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2022年7月の6件の記事

2022年7月31日 (日)

賞金10万円で、川端康成への借金の一部を返した山口瞳。

 現在の直木賞は、賞金が100万円です。高いような安いような。この中途半端な価格設定が、いかにも直木賞がやってきた中途半端さを物語っています。

 というのは、いつもどおりの冗談ですけど、直木賞の賞金なんておカネとしてみれば大した価値じゃない、というのは、さかのぼってみてもやはり直木賞の伝統のようです。

 山口瞳さんという受賞者がいます。受賞したのが第48回(昭和37年/1962年・下半期)ですから、いまからおよそ60年前。賞金は10万円でした。

 ちなみに山口さんの受賞作は、当時の世相をなるべく忠実に映した作品です。「平均的」と呼ばれるサラリーマンたちのお金にまつわるハナシがいろいろ出てきます。いったい当時の10万円とは、どの程度の価値だったんだろう。せっかくので、そこら辺を『江分利満氏の優雅な生活』で見てみます。

 東西電機に勤める江分利氏は、本給が3万6000円です。そこに諸手当などがついて、税金などが引かれて、一ト月の手取りが4万円とあります(同書「おもしろい?」より)。

 となると、10万円は、基本的なサラリーマン月給の約2か月半の手取り給料とトントンです。

 現状、たとえば100万円の40%、40万円を平均世帯の月給だと設定して、庶民生活を描いた小説だ! などと胸を張ったら、さすがにそんな作家は叩かれるでしょう。そう考えると、当時の10万円は、かなり格安な金額だったと言えそうです。

 その賞金を山口さんが何に使ったか。これは山口さんもいろんなところで書いている有名なハナシですが、自分の父親が、かつて隣家に住んでいたよしみで川端康成さんから金を借り、その借金がまだ残っていたので、賞金を返済の一部に当てた、ということです。

 と、これだけだと10万円の金額感がいまいちわかりません。

 『江分利満氏~』は山口さんの実体験が反映された作品で、この借金についても出てきます。作中、市川市に住む社会学者の山内教授というのが、川端さんをモデルにした人物らしいです。

 「困ったときの小谷野敦だのみ」で、小谷野さんの『川端康成伝 双面の人』(平成25年/2013年5月・中央公論新社刊)を見てみたところ、やはりこのあたりの事情が、金額とともに書かれていました。山口さんの母親が昭和34年/1959年に大晦日に急死。その直後に、父親はひとりで川端さんの家を訪ねていきます。小谷野さんの記述を引いてみます。

「この時、瞳の父正雄は川端邸を訪れて、葬儀の費用で赤字が出て困っている、本来瞳が来るべきだが本人はショックで口もきけないので代理で来たと言い、母は生命保険に入っていたが、瞳の不手際ですぐに金がおりない、しかしいずれ交付されるからと言って、三十万円を借りたのである。」(小谷野敦・著『川端康成伝 双面の人』「第十三章 『眠れる少女』、「日本の文学」」より)

 そのことを後で知った山口さんは、慌てて義弟から5万円を借りて川端さんちに駆けつけます。しかし川端さんの妻、秀子さんはお金を受け取らず、ボーナスが出たときにでも少しずつ返してくれればいい、と言ったのだそうです。

 山口さんが寿屋勤務のかたわらで、いろいろと外で雑文書きに励んだのは、一つにはその父親の借金を返すためだった、と山口さん自身の私小説『家族 ファミリー』(昭和58年/1983年4月・文藝春秋刊)に出てきます。その雑文書きのなかに『婦人画報』に昭和36年/1961年10月号から連載した「江分利満氏~」が入っていたわけですから、どこがスタートで何が結果がよくわかりませんけど、直木賞の賞金がけっきょく川端さんのところに行ったのは、筋のとおった循環だったということです。

