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2022年6月の5件の記事

2022年6月26日 (日)

賞金500円の一部で、河内仙介は滞納した家賃を払い、大池唯雄は高い本を買う。

 直木賞の受賞者だと聞いて、その作品を読んでみたけど、さっぱり面白く感じない。そんな経験はワタクシもけっこうあります。

 しかしまあ、作品が面白いかどうかなんて些細なことです。その割に人間性が面白い、という受賞者はたくさんいます。そういう人たちのエピソードを残しておいてくれるだけでも、直木賞が長く続いている価値はあるってものです。

 たとえば、第11回(昭和15年/1940年上半期)を受賞した河内仙介さんです。

 昭和29年/1954年、55歳のときに死んでしまい、多少の逸話だけは残っていますが、『別冊文藝春秋』30号[昭和27年/1952年10月]で歴代受賞者に「時計と賞金」のアンケートを実施したときは、まだ生きていました。ともかく河内さんといえば、貧窮、貧乏、金欠の人でしたので、賞金のエピソードもやはり借金にまつわるハナシが出ています。

 受賞当時、河内さんは月15円の家に住み、その家賃を15か月分滞納していたそうです。都合225円。すでに40歳を越え、家庭もあり、妻子を食わせていかなきゃいけない身の上で、この貧窮を続けていたのは、河内さんもなかなかつらい毎日だったと思いますが、直木賞をとったおかげで、賞金で滞納した家賃をきれいさっぱり支払います。

 このとき、家主のオヤジに言われた印象的なひとことを、河内さんは書いています。

「「あなたはどこか見込みのある方だと思つていましたので、あまりきつい催促もしないでおつたのですが……」

と、見え透いたお世辞をいわれた」(『別冊文藝春秋』30号[昭和27年/1952年10月] 河内仙介「時計と賞金」より)

 受賞したときに、ほうぼうに借金があった人は、他にも何人もいます。家賃を滞納していたのも、河内だけではなかったでしょう。しかし、追い出されてもおかしくないほどに1年以上も支払いを待たせつづけ、これを一気に賞金で解消したという一発逆転劇は、河内さん以外には見られません。しかも、そのときに手のひらを返しやがった家主のオヤジのイヤらしさを、こういうアンケート回答を使って晒し上げちゃうんですから、河内さんの意地の悪さが伝わってきます。

 河内さんの小説は、どれも大して面白くありませんが、人物像ははるかに面白い人です。直木賞が権威や名誉だけじゃなくおカネがからむ事業だったおかげで、人間的な面白さがより際立った。河内さんはそんなタイプの受賞者だったと思います。

 「時計と賞金」の回答を見てみると、賞金を使って、受賞の記念に何らか特別なことに使った人が、何人か見られます。木村荘十さんは、畳一畳分よりも大きな机を注文。堤千代さんは、全額両親に渡して、そのなかから絽縮緬の着物を買ってもらったとのことです。

 記念は記念でも、せっかくの大金だからこういうときこそ高い本を買おう、と考えたのが大池唯雄さんです。第8回(昭和13年/1938年下半期)の受賞者です。

 ぐっと時代がくだって、21世紀に、本屋大賞という文学賞ができました。受賞者、というか書店員からの投票でナンバー1に推された作家が、副賞として贈られるのが図書カード10万円分です。受賞者はそれを使って、本を買う、というわけで、副賞を現金ではなく図書カードにしたのは、往年の直木賞受賞者、大池さんの故事を参考にしたと言われています。いや、ウソです。

 それはともかく、大池さんがもらった賞金が500円。病気療養中だったため、生活もままならず、一部は生活費に回されたそうですが、「時計と賞金」によれば大池さんは記念で本を買っています。『復古記』全15巻です。

 大池さんの受賞作は、「兜首」は戦国時代の伊達政宗が東北にいた頃のことですが、「秋田口の兄弟」は、幕末から明治のはじめ、戊辰戦争に材をとった歴史物です。それが直木賞に選ばれたので、まさにその頃の歴史的な資料を編纂した『復古記』を買った……ということなんだろうと思います。

