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2022年5月 1日 (日)

足立巻一(新大阪)。記者時代に知り合ったライバル紙の記者が、直木賞受賞。

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 日本の大衆文芸に、最も功績のあった新聞は何か。ひとつだけ挙げよ。……という設問は、まあ愚問かもしれません。ひとつに絞ることに何の意味もないからです。

 しかし、ざーっと歴史を眺めてみて、大衆文芸というか直木賞に強い影響を与えたトップクラスの新聞といえば、何といっても『大阪毎日新聞』(大毎)は外せないでしょう。菊池寛さんとの親密な関係に始まって、『サンデー毎日』は大衆文芸の懸賞を企画。『毎日新聞』大阪本社となってからは、学芸部から山崎豊子さんという直木賞受賞者まで出してしまう。正直いって、直木賞は文藝春秋社じゃなく「大毎」が創設したとしてもおかしくなかった。そのぐらいの歴史を持っています。

 ところで、新聞、新聞といっていますが、新聞に載った小説が直木賞をとることはめったにありません。時代もずいぶん下った1980年代以降になれば、白石一郎さんの『海狼伝』とか、古川薫さんの『漂泊者のアリア』とか、ぽつぽつと単行本化されたあとに受賞する例も出てきましたが、雑誌の掲載作が候補ラインナップの主流だったそれより以前に、新聞の連載小説が直木賞の場に持ち込まれることなんて、異例も異例でした。

 90年近い直木賞の歴史を見ても、単行本になる前の新聞小説が受賞したことは、たった一度しかありません。檀一雄さんの「真説石川五右衛門」です。そして、それを載せた新聞が『新大阪』。毎日新聞社が傍系の夕刊紙として立ち上げた新聞で、はじめのころの上層部のほとんどは『毎日』に籍を置きながら出向のかたちで関わっていた、と言います。そういう意味では、これも直木賞と大毎(毎日新聞大阪)との縁の深さです。

 そうなると『新大阪』の文芸記者を誰か取り上げたいところです。だけど不勉強なもので、よく知らないので、ワタクシでもわかる有名な書き手を、今回の主役にしたいと思います。『新大阪』創設期の語りべにして、学芸記者から学芸部長も務めた足立巻一さんです。

 足立さんによると、昭和21年/1946年2月に創刊した『新大阪』の、売りのひとつが充実した学芸欄だったそうです。

「一面に学芸欄を設けた。創刊号には八木秀次と藤沢桓夫が書き、そのあと一流の筆者が署名原稿を寄せた。志賀直哉、谷崎潤一郎、梅原竜三郎、吉井勇の戦後はじめての座談会を京都で開いたりもした。大新聞も用紙不足で学芸欄など持てなかったころなので、この編集は全国的にインテリ新聞という評判を得た。」(『思想の科学』昭和34年/1959年4月号 足立巻一「現代文化の陰極――ある地方新聞の戦後小史――」より)

 一般に抱く夕刊紙のイメージとはかなり違います。

 ところが好調だったのは、戦後まもない短い期間だけで、昭和24年/1949年12月に新聞用紙の統制がなくなると、『毎日』をはじめとして全国紙がこぞって夕刊も出しはじめます。こうなると、毎日系列の夕刊発行紙、という特異性がなくなり、『毎日』本紙の夕刊と競合しないような路線を模索せざるを得なくなります。檀さんの連載が始まったのはちょうど『新大阪』の部数が減り出した凋落のとき、昭和25年/1950年10月1日からです。

 そのころ足立さんは、京都支局に唯一の記者として派遣されていたので、直接連載には関わっていません。後年、「立川文庫」について書いたり、大衆文芸の源流を深く追った足立さんは、石川五右衛門についても研究し、いかに劇化され、キャラクター化されていったか、みたいな文章をいくつか残しました。そう考えると、檀さんの連載に関わっていれば、もっとこの作品や直木賞についても書き残していてくれたんじゃないか、と思い、残念でなりません。

 足立さんには『夕刊流星号 ある新聞の生涯』という小説があります。『新大阪』の興亡を描いたもので、連載小説の話題もいくつか出てきます。ただ、檀さんの小説のことに触れられたのは、下記のくだりのみです。