 にしても、10万円があっても、借金が30万円だったのなら、まったく足りません。『家族 ファミリー』の記述によれば、直木賞の受賞時、父の正雄さんは済生会中央病院に入院中で、「父の入院費には、毎月四十万円を要した」などとも書かれています。曲りなりにも子供たちで(というか山口さんひとりで)その費用を賄っていたんですから、山口さんの、父親をめぐる借金話はもはや庶民感覚を越えています。

 賞金のすべてが借金返済で飛んでしまった、というのは、直木賞がどうこうより、やはり山口さんが異常だったんでしょう。

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2022年7月24日 (日)

賞金5万円の一部を使って、山田克郎、家の屋根を直す。

 新しい直木賞が決まりました。

 だいたい直木賞は、時がたてばたつほど面白くなるシロモノです。なので、第167回(令和4年/2022年上半期)で受賞した窪美澄さんとか、候補者の人たちのことは、また10年、20年ぐらいたったときに取り上げていければいいな、と思います。

 とりあえず12月が来るまでは、過去の直木賞のことを掘っていくことにしますけど、中心のテーマは直木賞にまつわるお金のこと。とくにしばらくは直木賞の賞金について調べます。

 受賞者が賞金を何に使ったのか。これが一挙にわかるのが『国文学 解釈と鑑賞』の臨時増刊号「直木賞事典」です。

 刊行されたのは昭和52年/1977年6月です。そのときまで、具体的にいうと第76回(昭和52年/1977年・上半期)受賞の三好京三さんまでの受賞者たちにアンケートを実施して、賞金の使い道を振り返ってもらっています。

 第76回ですから、いまとなっては直木賞の歴史の前半にすぎません。賞金も当時30万円。そこから直木賞は、マスコミのおもちゃとして弄ばれ、バブル景気に乗って金銭面での絶頂を経たあと、なだらかな下り坂をトボトボと歩いています。

 ただ、直木賞の後半期あたりのお金にまつわる話題は、またこれから取り上げることとして、ひとまず第76回、昭和52年/1977年までに目を向けてみます。

 「直木賞事典」が編集された段階で、受賞者の数は79名。物故者は15名。残り存命中の64名のうち、アンケート回答を寄せたのは46名。「賞金は、当時何に使われましたか。」という下世話な質問に、唯一答えなかった結城昌治さんを除くと、45名の賞金の使い道が、ここに提示されていることになります。

 第27回(昭和27年/1952年・上半期)までの受賞者は、一度、『別冊文藝春秋』30号[昭和27年/1952年10月]で似たようなアンケート企画をやったことがあり、そのときにも答えたり無視したりしています。このときの回答は、7月3日のエントリーでも一覧にして触れました

 昭和27年/1952年の段階で回答のなかった人が、「直木賞事典」のほうで新たに答えている例があります。第19回受賞の岡田誠三さんと、第22回の山田克郎さんです。

「敗戦前後のあわただしさの中で消えてしまった。何に使ったかという記憶すらない。」(「直木賞事典」岡田誠三のアンケート回答より)

 岡田さんが受賞したのは昭和19年/1944年8月で、賞金は500円。直木賞が始まった昭和10年/1935年と同額です。その9年のあいだに貨幣的な価値は大きく変わりましたし、ときは戦争まっただなか、使おうたって派手に使えるわけでもなかったでしょう。

 ただ、岡田さんの性格がよく出ているなあ、と思うのは、賞金をもらったことを家族にはいっさい言わなかったことです。昔、アンソロジー収録の件で、息子さんに話をうかがったとき、賞金については家族に内緒で、おそらく一人で使ってしまったはずだ、とお話しされていました。自由人です。

 いっぽう山田克郎さんが受賞したのは、戦後まもなく昭和25年/1950年4月。賞金は5万円です。

「家の屋根の修理に使いました。あとズボン一着。」(「直木賞事典」山田克郎のアンケート回答より)

 山田さんは戦時中に、東京から神奈川県秦野に移り住み、受賞したときも秦野の家に住んでいました。そこの家の屋根を修理したんでしょう。

 戦後もまた、物価の変動が激しかった時代です。屋根の修理とズボン1着で、5万円の全額がふっとんだのかどうか。その程度のことをしただけで底をついてもおかしくありませんが、それはそれとしても、恬淡として小説づくりに臨む山田さんの生活感が、賞金の使い道に表われています。

