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2022年5月の5件の記事

2022年5月29日 (日)

豊島薫(都新聞)。往年の直木三十五よろしく「ゴシップ」書きに長けた男。

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 直木賞を支えた文芸記者、去年の6月から続けてきたこのシリーズも今日がラストです。もはやネタが尽き、取り上げたいような記者もほとんど残っていません。ということで最後は、シリーズ内シリーズみたいに触れてきた「直木三十五をとりまく文芸記者五人男」の、5人目を紹介して、サクッと締めたいと思います。

 『都新聞』の「ゴシップ野郎」こと、豊島薫さんです。

 昭和8年/1933年、直木さんが絶賛活躍中のさなかに体調を崩した頃、まわりに5人の文芸記者が群れていたことは、これまで何度か触れました。『時事新報』笹本寅『報知新聞』片岡貢『読売新聞』河辺確治『東京朝日新聞』新延修三、そして『都』の豊島さんです。

 豊島さんには「城を築きかけて」という文章があります。『衆文』昭和9年/1934年4月号の、直木さんの追悼企画に寄せたものです。それによれば、そもそも豊島さんは、多少は仕事上の接点はあったものの、直木三十五さんとは、さほど深い間柄になったことはなかった、と言います。それどころか、何だよ、あの作家、とイイ印象はもっていませんでした。随筆の執筆を依頼したのにすげなく断られ、木を鼻でくくったような対応といいますか、まるで顔見知りの情すら感じさせない冷淡な態度をとられたことがあるからです。

 それが急激に接近するようになったのは、昭和8年/1933年、文芸記者五人衆で自分たちの雑誌でもつくろうか、と話し合っていたとき、おれも一枚噛ませてくれよと、直木さんが声をかけてきたのがきっかけです。豊島さんも、雑誌発刊の打ち合わせ、という名目で直木さんとよく話すようになり、実はそこまでイヤな奴じゃなかったんだな、と気づくようになります。

 ただ、追悼文を読むかぎり、他の記者ほど直木さんの人間的な魅力に惚れ込んだぜ、という様子は見られません。距離を置いた直木さんとの付き合い。実際にどうだったかは、もはやわかりませんけど、文章のうえではあくまで客観性をもって直木さんの姿を描出しています。最も記者らしい記者の目線で、直木さんを近くから見ていたのは、この豊島さんだったかもしれません。

 亡くなる間際、直木さんは自分の雑誌を持とうと計画していました。けっきょく直木さんの死で刊行は立ち消えになり、影もかたちもない雑誌ではあるんですけど、いやちょっと待ってください。意外と、その先に形となって表れる直木賞の創設事情に重なりそうだぞ、と思われるのは、豊島さんが追悼記に、こんなハナシを書き残してくれているからです。

「雑誌の方の打ち合せと云つては直木氏の部屋に集り、連中(引用者注:豊島の仲間の4人の記者たち)が各自の本職の方の用のためなかなか一つ時間に揃はぬので、徒らに無駄話をしては直木氏の時間をつぶしてゐるその場へ、度々菊池寛氏もはいつて来られて「どうだいうまく行くのかい?」といつて、案じてゐられた。菊池氏は、直木氏に成るべく大きな失敗をさせまいとして、心配されてゐた様子である。(引用者中略)

そして、「僕も、匿名で、言ひたい事を書くよ」と、菊池氏は言つて居られたが、文藝春秋初期以来氏とは因縁浅からぬ直木氏が、功成つた上で始めて自分の城を持たうといふ慶事に際して、これは一つ大いにスケてやらねばなるまいと云ふのであつたらう。」(『衆文』昭和9年/1934年4月号 豊島薫「城を築きかけて」)

 直木さんと菊池さんがマブのダチ、というのは、いまでも有名(?)で、直木賞の創設を見るときの基本のキに属する逸話です。だけど、友情と言ってもさまざまなかたちがあるわけですから、菊池さんが直木さんに対して具体的にどれほどの思いを持っていたのか、正直窺い知れません。

