豊島薫(都新聞)。往年の直木三十五よろしく「ゴシップ」書きに長けた男。
直木賞を支えた文芸記者、去年の6月から続けてきたこのシリーズも今日がラストです。もはやネタが尽き、取り上げたいような記者もほとんど残っていません。ということで最後は、シリーズ内シリーズみたいに触れてきた「直木三十五をとりまく文芸記者五人男」の、5人目を紹介して、サクッと締めたいと思います。
『都新聞』の「ゴシップ野郎」こと、豊島薫さんです。
昭和8年/1933年、直木さんが絶賛活躍中のさなかに体調を崩した頃、まわりに5人の文芸記者が群れていたことは、これまで何度か触れました。『時事新報』笹本寅、『報知新聞』片岡貢、『読売新聞』河辺確治、『東京朝日新聞』新延修三、そして『都』の豊島さんです。
豊島さんには「城を築きかけて」という文章があります。『衆文』昭和9年/1934年4月号の、直木さんの追悼企画に寄せたものです。それによれば、そもそも豊島さんは、多少は仕事上の接点はあったものの、直木三十五さんとは、さほど深い間柄になったことはなかった、と言います。それどころか、何だよ、あの作家、とイイ印象はもっていませんでした。随筆の執筆を依頼したのにすげなく断られ、木を鼻でくくったような対応といいますか、まるで顔見知りの情すら感じさせない冷淡な態度をとられたことがあるからです。
それが急激に接近するようになったのは、昭和8年/1933年、文芸記者五人衆で自分たちの雑誌でもつくろうか、と話し合っていたとき、おれも一枚噛ませてくれよと、直木さんが声をかけてきたのがきっかけです。豊島さんも、雑誌発刊の打ち合わせ、という名目で直木さんとよく話すようになり、実はそこまでイヤな奴じゃなかったんだな、と気づくようになります。
ただ、追悼文を読むかぎり、他の記者ほど直木さんの人間的な魅力に惚れ込んだぜ、という様子は見られません。距離を置いた直木さんとの付き合い。実際にどうだったかは、もはやわかりませんけど、文章のうえではあくまで客観性をもって直木さんの姿を描出しています。最も記者らしい記者の目線で、直木さんを近くから見ていたのは、この豊島さんだったかもしれません。
亡くなる間際、直木さんは自分の雑誌を持とうと計画していました。けっきょく直木さんの死で刊行は立ち消えになり、影もかたちもない雑誌ではあるんですけど、いやちょっと待ってください。意外と、その先に形となって表れる直木賞の創設事情に重なりそうだぞ、と思われるのは、豊島さんが追悼記に、こんなハナシを書き残してくれているからです。
「雑誌の方の打ち合せと云つては直木氏の部屋に集り、連中(引用者注:豊島の仲間の4人の記者たち)が各自の本職の方の用のためなかなか一つ時間に揃はぬので、徒らに無駄話をしては直木氏の時間をつぶしてゐるその場へ、度々菊池寛氏もはいつて来られて「どうだいうまく行くのかい?」といつて、案じてゐられた。菊池氏は、直木氏に成るべく大きな失敗をさせまいとして、心配されてゐた様子である。(引用者中略)
そして、「僕も、匿名で、言ひたい事を書くよ」と、菊池氏は言つて居られたが、文藝春秋初期以来氏とは因縁浅からぬ直木氏が、功成つた上で始めて自分の城を持たうといふ慶事に際して、これは一つ大いにスケてやらねばなるまいと云ふのであつたらう。」(『衆文』昭和9年/1934年4月号 豊島薫「城を築きかけて」)
直木さんと菊池さんがマブのダチ、というのは、いまでも有名(?)で、直木賞の創設を見るときの基本のキに属する逸話です。だけど、友情と言ってもさまざまなかたちがあるわけですから、菊池さんが直木さんに対して具体的にどれほどの思いを持っていたのか、正直窺い知れません。
昭和8年/1933年から昭和9年/1934年にかけて、直木さんはいよいよ、多少のコガネを手にして、自分の言いたいことが言える自分を中心にした雑誌をつくりたい、それを売っていきたい、と考えていました。十数年まえの菊池さんと同じように。豊島さんは「自分の城を持つ」と表現していますが、直木三十五の世界をまわりに対する忖度なしで築く、そのことに菊池さんは最大限の支援をもって協力しようとしていた……これが菊池さんの、直木さんに対する友情の表わし方でした。
せっかく計画が進んでいたのに、志なかばで直木さんは死んでしまいます。ああ、おれも直木のやりたいことに力を貸してやるつもりだったのに。「友情」の持って行き場がなくなったのが菊池さんです。没後、直木さんのお墓を建ててやるとか、家族の生活を助けてやるとか、そういうこともやりましたが、「直木が築くはずだった城」を手助けしたいぜ、という気持ちがそのままの温度で、直木の名を記念する文学賞をつくりたい、というほうに向いたんでしょう。