 その後に山田さんは秦野から引っ越しました。修理した屋根つきの家はどうなったのか。たぶんもうこの世にはないでしょう。新着したズボンも同様で、いまやどこにあるとも知れません。

 直木賞をとったことなんて、その程度のもんだよ。と、山田さんなら言っていそうな気がします。

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2022年7月20日 (水)

第167回直木賞(令和4年/2022年上半期)決定の夜に

 今日も暑いですね。

 直木賞は年に2回の選考です。87年まえからずっとそうです。奇数の回は、毎年毎年このクソ暑い時季にやってきたのだな、と思うだけで目まいがしますが、冷房の効いた部屋のなかで、鼻くそをほじりながら受賞ニュースが動画で見られるのですから、ここは天国かよと思います。いまの時代の直木賞ファンで、ほんとよかったです。

 そういうなかでコロナ禍が続き、今日の東京でも感染報告が2万件を超えたそうです。外を出歩くのもはばかれる。だけど直木賞は、いつも身近にあります。

 今回の第167回(令和4年/2022年・上半期)も、なかなかボリューミーな候補作がいくつもありました。だれにもわずらわされない空間で、これらを読み進めていると、日常のイヤなこともふっ飛びます。いや、ふっ飛ぶまでは行きませんけど、イヤなことを忘れる時間は確実に得られました。

 ああ、また明日からイヤな日常が始まるのだな。と、早くもうなだれてしまいます。だけどその前に、充実の読書時間をもたらしてくれた候補作と候補者の方々に、深くこうべを垂れたいと思います。ありがとうございます。

 永井紗耶子さんの最近の活躍ぶりには目をみはりますが、『女人入眼』も面白かったですねえ。京の貴族の世界に生きる女性が、まるで違う論理がはびこる鎌倉に派遣されて、あれやこれやと壁にぶつかる、というこの構造のおかげで、すっとストーリーに入りやすくしてくれる。まったく、うまい人です。今後ますますの活躍は、もはや疑いないでしょう。また面白い小説、生み出してください。

 いったい全体、深緑野分さんのようなスケールの大きい作家に、直木賞なんかチッポケなものが必要なんだろうか。とは、しばしば思うところですけど、すみません、直木賞の側にとって必要なんでしたね。『スタッフロール』にも、端正なのにハッチャける部分を忘れない深緑さんの力が輝いています。堪能しました。こういう作家の作品に、授賞できるような賞に、いつか直木賞がなれるといいなあ。

 これはスゲえものを候補作にぶち込んできたな。『爆弾』を読んでビビりました。呉勝浩さんの小説は、いつもいつも猛々しくて、読んでいると気圧されますが、『爆弾』の迫力と強引さのすごさたるや。これを選んでいたら直木賞のほうも一皮ふた皮むけたと思いますけど、まだまだ闘いは続くようです。呉勝浩vs.直木賞の熾烈なバトル。次の第四章も期待しています。

 最近、北海道の出身者は直木賞ヅイています。このまま河﨑秋子さんも一発目の候補でとっちゃうんじゃないかと思いましたよ。『絞め殺しの樹』には、直木賞が好む重厚感がみなぎっていましたし。しかしまあ、未来のある方です。いつだってチャンスあれば、直木賞のほうから擦り寄っていくものと思います。直木賞がうだうだしているうちに、どこかの純文芸誌に書いて芥川賞とかとっちゃったりして。そうならないように、直木賞にはしっかりしてほしいです。

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2022年7月17日 (日)

第167回(令和4年/2022年上半期)の直木賞候補作も、全部、カネがらみです。

 世の中はすべておカネです。

 直木賞もまた、人と人とのあいだでおカネが動く経済活動の一つにすぎません。去る6月17日、第167回(令和4年/2022年・上半期)の候補作が発表されましたが、それをきっかけにすでに多くのおカネが動いています。今週7月20日(水)、選考会が行われて受賞作が決定すれば、もっと多額のおカネが全国各地でやりとりされるでしょう。世の中おカネです。