 昭和8年/1933年から昭和9年/1934年にかけて、直木さんはいよいよ、多少のコガネを手にして、自分の言いたいことが言える自分を中心にした雑誌をつくりたい、それを売っていきたい、と考えていました。十数年まえの菊池さんと同じように。豊島さんは「自分の城を持つ」と表現していますが、直木三十五の世界をまわりに対する忖度なしで築く、そのことに菊池さんは最大限の支援をもって協力しようとしていた……これが菊池さんの、直木さんに対する友情の表わし方でした。

 せっかく計画が進んでいたのに、志なかばで直木さんは死んでしまいます。ああ、おれも直木のやりたいことに力を貸してやるつもりだったのに。「友情」の持って行き場がなくなったのが菊池さんです。没後、直木さんのお墓を建ててやるとか、家族の生活を助けてやるとか、そういうこともやりましたが、「直木が築くはずだった城」を手助けしたいぜ、という気持ちがそのままの温度で、直木の名を記念する文学賞をつくりたい、というほうに向いたんでしょう。

 そう考えると、直木さんが計画していた雑誌『日本文藝』は、けっきょく直木さんの死で立ち消えになったんですけど、直木賞創設への引き金をひく重要な企みだったんじゃないかな、と思います。

 とまあ、そういう作家同士のつながりは、基本、作家本人の随筆や発言、書簡などがないと、なかなか後世にまで伝わりません。けっこうニッチな裏の事情をピックアップして、文章に書き残した豊島さん。記録者として、なかなか秀でた感覚の持ち主でした。

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2022年5月22日 (日)

白石省吾(読売新聞)。直木賞と芥川賞のバカ騒ぎは峠を越した、と言ってしまった人。

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 昭和59年/1984年1月、第90回(昭和58年/1983年・下半期)の直木賞が決まりました。受賞したのは『私生活』の神吉拓郎さんと「秘伝」の高橋治さん。ともに50代なかばのおじさんで、受賞作も、地味のうえに地味を重ねたような、おじさん臭さほとばしる作品でした。多くの人が注目している場面に、どう考えてもブレイクしそうにないこんな球を放り込んでくる。さすがは直木賞です。

 その発表があって1週間後。『読売新聞』がちょっとした変革を起こします。それまで毎月載っていた「文芸時評」が打ち切られ、「文芸'84」というタイトルに変更。時評を担当するのも、従来のような評論家ではなく、一介の文芸記者に変わりました。

 ……直木賞が地味だったこと。『読売』の時評担当が文芸記者に変わったこと。両者に何の結びつきもありません。相変わらず強引なマクラで申し訳ないんですけど、とりあえず文芸記者に関係した文学(というか文壇)シーンなのは間違いなく、今日はその時代に時評を担当させられることになった『読売』の記者のことで行ってみます。

 文化部に勤務していた白石省吾さんです。昭和59年/1984年1月、文芸記者が「時評」を書き出すようになった『読売』の、一発目の記者がこの方だったんですが、それより以前にも白石さんは署名記事をたくさん書いていて、文学賞のことにも多く触れています。まずは、そちらの記事を見てみます。

 昭和54年/1979年上半期。第81回が決まったあとの、受賞者記者会見について紹介した白石さんのコメントです。

「会場は混雑していた。テレビカメラも入っていた。しかし、いつもの熱気は感じられない。みんな祭りに立ち合ってはいるが参加していない、という感じなのである。ふくらみすぎた風船に戸惑っている光景といったらよいだろうか。

(引用者中略)

ふくらみすぎた風船、これからどうなるか。今回の選考前後に立ち合って、社会的事件としてのバカ騒ぎは峠を越えたと見えた。あとは本来の文学の問題が残るだろう。」(『読売新聞』昭和54年/1979年7月23日「フラッシュ ふくらみすぎた風船」より ―平成6年/1994年3月・近代文藝社刊、白石省吾・著『文芸その時々』に収録時「芥川賞の商品化」に改題)