 東京帝国大学蔵版として15冊にまとめられた『復古記』は、大池さんが直木賞をとる10年ほど前、昭和4年/1939年6月から刊行が始まって、昭和6年/1931年10月に15巻目が完結したもので、東大の史料編纂所によって編纂されました。発行所は内外書籍株式会社です。

 果たして大池さんはこれをいくらぐらいで手に入れたのか。

 全冊、奥付では「非売品」となっています。ただ、国会図書館デジタルライブラリーに入っている『史料編纂所一覧 昭和十二年五月』(東京帝国大学文学部史料編纂所・編)に「出版図書定価表」が出ていたので、これを参考にしてみます。『復古記』は各冊金7円だったそうです。

 ということは、15冊なら7円×15で105円。賞金の5分の1ぐらいをつぎ込むことになります。

 いまの直木賞は、賞金が100万円なので、5分の1なら20万円。本代としてはなかなかの額ですが、賞金の使い道にこういう買い物を選ぶところが、さすがは大池さん、ブレない向学心の持ち主だ……といった気がします。

 河内さんにしろ大池さんにしろ、その人となりが自然と出てしまうのが、賞金の使い道、ひいてはお金にまつわるエピソード、ということなんでしょう。

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2022年6月19日 (日)

寄付金3万円。文藝春秋社からお金をもらって日本文学振興会がつくられる。

 また直木賞のことがニュースで流れる季節がやってきました。

 いったい直木賞って何なんだ。と考えると、かならず行き着くのがおカネの問題です。

 ということで、年がら年じゅう直木賞のことだけ書いているうちのブログでは、いま「直木賞にまつわるお金のこと」を探っています。今回取り上げるのはこちら。直木賞がお金で成り立っていることをいまも我々に示してくれる団体、日本文学振興会についてです。

 直木賞以上に、この組織は謎めいています。いや、政府から認可を受けた公益財団法人ですから、組織の成り立ちもカネの動きも公然としていて、別に怪しいところはありません。オフィスは、出版社文藝春秋のビルのなかにあり、働く人たちも文藝春秋から出向している人が中心で、理事長は文藝春秋の社長。要は、文藝春秋の事業のなかでも文学賞に関する業務だけを切り離して、独立した収支で動いているのが、この法人なわけです。

 人間っつうのは、ほんといろんな仕組みを考え出しますよね。文学賞だけに特化した財団。胡散くさいといえば胡散くさいですけど、この仕組みをつくった菊池寛さんによれば、こうして独立した法人にしておけば、万が一、文藝春秋がこの世から消滅したとしても、文学賞の運営は残せるじゃないか、という発想でできたんだそうです。

 ただ、じっさいのところは、文藝春秋がダメになれば、日本文学振興会も無傷じゃいられません。お金の問題がからんでいるからです。

 くわしいことは、ワタクシみたいな外野の野次馬には、もちろんわかりませんけど、文学賞の運営は、それ自体で収益のある事業じゃありません。反面、支出のほうは、賞金を出すほかにも、選考する手間やら、場所やら、授賞式などまで含めて、けっこうなお金がかかります。それをまかなうために、プールしたお金の利子がつぎ込まれたり、資金運用したりするわけですが、そもそもそれらのお金がどこから出てきたかといえば、文藝春秋からの寄付金です。

 日本文学振興会の歴史をひもとくと、最初の段階でどれほどのお金がつぎ込まれたのか、菊池寛さんが書いています。直木賞ができたのは昭和9年/1934年、それから3年ほど経った昭和13年/1938年7月に文部省からの認可が下りて、財団法人日本文学振興会ができました。