そう考えると、直木さんが計画していた雑誌『日本文藝』は、けっきょく直木さんの死で立ち消えになったんですけど、直木賞創設への引き金をひく重要な企みだったんじゃないかな、と思います。
とまあ、そういう作家同士のつながりは、基本、作家本人の随筆や発言、書簡などがないと、なかなか後世にまで伝わりません。けっこうニッチな裏の事情をピックアップして、文章に書き残した豊島さん。記録者として、なかなか秀でた感覚の持ち主でした。
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豊島薫。明治37年/1904年1月25日生まれ、昭和10年/1935年11月20日没。宮崎県延岡に生まれ、松山高校から東京帝大文学部に進学。卒業後の昭和2年/1927年、都新聞社に入ります。はじめは整理部に配属されますが、昭和4年/1929年に第二部(文芸)に異動。『都』の顔ともいえる文芸欄を、気合を入れてつくっていた上泉秀信さんと飛田角一郎さんの下につき、文壇にぐいぐいと食い込みます。
昭和5年/1930年から日曜夕刊の発行が始まると、文芸記者の活躍の場も一気に拡張。昭和8年/1933年1月には「大波小波」欄がスタート。昭和10年/1935年3月、編集局から独立するかたちで文化部が新設。競合紙とあらそって『都』の文芸関係は目にみえて活性化しました。ちょうど直木賞ができる少しまえの時代です。
この頃には、新聞における文芸の新局面がかなりの熱をもって醸成されていた、と見てもいいんでしょう。そこに、文藝春秋社が鳴り物いりで文学賞を始めたのですから、もうスッチャカメッチャカの大騒ぎ。『都』の文芸記者だった豊島さんも、それと併走しながら名物記者の名をほしいままにするに違いない。と思われた矢先の昭和10年/1935年、ぽんと命が絶えてしまいました。享年31。わ、若い……。
文芸記者五人衆は、前年に直木さんを、そしてすぐさま仲間の豊島さんを失ったことになります。『日本文藝』の刊行がポシャったあと、もともと書きものを目指していた笹本さんと片岡さんは、実録文学研究会なる組織に積極的に参加。『実録文学』刊行を果たします。他の同人は、岩崎栄、海音寺潮五郎、木村毅、貴司山治、丸尾長顕、田村栄太郎、高木哲、戸川貞雄、そして直木さんの実弟、植村清二。
健康が維持されていれば、そこに豊島さんも加わったはずだ、と言われています。同誌の昭和11年/1936年1月号(第2巻第1号)では豊島さんを偲び、追悼記事が書かれました。五人衆のうち残された4人も、追悼文を寄せています。全員、よほど気が合ったらしく、新聞社の垣根を越えて友情を結び、「僕達はともかく仲がよかつた。」(片岡貢「チョンボの大家」)とのことです。
さらには、豊島さんがいったいどんな文芸記者だったかが。追悼文に、いろいろと語られています。最も特徴的なのは、彼がかなりの「ゴシップ記事」で名を馳せた、ということです。
「「都」の文壇ゴシツプが東京新聞中の随一であつた事は、すでに定評があるが、あれが豊島君の筆だといふことがだんだんと分つて来て、私は彼の才能に注目するやうになつたのである。
ゴシツプゴシツプと馬鹿にするけれどゴシツプが立派にかけたら、人間一人前なのである。(引用者中略)下品なゴシツプ、屁のやうなゴシツプ、下劣な敵意をふくめたゴシツプさういふものは何処にだつてザラにあるが、しかし豊島君のかいたやうな、ふつくらと味があつて、凄みもユーモアも温かさも兼ね具へたゴシツプは誰にでもさう無暗にかけるものではないのである。」(『実録文学』昭和11年/1936年1月号 杉山平助「豊島薫君の回想」より)
大変な褒められようです。直木賞ができたときにはもう、豊島さんはかなり病状が悪化して、ほとんど仕事できなかったはずですが、それさえなければ直木賞の立ち上がりをめぐるゴタゴタやテンテコ舞いぶりを、しっかりと書き残しておいてくれたかと思います。いくら何でも31歳での死は、あまりに早すぎました。残念です。
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この1年で50人の文芸記者と、それに関わる直木賞のエピソードを見てきました。だから何なんだ、という感じですね。別に結論も何もありません。来週からはまた、ちがう観点で直木賞の姿を追ってみたいと思います。
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