 なかなか、目を疑うようなことを言っています。白石さん、当時41歳。本気でこのとき「峠を越えた」なんて感じたんでしょうか。

 文学はもっとまじめで厳粛なものだ、いや、そうでなければならない、と思う向きは、いまもいるでしょうけど、当時もいたはずです。白石さんはおそらく、そんな一派の代弁者だったものと思います。しかし、白石さんの観測はまったく外れてしまいました。

 その後、バカ騒ぎが引くことはなかったからです。芸能人が直木賞をとったり、候補者をワイドショーが追っかけたり。それはもう、いまから見てもオゾケ立つほどの「直木賞・芥川賞」を持ち上げる雰囲気は熱を増していきます。

 昭和54年/1979年の段階で、上記のような文章を書いていたのなら、1980年代以降に本格化するいわゆる「文学賞の芸能化」には、あきれ返るでしょうし、失望するのがふつうの感覚でしょう。なのに、白石さんは会社を辞めません。文学まわりの取材も続けながら、自分のところの文学賞(読売文学賞)も担当して、馬鹿バカしい文壇の中核に立ちつづけるのです。

 自分が取り上げれば取り上げるほど、かつて自分が信じていた「文学」なる幻が霞み、溶けていってしまう。白石さんの文芸記者生活を見ると、そこはかとない哀愁を感じないわけにはいきません。

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2022年5月15日 (日)

平野嶺夫(東京日日新聞、など)。直木賞のウラに、なぜだか関わりのある人。

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 直木賞を見ていると、まわりに新聞記者がうじゃうじゃいます。文芸や文壇の担当者だけじゃありません。政治、経済、外報、社会……。直木賞とつながりのある記者は、あらゆる部署にわんさかいます。そういう人たちを全員取り上げていったら、まじでキリがありません。

 ただ、そのなかでも絶対に挙げておかなくちゃまずいだろ、という記者がいます。平野嶺夫さんです。

 物書きとしては筆名「平野零児」で通っています。直木賞の歴史を裏で支えた、という意味ではかなりのハイレベルな新聞記者です。昭和9年/1934年、ちょうど直木三十五さんが死に、その名を冠した文学賞をつくる動きが出ていた時期には、『東京日日新聞』学芸部の嘱託社員でした。ギリギリ「文芸記者」と呼んでもいいかと思います。

 平野さんと直木賞といえば、昔むかし、うちのブログでも少しだけ取り上げました。昭和35年/1960年10月、直木さんゆかりの地、横浜市富岡に記念碑が建ったことを中心に編まれた『新文学史跡 富岡の家 直木三十五宅趾記念号』という冊子について、これを編集したのが平野さんだった、という件です。

 「藝術は短く 貧乏は長し」。直木さんを偲ぶために刻まれた石碑は、昭和35年/1960年、富岡の「直木三十五宅趾」の前に据えられます。旧住居そのものは取り壊されて、もう実物を見ることはできませんけど、2年前の令和2年/2020年南国忌のときに立ち寄ったら、文学碑と案内板がまだ残っているのが確認できました。これをつくるのに尽力したのが、平野さんです。

 どうしてこんなに直木さんの顕彰に積極的だったのか。単なる知り合いという関係を超えるどんな深い結びつきがあったのか。平野さんの心の奥底はとらえ切れませんけど、直木さんとの思い出を、こんなふうに書き残しています。

「直木さんについて思い出すのは、私が新聞社をやめ、筆一本で独立を志した時、故浜本浩君も改造社をやめ、共に出発することにした。その時、二人は親しくして貰った直木さんに、木挽町にあった文春クラブの二階で、

