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2022年5月22日 (日)

白石省吾(読売新聞)。直木賞と芥川賞のバカ騒ぎは峠を越した、と言ってしまった人。

20220522

 昭和59年/1984年1月、第90回(昭和58年/1983年・下半期)の直木賞が決まりました。受賞したのは『私生活』の神吉拓郎さんと「秘伝」の高橋治さん。ともに50代なかばのおじさんで、受賞作も、地味のうえに地味を重ねたような、おじさん臭さほとばしる作品でした。多くの人が注目している場面に、どう考えてもブレイクしそうにないこんな球を放り込んでくる。さすがは直木賞です。

 その発表があって1週間後。『読売新聞』がちょっとした変革を起こします。それまで毎月載っていた「文芸時評」が打ち切られ、「文芸'84」というタイトルに変更。時評を担当するのも、従来のような評論家ではなく、一介の文芸記者に変わりました。

 ……直木賞が地味だったこと。『読売』の時評担当が文芸記者に変わったこと。両者に何の結びつきもありません。相変わらず強引なマクラで申し訳ないんですけど、とりあえず文芸記者に関係した文学(というか文壇)シーンなのは間違いなく、今日はその時代に時評を担当させられることになった『読売』の記者のことで行ってみます。

 文化部に勤務していた白石省吾さんです。昭和59年/1984年1月、文芸記者が「時評」を書き出すようになった『読売』の、一発目の記者がこの方だったんですが、それより以前にも白石さんは署名記事をたくさん書いていて、文学賞のことにも多く触れています。まずは、そちらの記事を見てみます。

 昭和54年/1979年上半期。第81回が決まったあとの、受賞者記者会見について紹介した白石さんのコメントです。

「会場は混雑していた。テレビカメラも入っていた。しかし、いつもの熱気は感じられない。みんな祭りに立ち合ってはいるが参加していない、という感じなのである。ふくらみすぎた風船に戸惑っている光景といったらよいだろうか。

(引用者中略)

ふくらみすぎた風船、これからどうなるか。今回の選考前後に立ち合って、社会的事件としてのバカ騒ぎは峠を越えたと見えた。あとは本来の文学の問題が残るだろう。」(『読売新聞』昭和54年/1979年7月23日「フラッシュ ふくらみすぎた風船」より ―平成6年/1994年3月・近代文藝社刊、白石省吾・著『文芸その時々』に収録時「芥川賞の商品化」に改題)

 なかなか、目を疑うようなことを言っています。白石さん、当時41歳。本気でこのとき「峠を越えた」なんて感じたんでしょうか。

 文学はもっとまじめで厳粛なものだ、いや、そうでなければならない、と思う向きは、いまもいるでしょうけど、当時もいたはずです。白石さんはおそらく、そんな一派の代弁者だったものと思います。しかし、白石さんの観測はまったく外れてしまいました。

 その後、バカ騒ぎが引くことはなかったからです。芸能人が直木賞をとったり、候補者をワイドショーが追っかけたり。それはもう、いまから見てもオゾケ立つほどの「直木賞・芥川賞」を持ち上げる雰囲気は熱を増していきます。

 昭和54年/1979年の段階で、上記のような文章を書いていたのなら、1980年代以降に本格化するいわゆる「文学賞の芸能化」には、あきれ返るでしょうし、失望するのがふつうの感覚でしょう。なのに、白石さんは会社を辞めません。文学まわりの取材も続けながら、自分のところの文学賞(読売文学賞)も担当して、馬鹿バカしい文壇の中核に立ちつづけるのです。

 自分が取り上げれば取り上げるほど、かつて自分が信じていた「文学」なる幻が霞み、溶けていってしまう。白石さんの文芸記者生活を見ると、そこはかとない哀愁を感じないわけにはいきません。

          ○

 白石省吾。昭和12年/1937年12月26日生まれ。早稲田大学第一文学部を卒業した昭和35年/1960年、読売新聞社に入社して、昭和44年/1969年から文化部の所属となります。以来、文芸担当者として文学賞をそばで見続け、平成4年/1992年55歳で新聞社を退社。直木賞のことは大して見ていなかったかもしれませんが、直木賞が「完全な大衆読み物文壇だけの文学賞」でなかったおかげで、井上ひさしさんの受賞会見の記事とかも担当しています。

 それでもまあ、白石さんの記者生活のなかで、最も注目すべきなのが、昭和59年/1984年に始めた文芸時評っぽい文芸レポート、なのは間違いありません。のちに『読売』では「様々な面で文芸時評が曲がり角にあるという認識があったらしく、当時、好意的な評価があった。」(『読売新聞』平成6年/1994年6月17日「文学のポジション第二部 文芸時評(10)奪われた新人発掘の楽しみ」)としています。大岡昇平さんあたりに大変褒められたそうです。

 ということで、ここではしょっぱな一発目の、白石さんの時評を見てみます。いまからさかのぼること38年前。当時の文壇や文学賞はどんなだったのか。直木賞のハナシは出てきませんが、このときの記者が「リアルタイムの文学状況」をどう考えていたのか。参考になるはずです。

「「純文学」の運命は、近年きわめて危ういものになっている。情報化社会が進むなかで、文学の占める地位は小さくなった。読まれなくなった、売れなくなったという嘆きが現場の編集者たちからしばしば発せられる。純文学は消滅するという人もいる。しかし果たしてそうだろうか。そんなことはあるまい。

(引用者中略)

さる十七日、芥川賞が決まった。(引用者中略・注:受賞作は)うまくまとまっている作品ではある。しかし、お行事が良すぎて、はみ出るものがない。描かれている世界も古風である。そこが物足りない。」(『読売新聞』昭和59年/1984年1月24日「文芸'84」より)

 うーん。何と言ったらいいんでしょう。こういうことさえ言っておけば、いかにも体裁がとれるというお手本のような文章と言いましょうか。

 少なくとも、21世紀に入って、いまだえんえんと続いている直木賞(というか芥川賞ですかね)に対する印象、それを取り巻く文学と一般読者の関心などが、白石さんの頃にはすでにはっきりとあったことは、よくわかります。

 けっきょく、文芸記者がどれだけ批評したり、文学シーンを報道したりしても、この30~40年で大して状況は変わらなかったんだなあ。そんなふうに思うと、白石さんのまわりに立ち込める哀愁が、よけいに強く感じられます。つらいお仕事ですね、文芸記者。

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