 ということで、直木賞を語るならおカネのハナシは欠かせません。そのひとつに、主催者から受賞者に渡される「賞金」というものがあり、最近うちのブログではそのことを調べたりしているんですが、いやいや、それよりもっと我々に身近な経済問題が、直木賞にはひそんでいるじゃないですか。

 読者が支払う本の代金です。

 第1回(昭和10年/1935年・上半期)の創成期から事情は同じです。直木賞の受賞作を読みたい人は、基本的にはおカネを払わないと読むことができない、という前提のもとに、この賞は何十年もやってきました。図書館で借りりゃあタダで読めるじゃん、とひらき直る人もいるでしょう。だけど、図書館で読む受賞作だって、あれも図書館がおカネを払って買った商品です。仮に内容がクソみたいな受賞作でも、0円ということはありません。

 直木賞の賞金がどういうふうに推移してきたのか、それは先週取り上げました。じゃあ、直木賞の受賞作(単行本として受賞したものだけじゃなく、受賞作を含む本として発売されたものを含む、いわゆる「受賞本」)は、どのくらいの定価で市場に売り出されてきたのか。その歴史のほうも振り返ってみたいと思います。

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 まずは戦前・戦中です。第1回(昭和19年/1944年・下半期)~第20回(昭和19年/1944年・下半期)までの時期に当たります。

 直木賞の賞金は500円でしたが、川口松太郎さんの『鶴八鶴次郎』(新英社)は一冊1円60銭、『明治一代女』(「風流深川唄」所収、新小説社)は2円。この時期に最も安かった受賞本は、井伏鱒二さんの『ジョン万次郎漂流記』(河出書房)の50銭、高かったのは神崎武雄さんの『寛容』(大川屋書店)の2円10銭です。

 それだけだと高いのか安いのか感覚がつかめません。比較のために、一冊単価を当時の賞金と比べてみますと、本1に対して賞金200倍~300倍ぐらいが、おおよその基準でした(上のグラフでいうとオレンジ色の折れ線)。

 戦後になって賞金は5万円になりますが、一冊単価との倍率はほぼ変わりません。それが第32回(昭和29年/1954年・下半期)に賞金10万円に倍増されたところから、一気に賞金の価値も上がります。単行本の値段は、戦後から昭和36年/1961年ごろまで、ほぼ1冊200円から300円だったのに、賞金だけが上がったわけです。文藝春秋新社が太っ腹だったのか、あるいは相対的に本の値段が安かったのか。よくわかりません。

 そして日本に経済成長が訪れます。本の価格も1960年代から上昇の一途。グラフでは、第41回から第100回ぐらいのあたりです。

 たとえば文藝春秋新社(および文藝春秋)に限定して追ってみても、昭和34年/1959年城山三郎さんの『総会屋錦城』が260円だったところから、昭和40年/1965年安西篤子さん『張少子の話』360円、昭和44年/1969年陳舜臣さん『青玉獅子香炉』430円、昭和48年/1973年藤沢周平さん『暗殺の年輪』680円、昭和53年/1978年色川武大さん『離婚』750円。そのころには一冊1000円を超す法外な(?)受賞本も現われはじめ、昭和58年/1983年胡桃沢耕史さん『黒パン俘虜記』1200円、昭和63年/1988年西木正明さん『凍れる瞳』1400円……。およそ30年のあいだに本の価格水準は、6倍近くハネ上がりました。

 直木賞の賞金が、いまと同じ100万円になったのは、30数年まえの第100回(昭和63年/1988年・下半期)です。このときの受賞本は、藤堂志津子さん『熟れてゆく夏』(文藝春秋)が980円、杉本章子『東京新大橋雨中図』(新人物往来社)が1300円

