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2022年5月15日 (日)

平野嶺夫(東京日日新聞、など)。直木賞のウラに、なぜだか関わりのある人。

20220515

 直木賞を見ていると、まわりに新聞記者がうじゃうじゃいます。文芸や文壇の担当者だけじゃありません。政治、経済、外報、社会……。直木賞とつながりのある記者は、あらゆる部署にわんさかいます。そういう人たちを全員取り上げていったら、まじでキリがありません。

 ただ、そのなかでも絶対に挙げておかなくちゃまずいだろ、という記者がいます。平野嶺夫さんです。

 物書きとしては筆名「平野零児」で通っています。直木賞の歴史を裏で支えた、という意味ではかなりのハイレベルな新聞記者です。昭和9年/1934年、ちょうど直木三十五さんが死に、その名を冠した文学賞をつくる動きが出ていた時期には、『東京日日新聞』学芸部の嘱託社員でした。ギリギリ「文芸記者」と呼んでもいいかと思います。

 平野さんと直木賞といえば、昔むかし、うちのブログでも少しだけ取り上げました。昭和35年/1960年10月、直木さんゆかりの地、横浜市富岡に記念碑が建ったことを中心に編まれた『新文学史跡 富岡の家 直木三十五宅趾記念号』という冊子について、これを編集したのが平野さんだった、という件です。

 「藝術は短く 貧乏は長し」。直木さんを偲ぶために刻まれた石碑は、昭和35年/1960年、富岡の「直木三十五宅趾」の前に据えられます。旧住居そのものは取り壊されて、もう実物を見ることはできませんけど、2年前の令和2年/2020年南国忌のときに立ち寄ったら、文学碑と案内板がまだ残っているのが確認できました。これをつくるのに尽力したのが、平野さんです。

 どうしてこんなに直木さんの顕彰に積極的だったのか。単なる知り合いという関係を超えるどんな深い結びつきがあったのか。平野さんの心の奥底はとらえ切れませんけど、直木さんとの思い出を、こんなふうに書き残しています。

「直木さんについて思い出すのは、私が新聞社をやめ、筆一本で独立を志した時、故浜本浩君も改造社をやめ、共に出発することにした。その時、二人は親しくして貰った直木さんに、木挽町にあった文春クラブの二階で、

「実は二人共決心はしたものの不安なんですが……」と、二、三の先輩にいったのと同じようなことの伺いを立てたら、直木さんは言下に

「そりゃ努力次第だ」とポツリといってくれた。その後浜本君は大いに努力の甲斐あって、先づ名作『浅草の灯』以来めきめきと目覚ましい仕事をしたが、私は廻り道をしたり、怠けたりして、現状に至っている。」(昭和37年/1962年11月・平野零児遺稿刊行会刊、平野零児・著『平野零児随想集 らいちゃん』所収「芸術は短く貧乏は長し」より)

 これがだいたい昭和7年/1932年頃のことらしいです。

 それまでの平野さんは、文芸記者というより社会全般の人の動きを対象にする取材記者でした。こういう人たちともよく付き合い、具体的に何を世話したわけではないのに慕われたのが、直木三十五という人の不思議なところでしょう。自分の死後には、わざわざ顕彰碑を建てようと働いてくれるくらいですから、相当なものです。

 直木賞ができたのは、菊池寛さんや佐佐木茂索さん、その他、直木さんと交誼の厚かった作家たちの友情のおかげ。というのは間違いありません。だけど、直木さんのシンパが新聞界にもけっこういた、ってことも重要なんだろうと思います。平野嶺夫=零児さんは、当時の作家界と新聞界の交錯ぶりをよく現わす代表的な人物と言ってもいいんでしょう。

          ○

 平野嶺夫。明治30年/1897年2月6日生まれ、昭和36年/1961年8月26日没。正則英語学校に学びながら、馬場孤蝶さんのところに出入りするようになり、そういうなかから作家になるには、まず新聞記者として経験を積むコースもあるんだと知って、大正7年/1918年大阪毎日新聞社に入ります。

 神戸支局勤務、済南事変の従軍記者などを経て、『東京日日新聞』の社会部記者に。そこでは上役に阿部真之助さんがいて、怒られたり、または可愛がられたりの、楽しい記者生活を送りますが、昭和6年/1931年いったん退社して作家で食っていこうと決意します。

 ただ、そう簡単に食っていけるはずもありません。生活のためには、いま少し安定した給料が必要です。それで『東京日日』に嘱託で雇ってもらったり、上智大学で講師をしたりしますが、ちょうどこの不安な時期に近くにいたのが、直木さんだったというわけです。

 もちろん直木さんだけが近くにいたわけじゃなく、学芸部勤務のころの平野さんは、さらに交友が広くなっていろんな人と知り合いになります。その中の一人が、駆け出しの作家だった井伏鱒二さんです。

 いや、平野さんと井伏さんが友人になったのは、もう少し前だったかもしれません。昭和のはじめ頃に、両者ともに田中貢太郎さんに誘われて「泊鴎会」に入会していたそうで、友人として相当打ち解けた様子が井伏さんの「泊鴎会」(『群像』昭和32年/1957年1月号)に書いてあります。ただ、『東京日日新聞』に原稿を届けたときに、学芸部長だった阿部真之助さんから学芸部員として平野さんを紹介された、という回想もあって、このあたりの時系列がいまいちつかめません。もっと調べなきゃ駄目でしたね。

 ともかく、その後、平野さんが井伏さんに資料を貸したりしたことで『ジョン万次郎漂流記』(昭和12年/1937年11月・河出書房/記録文学叢書)が生まれた、というのはよく知られたところです。

「河出書房から頼まれたとき、記録からぬき書きしたようなものが記録文学だと思ってね。材料がなにかないかなと思っているとき、散歩にでかけたら阿佐ヶ谷で平野零児にばったり会ってね。なにかいい材料はないかと話したら、俺のところに木村毅から資料を沢山もってきていて、そのなかにジョン万次郎というのが三冊くらいあるから、それをお前に貸してやるから、それを使って書けというんだ。」(『潮』昭和59年/1984年5月号、萩原得司・構成「井伏鱒二聞き書き(上)」より)

 という井伏さんの言葉を引いてみました。この作品が誕生するところに関わった平野さんの重要性、とんでもなくデカいな、と思うんですけど、どうして平野さんは木村毅さんからそんな資料をたくさん持ってきていたんですかね。

 あるいは、それをもとに平野さんがジョン万次郎の物語を書く道もあったのかもしれません。平野さんが書いたら、たぶん井伏さんはまた別の材料にしていたでしょうし、行き詰まりの時期を迎えていた昭和12年/1937年の直木賞で、井伏さんの記録モノが選ばれることもなかったかもしれません。わかりません。

 まあ、Ifのハナシをしたって仕方ないんですけど、ひょっとしたら平野さんが、せっかくの材料を友人に貸す、なんちゅう「廻り道をしたり、怠けたり」したから、井伏さんに直木賞が転がり込んだ、と言えなくもありません。オモテ立ったところで直木賞史には出てこないけど、裏ではこの賞の流れに関わった平野嶺夫。やっぱり、絶対に挙げておかなくちゃまずい人です。

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