのか。これが一挙にわかるのが『国文学 解釈と鑑賞』の臨時増刊号「直木賞事典」です。
刊行されたのは昭和52年/1977年6月です。そのときまで、具体的にいうと第76回(昭和52年/1977年・上半期)受賞の三好京三さんまでの受賞者たちにアンケートを実施して、賞金の使い道を振り返ってもらっています。
第76回ですから、いまとなっては直木賞の歴史の前半にすぎません。賞金も当時30万円。そこから直木賞は、マスコミのおもちゃとして弄ばれ、バブル景気に乗って金銭面での絶頂を経たあと、なだらかな下り坂をトボトボと歩いています。
ただ、直木賞の後半期あたりのお金にまつわる話題は、またこれから取り上げることとして、ひとまず第76回、昭和52年/1977年までに目を向けてみます。
「直木賞事典」が編集された段階で、受賞者の数は79名。物故者は15名。残り存命中の64名のうち、アンケート回答を寄せたのは46名。「賞金は、当時何に使われましたか。」という下世話な質問に、唯一答えなかった結城昌治さんを除くと、45名の賞金の使い道が、ここに提示されていることになります。
第27回(昭和27年/1952年・上半期)までの受賞者は、一度、『別冊文藝春秋』30号[昭和27年/1952年10月]で似たようなアンケート企画をやったことがあり、そのときにも答えたり無視したりしています。このときの回答は、7月3日のエントリーでも一覧にして触れました。
昭和27年/1952年の段階で回答のなかった人が、「直木賞事典」のほうで新たに答えている例があります。第19回受賞の岡田誠三さんと、第22回の山田克郎さんです。
「敗戦前後のあわただしさの中で消えてしまった。何に使ったかという記憶すらない。」(「直木賞事典」岡田誠三のアンケート回答より)
岡田さんが受賞したのは昭和19年/1944年8月で、賞金は500円。直木賞が始まった昭和10年/1935年と同額です。その9年のあいだに貨幣的な価値は大きく変わりましたし、ときは戦争まっただなか、使おうたって派手に使えるわけでもなかったでしょう。
ただ、岡田さんの性格がよく出ているなあ、と思うのは、賞金をもらったことを家族にはいっさい言わなかったことです。昔、アンソロジー収録の件で、息子さんに話をうかがったとき、賞金については家族に内緒で、おそらく一人で使ってしまったはずだ、とお話しされていました。自由人です。
いっぽう山田克郎さんが受賞したのは、戦後まもなく昭和25年/1950年4月。賞金は5万円です。
「家の屋根の修理に使いました。あとズボン一着。」(「直木賞事典」山田克郎のアンケート回答より)
山田さんは戦時中に、東京から神奈川県秦野に移り住み、受賞したときも秦野の家に住んでいました。そこの家の屋根を修理したんでしょう。
戦後もまた、物価の変動が激しかった時代です。屋根の修理とズボン1着で、5万円の全額がふっとんだのかどうか。その程度のことをしただけで底をついてもおかしくありませんが、それはそれとしても、恬淡として小説づくりに臨む山田さんの生活感が、賞金の使い道に表われています。
その後に山田さんは秦野から引っ越しました。修理した屋根つきの家はどうなったのか。たぶんもうこの世にはないでしょう。新着したズボンも同様で、いまやどこにあるとも知れません。
直木賞をとったことなんて、その程度のもんだよ。と、山田さんなら言っていそうな気がします。
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