「第一面には時代小説が連載されていた。檀一雄が『石川五右衛門』を久しく書きつづけ、それが連載途中で直木賞を受けたり映画になったりして紙面をにぎわせたが、檀が前年の暮れに捕鯨船に乗って南氷洋へ出かけるというので打ち切らねばならず、そのあとは社長の瀬田源吉が『八幡船』をやれといい出し、山岡荘八に頼んだ。」(昭和56年/1981年11月・新潮社刊、足立巻一・著『夕刊流星号 ある新聞の生涯』より)

 連載中の小説が直木賞をとったことで、紙面がどれほどにぎわったのか。何しろ昭和26年/1951年の頃のハナシです。『新大阪』の売上が伸びたとも思えませんし、檀さんがそんなことで『新大阪』に恩を感じたこともなかったでしょう。

 作家に紙面を提供して、それが文学賞をとったとしても、光が当たるのは作家のほうです。発行部数が落ちるいっぽうの弱小新聞には、賞を出したからといって目を向ける人も少なく、褒めたたえようという声もありません。まったく縁の下で直木賞を支える新聞メディアの哀しさが、『新大阪』には凝縮されている、と言っていいでしょう。

          ○

 足立巻一。大正2年/1913年6月29日生まれ。昭和60年/1985年8月14日没。生まれは東京ですが、家庭の事情から神戸で育ち、以後関西方面に縁のある人生を送ります。戦争前には神戸で高校の教師として働き、戦後復員したのち、神戸市立第一神港商業に復職。しかし昭和21年/1946年12月、旧友の橋本威義さんに誘われて、新大阪新聞社に入社します。ローマ字週刊紙の『英字少国民』編集部、学芸部、京都支局駐在を経て、学芸部長、社会部長などを歴任し、昭和29年/1954年10月には、経営悪化がとまらない同社の社長に就任。昭和31年/1956年6月、社内抗争にやぶれて退社したのが43歳のときでした。

 そこからは、文学のことから、古い大衆小説のことを調べたり、ラジオ・テレビの構成や脚本のかたわら、詩人として詩を書き、あるいは児童詩誌『きりん』の制作に打ち込んだりと、幅広い分野で活躍します。勃興したばかりの大衆文学研究に参加したことも、忘れちゃいけません。東に尾崎秀樹あれば、西に足立巻一あり、と言われたっておかしくないぐらいの、地道で貴重な調査・研究をたくさん残しました。

 というその過程で出てくるのが、足立さんと直木賞の、いまひとつの接点です。どちらかといえば、檀一雄さんの受賞よりこっちのほうが、より足立さんの存在が際立つ逸話でしょう。司馬遼太郎さんが『梟の城』で直木賞をとったことです。

 足立さんと司馬さんが出会ったのは、昭和25年/1950年の京都でした。片や『新大阪』の京都支局にやってきた新参記者。片や、すでに『産経新聞』の京都支局で名を馳せていたデキる記者。以来、相知る仲として付き合いが始まります。

 新聞記者としての付き合いしかなかった司馬さん=福田さんが「ペルシャの幻術師」で講談倶楽部賞を受賞したのが、昭和31年/1956年のことです。そのころ、足立さんは忍術のことを調べようと考えていたので、なんだ福田さん、幻術とか忍術とか、そういうことに詳しいんじゃないか、と目をひらき、ハナシを聞きにいきます。

 しかし、いや、おれは空想で書いただけなんだ、幻術なんて何も知らんよ、と言われて足立さんはガッカリします。それでも何とか取材や調査を続けて、『忍術』(昭和32年/1957年12月・平凡社刊)として一冊にしたのですから偉いものです。

 偉いものだ、と司馬さんも思ったんでしょう。さっそく『忍術』を読んでみました。

(引用者注:そのころ『中外日報』の連載小説で)ぼくは“忍術”というものを最初、変な言い方ですけれども、いわゆる文学青年がいう意味での純文芸的に書いてみましょうと思ったんです。ところが途中でね、そういう人間なんだなあ、おもしろい小説を書いてみようと思い直した。だから、“忍術”を書いてみましょうと思ったのは足立巻一の『忍術』を読んでからですよ。」(『文藝』昭和50年/1975年4月号 足立巻一、司馬遼太郎「対談 取材について」より)

 どこまでが、司馬さんお得意のリップサービスなのか、よくわかりません。しかし、ちょうど同じ時期に、どこか重なる興味をもった二人。両者ともに新聞の学芸記者だったことも奇遇ですが、それぞれが昭和中期以降の「大衆文芸」をひっぱっていった、というのは、「奇遇」と言えない必然的なものが、大阪の新聞のなかに備わっていたのかもしれません。

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