「芥川賞、直木賞、菊池賞を銓衡授賞する日本文学振興会の法人設立許可が認可された。(引用者中略)本社は、既に三万円を資金として寄付したが、数年の間に十万円位の資金を寄付するつもりだ。」(『文藝春秋』昭和13年/1938年8月号 菊池寛「話の屑籠」より)

 昭和13年/1938年の3万円とか10万円というのが、どの程度の価値なのか。賞金500円と同じく、ちょっと感覚がつかみづらいですけど、参考までに文藝春秋社の資本金額を挙げてみますと、株式会社になったのがそれより10年前の昭和3年/1928年で、資本金5万円。昭和10年/1935年8月に、倍額増資して資本金10万円。昭和11年/1936年11月、第二次増資で資本金15万円。さらに、財団をつくった昭和13年/1938年には5月に、またもや倍にして資本金30万円、とぶくぶく膨れ上がっています。

 資本の額が、企業の動かすお金の多寡を現わすわけではありませんが、ン万円といえば、明らかにハシタ金じゃありません。賞金をもとに換算すると、賞金500円の段階で寄付金3万円、というのは賞金100万円の現在でいえば6,000万円ぐらいの感覚でしょうか。「これぐらいあれば、安心して3つの文学賞をやっていけるだろう」と菊池さんが考えた10万円は、いまでいうと2億円ぐらい。カネがかかるんですね、文学賞は。

 ちなみに、直木賞なんてクソの価値もない、もっとオレ好みの文学賞が現われてほしい。と思う向きは、多いのか少ないのか、まあ現在でも一定数いると思いますが、菊池さんが言うには、日本文学振興会にお金を寄付すれば、あなたの文学賞もつくってくれるそうです。

(引用者注:菊池寛賞のように)僕の名前を、賞金に冠するのは、可笑しいと云ふ人があるかも知れないが、デービスカツプや、ノーベル賞金のことを考へれば、少しも可笑しくない。有志の方は、十万円もこの法人に寄付して下されば、その方の名前を冠した文学賞金をいつでも設定する。」(『文藝春秋』昭和13年/1938年6月号 菊池寛「話の屑籠」より)

 いまもこの菊池さんの言葉が有効なのかどうなのか。振興会に聞いてみないとわかりません。どこかのお金をもったYouTuberが2億円ぐらい寄付して、文学賞が設定されるか試してみてくれないかなと、期待しています。

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2022年6月12日 (日)

木々高太郎、探偵文壇の人たちを招いて祝賀会を開き、賞金500円使い切る。

 しばらくは、賞金のことを突っついていきます。

 直木賞の受賞者が、賞金を何に使ったのか。21世紀のこの時代に、そんな話題が盛り上がるとは思えません。M-1グランプリのように賞金1,000万円!! とかそのぐらいのインパクトがあれば、多少のにぎわいも生まれるんでしょうけど、いまの直木賞は、賞金100万円。それが年に2回。その程度のおカネの流れは、せわしない情報の荒波に埋もれて、さしたる話題にもなりません。

 ただ、一部の人たちはやっぱりおカネのハナシが大好きです。直木賞の場合も、少し時代をさかのぼれば「賞金の使い道」がビッグな(?)エピソードとして扱われる時期がありました。

 『別冊文藝春秋』30号(昭和27年/1952年10月)は、まだたった第27回目の授賞が終わったばかりの、直木賞史のなかでいえば序盤も序盤の頃ですが、そこで各受賞者にアンケートをとって載せています。正賞の時計がいまどうなっているか、副賞の賞金を何に使ったか。前週の川口松太郎さんのところでも参照した「時計と賞金」の記事です。

 そのときまでに直木賞を受賞した人は計24人。すでに亡くなっていたのが鷲尾雨工さんと神崎武雄さんの2人。アンケートに回答しなかったのは、井伏鱒二さん、岡田誠三さん、山田克郎さん、檀一雄さんの4人なので、残り18人の受賞者は、それぞれの言葉で賞金の使い道を答えています。