 一冊単価と賞金の比較倍率は1対1020倍、ないし1対769倍。ここで直木賞のてっぺんを叩いた、と言っていいでしょう。

 その後の30年はいわゆる停滞です。本の値段はおよそ2倍になった、だけど賞金は据え置き、という推移が続いています。1000円台の前半が普通だったものが、平成3年/1991年宮城谷昌光さん『夏姫春秋』1500円(上下巻とも)で1500の壁を突破、平成8年/1996年には坂東眞砂子さん『山妣』がついに2000円の扉を開きます。

 以降、現在までの受賞本は、価格帯がほぼ変わりません。安いときは1400円、高けりゃ2000円。これが賞金100万円時代の直木賞の基本形です。

 ちなみにこの間、1400円を割る受賞本は、第131回、平成16年/2004年の奥田英朗さん『空中ブランコ』(文藝春秋)1238円+税5%=1300円を最後に出ていません。

 逆に高いほうは、少しずつ伸びてきています。消費税率のアップもありましたし、読みたい人が受賞作に支払う額は、もはや2000円近くが当たり前になっています。

 そんななか、ちょうど一年前の第165回で、佐藤究さん『テスカトリポカ』(KADOKAWA)が2100円+税10%=2310円と、直木賞受賞本の単冊での最高価格を叩き出しました。

 薄くて軽いものより、厚くて重いものが直木賞っぽい、とされる風潮が、この賞には根強く残っています。今後、2500、3000と伸びていくのかもしれません。そんなおカネを出してまで小説を読みたい人がどれだけいるっていうんだ……の世界です。

           ○

 と、歴史を見てきましたが、今回の直木賞候補作はどうなんでしょう。本の価格順に並べると、こんな感じになります。

『絞め殺しの樹』(河﨑秋子、小学館):2000円+税10%=2200円

『爆弾』(呉勝浩、講談社):1800円+税10%=1980円

『女人入眼』(永井紗耶子、中央公論新社):1700円+税10%=1870円

『スタッフロール』(深緑野分、文藝春秋):1700円+税10%=1870円

『夜に星を放つ』(窪美澄、文藝春秋):1400円+税10%=1540円

 現状の価格水準から見ると、1700~1900あたりが高すぎず安すぎず、収まりとしてはちょうどいいです。直木賞は、複数の人間の合議で決まる賞でもあります。そういう場では、中庸でちょうどいいものが、よく選ばれやすいです。

 ともかくも、7月20日(水)、受賞作が決まったところからおカネがビュンビュン動きます。こちらの財布からは減るだけで、多くの人は儲かりませんけど、それで一部の誰かたちはおカネをゲットするんでしょう。直木賞は商業出版で成り立っていますから、それはそれで、文句を言う筋合いはありません。

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2022年7月10日 (日)

第100回の贈呈式でいきなり「今回から賞金が倍額になります」と発表。

 ときどき「昔の直木賞は……」みたいな表現を聞きます。創設から87年。「昔の直木賞」はネタの宝庫で、語ることはいくらでも存在します。だけど、直木賞の「昔」と「今」ってどこに境界線があるのか。これがよくわかりません。

 ワタクシ自身がけっこうなおじさんですし、普段、小説のことをしゃべるのもジイちゃんバアちゃんばかりです。なので「昔」というと、昭和50年代ごろ、第80回ぐらいより前をイメージしてしまいますが、次の直木賞は第167回(令和4年/2022年上半期)です。そうなると、歴史を2つに分けて後半のすべてが「今」ということになってしまう。やはり変です。

 「今の直木賞」と言った場合、ふつうに考えれば最近10年ぐらい、長くても20年ぐらいの、いわば21世紀に入ってからの動向なり傾向が対象になるのかな、と思います。

 としてみたとき、今の直木賞を表わすぴったりの言葉があります。「停滞」です。

 いや、直木賞だけじゃなく、今の商業出版界そのものがそうだ、と言ったほうがいいですね。停滞というより凋落というべきなのかもしれませんが、明るい光はみえず、とりあえず現状を維持するのにせいいっぱい。商業出版と直木賞、いずれも共通しています。