 なかで川口さんと同様に、受賞記念のパーティーを開いてパーッと使った、というのが木々高太郎さんです。木々さんの頃はまだ賞金500円の時代でした。

「賞金は当時の探偵作家クラブの諸君(江戸川、海野、大下、水谷、小栗、延原その他)を築地宝亭(今はなし)によび、食事だけではさうかゝらぬ時代でしたが芸者をよんだのでかゝり二十九円足を出しました。」(『別冊文藝春秋』30号[昭和27年/1952年10月]「時計と賞金」)

 29円足を出したということは、かかった費用529円。1年ほど前に京橋のレストラン「アラスカ」で記念会を開いた川口さんは、そこまではかからなかったはずなので、木々さんはさらに大がかりで派手ハデしくやったんじゃないかな、とうかがえます。

 芸能の業界にいた川口さん、それから学界にいた木々さん。そうやって大勢を集めて自分が主役に立つ場面を用意しよう、と発想してしまうところが、両者似ています。目立ちたがりというか出たがりというか。直木賞の受賞者には伝統的に、こういうイタい人が出てくる、というのは、いまのいま、現在の直木賞を見ていてもよくわかりますが、そのイタさが目に見えるかたちで現れるのが、「賞金の使い道」の意義かもしれません。

 ちなみに、木々さんが乱歩さんほか探偵文壇の人たちを招いた「宝亭」での食事会がどんなドンチャン騒ぎだったのか、じっさいはよくわかりません。というか、ほんとうに「宝亭」だったのか、これも(川口さんと似て)木々さんの勘違いじゃないのか、という疑いがあります。

 昭和12年/1937年6月16日夜。木々さんの直木賞受賞からおよそ4か月後。築地ならぬ京橋の明治屋ビル「中央亭」で、盛大というほかない受賞記念の「木々高太郎を喜ぶ会」が開かれました。江戸川乱歩さんが『探偵小説四十年』(昭和36年/1961年・桃源社刊)のなかで、かなり詳しく書いています。「私の知る限り、探偵作家の出版記念会などには前例を見ない盛会であった。」とのことです。

 同書では乱歩さんが『東京写真新聞』昭和12年/1937年6月24日号の記事を引いています。それによると、出席したのは100名以上。医学界からは入沢達吉、加藤元一、風間茂など、直木賞の受賞者から第2回の鷲尾雨工、第3回の海音寺潮五郎、探偵文壇からは江戸川乱歩、海野十三、大下宇陀児、水谷準、延原謙、それから賞の主催者サイドから佐佐木茂索さんもやってきています。「当日木々君は三尺四方もある大きな木の板を受附に預け、来会者に縦横に署名してもらい、記念として応接間に額のようにして懸けることにした。」(『探偵小説四十年』)と乱歩さんが語っているその木の板は、去年、山梨県立文学館で開かれた「ミステリーの系譜」展にも出ていました。

 この記念会が、全額、木々さんの支払いだったかどうか。よくわかりません。木々さんが回想したように、探偵作家の何名かを呼んで芸者を入れて500円以上を「宝亭」で費やしたのが事実なのか、勘違いなのか。これもまた、現状調べきれていません。

 ただ、どうであったとしても、これだけは言えると思います。さすがに木々さん、直木賞をとったぐらいでハシャぎすぎじゃないの?……

 同じ時期に直木賞をとった人は、(川口さんの他には)誰もそんな賞金の使い方をしていません。お祝いの会を開くのはいいけど、足が出るほど盛大にやるのは、やはり異常です。木々さんという人の特性が、こんなところにも出ているのかもしれません。

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2022年6月 5日 (日)

賞金500円。京橋「アラスカ」で開かれた受賞記念会にいくら使ったのか問題。

 直木賞にまつわるお金のこと。とりあえず初回は基本的なところから触れていきたいと思います。第1回(昭和10年/1935年・上半期)の賞金をめぐるエピソードです。

 創設されたとき、直木賞の賞金は500円でした。なんで500円なのか。どの程度の価値があったのか。これには、後づけのような理由も含めて、いくつかの背景が伝えられています。最も信憑性が高いのは「このぐらいの金額があれば、一定期間は生活ができるだろう」と考えられていた、ということです。

 『文藝春秋』昭和10年/1935年1月号で、創設が発表されたとき、佐佐木茂索さんがそんなふうなことを書いています。そして主催者の意図を正しく実行できる人が、第1回の芥川賞をとったのも、佐佐木さんたちにとっては幸運でした。石川達三さんです。

 回想によると、当時、石川さんは「朝食つき15円」という家賃で、四畳半の部屋に住んでいたらしいです。そのほか、もろもろの金額を含めると、一ト月の生活費はおよそ40円500円あれば、何も働かなくても12か月(×40円480円)ぐらいは生活できる換算になります。そのあいだ創作に打ち込んで、1年もやっていけば、カネの稼げる作家になれるよね、そういう人を発掘する文学賞にしたいよね、というのが佐佐木さんたちの思惑でもありました。

 そう考えると、石川さんは芥川賞のモデルケースというか、理想的な受賞後の足取りを、まんまと果たしてくれたわけです。500円あげたところで借金の返済で全部使っちゃいそうなダザイ某より、よっぽど芥川賞を上げた甲斐があったでしょう。

 とまあ、それは芥川賞のハナシなのでどうでもいいんですが、問題は直木賞です。賞金は同額の500円。それをもらった川口松太郎さんがこれを何に使ったか。有名な逸話ですけど、基本をおろそかにせず、改めておさらいしてきます。

 『読売新聞』の連載エッセイ「出世作のころ」に、川口さん自身がくわしく書いています。500円といえば大金ですが、川口さんは別に生活に困っているわけではありませんでした。菊池寛さんも冗談まじりに「きみは賞金は要らんだろ」と言う。たしかに要りません。要らないけれど、せっかくもらうのなら、きちんと記憶に残る使い方がしたい。と、川口さんは考えます。そのあたりがもう、堅気でない芸能の世界にいた人っぽいよなあ、という発想です。

 川口さんがよく通っていたレストランに、東京・京橋の宝町、味の素ビル8階にあった「アラスカ」があります。もとは昭和3年/1928年に大阪の北浜で開店した西洋レストランですが、評判がよかったために東京にも進出。「味の素ビル」が竣工したのは昭和7年/1932年6月のことで、その最上階の8階にオープンしたのが京橋の「アラスカ」です。

 定食は3円のものから出していたと言います。いまでいうと1万円はしないけど1,000~2,000円ってこともない、多少は値の張るお食事、ってところでしょう。定食1食5,000~6,000円ぐらいの感覚でしょうか。こんな店にちょくちょく通っていた、というのですから、直木賞を受賞するまえから川口さんの生活水準がいかに高かったか、よくわかります。

 京橋のアラスカでは、エル・モランデーさんという、イタリア・ミラノから来た人が料理長をしていて、イタリア料理やフランス料理が出されていました。この店にお世話になった人たちを招き、直木賞受賞の記念会をする。というのが川口さんが考えた賞金の使い道です。

 メニューはモランデー料理長が考えます。オードブル(フォアグラ、キャビア、ローハム、酢づけの魚類、冷菜など)、オニオン・スープ、海老のコキール、そしてデザートのお菓子とコーヒー。多少、店のほうで負けてくれて1人前4円ほど。参加者は50~60人ぐらい呼んだらしいので、200円以上かかったはずですが、「出世作のころ(44)大成功の記念会」(『読売新聞』昭和43年/1968年4月12日夕刊)によると「チップを含めて百五十円ですんだ。」と書いてあります。30年以上も前のことを思い出して書いているので、まあ、記憶ちがいもあるでしょう。

 たとえば、こんな回想もあります。上記よりも10年早く川口さんが語っている記事です。

「三百圓ぐらい使つたかな。(引用者中略)一人、五、六圓の料理だつたな。」(『別冊文藝春秋』61号[昭和32年/1957年12月]、城を築きかけて」)