 暗いことを言っていても仕方ありません。ハナシを戻して、直木賞にまつわるお金についてです。停滞ぶりをよく示しているのが直木賞の賞金です。

 500円でスタートした賞金は、第21回(戦後~昭和24年/1949年・上半期)に5万円になります。100倍。新円切り替えの影響です。その後は、経済復興および経済成長の波に乗って10万円20万円30万円50万円まで順調に上がっていきます。

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 50万円だったのは10年間。第80回(昭和53年/1978年・下半期)から第99回(昭和63年/1988年・上半期)で、昭和の最後のほうです。日本人は優秀だ、よおしこのまま日本が天下をとるんだ、と鼻息を荒くした人たちが社会全般にのさばっていたという、いまから考えると気色の悪い時代ですけど、よそに高額賞金を謳う文学賞がぞくぞくと生まれるバブル経済に突入して、直木賞も賞金をさらに倍に増やしました。第100回(平成1年/1989年・上半期)から、受賞者ひとりにつき100万円がもらるようになります。ちなみに直木賞は賞金が課税対象なので、手もとに残る額はもう少し少ないはずです。

 以来、平成が31年。年号が変わって令和。「今の直木賞」にいたるまで、ずーっと賞金は同じです。停滞と言わずして何というんでしょう。

 いまさら賞金が増額されることがあり得るのか。外国の文学賞みたいにネーミングライツ的なスポンサー制を導入すれば、その時代に調子のいい金持ち企業が、きっとポーンと出してくれるでしょう。まじで続けられなくなるまで文藝春秋の体力がなくなったら、そんな新しい直木賞が見られるかもしれませんね。心待ちにしています。

 それはともかく34年前、賞金がアップしたときは、かなり行き当たりばったりのノリに近いものがあったようです。

 というのも、選考会のときや選評発表の『オール讀物』3月号が校了するまでは、前回と同額のはずだったのに、平成1年/1989年2月13日、贈呈式の場でいきなり「今回から賞金を100万円にする!」と発表されたからです。

「田中健吾・文芸春秋社長によると、倍増決定は「先週の役員会」。従来額は当世いかにも安いし、百回の節目も考えてという。」(『毎日新聞』平成1年/1989年2月14日「芥川・直木賞の副賞百万円にアップ」より)

 その前年から始まった新潮社の山本周五郎賞と三島由紀夫賞は、はじめから賞金100万円でやっています。それに引きずられたところもあったかと推測しますが、別に次の第101回からでもいいのに「100回記念で盛り上げているところだし、今回からやっちまえ」と、急きょこぶしを振り上げました。30数年の、出版業界を覆っていた景気のよさがもたらした勢いとノリだったんだろうな、と思われます。

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2022年7月 3日 (日)

井伏鱒二は賞金500円を妻と分け、自分の分で「はせ川」のツケを払う。

 井伏鱒二、檀一雄、梅崎春生。みんな直木賞の受賞者です。ただ、こういうメンツを並べると、純文学の作家がどうして直木賞を!? ……みたいなツッコミが入ったりします。一般の人にとってはどうでもいい話題です。

 まあワタクシも一般の人間なので、正直どうでもいいんですが、とくに「おれ、文学のことわかってるぜ」と自負する人ほど、大衆文芸の賞を純文学の作家がとるなんてさあ、変だよねえ、うんぬん、とか言いたがります。うるせえよ、と思います。

 純文学の作家が直木賞をとると、何がどう不自然なのか。よくわかりません。難しい文芸批評は「おれ、文学のことわかってるぜ」の人たちにまかせることにしましょう。うちではおカネのハナシを続けます。

 最近とりあげているのが『別冊文藝春秋』30号[昭和27年/1952年10月]の「時計と賞金」アンケートのことです。対象は第27回(昭和27年/1952年・上半期)の受賞者なので、そんなに多くありませんが、彼らが受賞の賞金を何に使ったのか。一覧でまとめておきます。

受賞回 受賞者 賞金 使い道
第1回 川口松太郎 500円 京橋のレストラン「アラスカ」で記念会を開催し、知友を招待。
第2回 鷲尾雨工 故人のため未回答
第3回 海音寺潮五郎 覚えていない。
第4回 木々高太郎 築地の「宝亭」で記念会を開催し、知友を招待。食事・芸者代などで29円の足を出す。
第6回 井伏鱒二 未回答
第7回 橘外男 覚えていない。
第8回 大池唯雄 生活費。+記念に『復古記』全15巻を購入。
第11回 堤千代 全額両親に。その中で絽縮緬の着物を購入。
第11回 河内仙介 15か月分(月15円)の滞納家賃の支払い。+大阪へ帰郷する費用。
第12回 村上元三 書物の購入代。
第13回 木村荘十 大きな机を発注。+質の受出し代。
第16回 田岡典夫 おそらく生活費。
第16回 神崎武雄 故人のため未回答
第18回 森荘已池 おそらく生活費。
第19回 岡田誠三 未回答
第21回 富田常雄 5万円 もらったその日に酒を飲み、全額消えた。
第22回 山田克郎 未回答
第23回 今日出海 もらったその日に飲み歩き5分の3を消費。残りは妻に。
第23回 小山いと子 銀座のレストランで娘二人との食事代。+応接間のソファ代の穴埋め。
第24回 檀一雄 未回答
第25回 源氏鶏太 覚えていない。
第26回 久生十蘭 1万円は妻に取られ、残りは「有益な方面」で使用。
第26回 柴田錬三郎 ピアノ購入代の一部。
第27回 藤原審爾 友人2人に貸す。

 こんなくだらないアンケートは完全に無視する井伏さんや檀さん。対して川口さんや木々さんは賞金を使ってパーッと派手な記念会を開く。ここに純文学作家と大衆文芸作家のいちばんの違いが出ているわけですね。

 というのはもちろん冗談です。井伏さんも他のところでは賞金の使い道を答えています。上記のときは面倒だっただけかもしれません。

 井伏さんの使い道は、『別冊文藝春秋』49号[昭和29年/1954年12月]の「時計・会・材料その他―直木賞受賞の頃のこと―」とか、『オール讀物』昭和38年/1963年10月号「時計もくれますか」(のち「時計と直木賞」に改題)に書かれています。賞金の500円は、文藝春秋社のほうで使いやすいように10円札にして渡され、もらったその日に銀座「はせ川」に行って、一部をツケの支払いに使ったそうです。

 ただ、この二つのエッセイは井伏さんなりに言い回しを変えている部分があります。ちょっと記憶違いが入っている可能性も否定できないので、受賞してからまだ日も浅い頃に、雑誌のアンケートに答えた2つの回答を引いておきます。下記いずれも『井伏鱒二全集第七巻』(平成9年/1997年1月・筑摩書房刊)に載っています。

「賞金は女房と山分け、勇んで銀座の長谷川へ呑みに現はれると、居合せたお歴々は姿をくらまして了ひ、林房雄と新宿の樽平に進出したが、先客の立野信之と林のために忠告され、無理矢理に円タクで帰される。」(『日本学芸新聞』昭和14年/1939年3月5日「賞金の行衛? 直木賞」より)

「賞金はいつもの原稿料の通り日常の入費に使つてゐます。尤も井伏も使用しました。(井伏帰省中につき留守番代筆)」(『モダン日本』昭和13年/1938年6月号「文学賞の賞金を何にお使ひになりましたか?」より)

 ここでは林房雄さんといっしょに新宿「樽平」に行って、きみ、賞金を粗末に使っちゃったいけないよ、みたいに忠告されたことになっていますが、戦後の井伏さんの回想には立野信之さんの名だけがあり、林さんは出てきません。なぜ林さんが思い出から抜け落ちたのか、気になるところですけど、ともかく賞金にまつわる井伏さんのエピソードは、派手にみんなに驕ることを止められて、平穏に落ち着いたかっこうです。

 いっぽう、檀一雄さんの賞金5万円は、どう使われたのか。まだよくわかっていないので、日を改めて追っていきたいと思います。

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