 500円のうち150円で済んだのか300円使ったのか。大きく違います。

 しかもこれだけじゃありません。「世話になつた人々を味の素ビルのアラスカへ招待し、全部つかい果し、幾分の足が出たと記憶する。」(『別冊文藝春秋』30号[昭和27年/1952年10月]「時計と賞金」)なんちゅうことまで、川口さんは言っちゃっているんです。こうなると単なる記憶ちがいでは済まないハナシになってきます。

 場面に応じて、どんなふうに言えばいちばんウケるか。ディテールを変えて語ってしまうのが小説家だ、といえば、そうなのかもしれません。全部つかい果たしたケース以外、多少のお金は残ったはずですけど、そういう細かい数字もバッサリ捨てて、とにかく「レストランで、みんなに高級洋食をふるまったんだ」という一点に集約させる。これも小説家としての腕が光るエピソードづくりなんでしょう。

 けっきょく川口さんが、「アラスカ」での記念会のほかに、賞金を何に使ったのか。そこはもう不明です。

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第16期のテーマは「お金(カネ)」。おカネによって成り立つ直木賞の背景を、今一度確認していきます。

 毎週1本ずつブログを書いて、現在だいたい800本以上。それでも直木賞については、まだまだ個人的に知らないことだらけです。16年目の「直木賞のすべて 余聞と余分」も、直木賞に関することをいろいろ調べていきます。

 毎年、ストレートな切り口から、ひねくったものまで、自分の興味の向くままにテーマを選んできました。それでも、なかなか手を出しかねていた分野があります。「そんなの、誰でも書いているっしょ」というような、ありふれた基本テーマ。あまりに基本すぎるものは、どうにもやる気が起きないからです。

 たとえば、受賞者(や候補者)の出身地とか。たとえば、受賞者(や候補者)の職業・職歴とか。……こういうものは、直木賞のまわりを撫でていけば、簡単にエピソードも拾えますし、王道の「直木賞バナシ」と言っていいでしょう。ワタクシなんかが調べなくても、誰にだってすぐに書けますし、事実、ライターさんがお金をもらって書いた定番の記事が、印刷物にも、ネットにも、たくさん残っています。

 まあそんなの、直木賞のなかでもいちばん薄いエピソードじゃん。と、馬鹿にしているわけではないんですけど(いや、多少は馬鹿にしていますけど)、あえてそこには手を出さず、誰も目を向けなさそうなところに足を運んでは、ひとりで悦に入る。「知ったかぶり」の性格が抜けないワタクシの悪いくせです。

 ということで、これから1年は心を入れ替えて、定番中のド定番をブログのテーマに据えることにしました。おカネについてです。

 直木賞はいまも昔も、まわりでおカネが動く事業です。受賞した人には賞金が出る。いつの頃からか、選考委員にも選考費が払われる。主催する人たちも、毎月給料をもらいながら賞を運営する。われわれ外野の人間たちは、おカネを払って受賞作や候補作を買って読む。すべておカネの上に成り立っています。

 当たり前っちゃあ当たり前です。ただ、当たり前のことをおろそかにしちゃいかんぞ、と16年目でようやく気づきました。直木賞にまつわるおカネのこと。何となくわかっているつもりになったことを、いま一度検証してみる。これから1年は、そんなふうにブログを更新していきたいと思います。正直、新鮮な切り口を調べる時間が、なかなかとれそうにない、という事情もあります。

 いつもどおり、エントリーを挙げていく順番はテキトーです。思いついた順、書きやすい順に週1回ずつ挙げていきます。まず今週は、「直木賞のおカネ」といったらやっぱりこれだろ、という賞金に関するおハナシから。記念すべき第1回受賞のことなので、これまで(きっと)よく語られてきた賞金とその使い道について、少し紹介してみます。

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