「実は二人共決心はしたものの不安なんですが……」と、二、三の先輩にいったのと同じようなことの伺いを立てたら、直木さんは言下に

「そりゃ努力次第だ」とポツリといってくれた。その後浜本君は大いに努力の甲斐あって、先づ名作『浅草の灯』以来めきめきと目覚ましい仕事をしたが、私は廻り道をしたり、怠けたりして、現状に至っている。」(昭和37年/1962年11月・平野零児遺稿刊行会刊、平野零児・著『平野零児随想集 らいちゃん』所収「芸術は短く貧乏は長し」より)

 これがだいたい昭和7年/1932年頃のことらしいです。

 それまでの平野さんは、文芸記者というより社会全般の人の動きを対象にする取材記者でした。こういう人たちともよく付き合い、具体的に何を世話したわけではないのに慕われたのが、直木三十五という人の不思議なところでしょう。自分の死後には、わざわざ顕彰碑を建てようと働いてくれるくらいですから、相当なものです。

 直木賞ができたのは、菊池寛さんや佐佐木茂索さん、その他、直木さんと交誼の厚かった作家たちの友情のおかげ。というのは間違いありません。だけど、直木さんのシンパが新聞界にもけっこういた、ってことも重要なんだろうと思います。平野嶺夫=零児さんは、当時の作家界と新聞界の交錯ぶりをよく現わす代表的な人物と言ってもいいんでしょう。

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2022年5月 8日 (日)

浦田憲治(日本経済新聞)。直木賞はエンターテインメントの賞だと言われてきた、と言い続ける。

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 文芸記者なら誰しも何らかのかたちで直木賞を支えています。その自覚がある人もいれば、なさそうな人もいますが、客観的に見たら文芸記者は全員、直木賞のしもべです。

 昭和の後期から『日本経済新聞』の文化部で記者をしていた浦田憲治さんも、やっぱりその一人です。

 おそらく興味の中心は純文学にあるんだろうな、と思わせながら、頭のなかの脳髄の底のほうには直木賞の存在がびっしりと繁殖していて、はたから見ると、こういう記者がいたから直木賞は命を長らえてきたんだなあ、と思います。浦田さんの『未完の平成文学史 文芸記者が見た文壇30年』(平成27年/2015年3月・早川書房刊)などは、およそそんなことを印象づける一冊です。

 過去を振り返って直木賞がおもしろいのは、「純文学ではない文学賞」としてずっとやってきたからだ、と言っても過言ではありません。文学賞なのに、純な文学を対象にしない。よく考えると虐げられるべくして生まれたような立ち位置です。そりゃあ、文学だの芸術だのを一等のものだと信じてきちゃった人たちには、こんな文学賞、アホみたいに見えるでしょう。

 『日経』の浦田さんが、直木賞をアホとして扱っていたのか。それはわかりませんが、『未完の平成文学史』の「第十四章 エンターテインメントからの参入」は、文学の芸術性を信奉する文芸記者が、昭和後期以降の出版界の潮流をどう感じていたか、しっかり書き込んだ資料として貴重です。

 たとえば、こんな文章がさらりと出てきます。いまや、こんなこと言っていたら馬鹿にされるような直木賞・芥川賞観でしょうけど、ほんの十数年まえまでは、文芸記者もこんなことを堂々と書いていました。牧歌的なイイ時代に育ったんでしょう、うらやましいことです。

「芥川賞は純文学、直木賞はエンターテインメントとされてきたが、平成に入ってからの受賞者を見ると、バイオレンス小説で売り出した花村萬月が芥川賞を受賞し、私小説に賭けてきた車谷長吉が直木賞を受賞している。文芸誌の中では、「新潮」、「文學界」、「群像」、「すばる」、「文藝」などが純文学で、「小説新潮」、「オール讀物」、「小説現代」、「小説すばる」などがエンターテインメントとされてきたが、直木賞を受賞した高村薫や桐野夏生が「新潮」に小説を発表し始めていて単純な区分けは意味をなさなくなった。」(『未完の平成文学史』より)

 まじかよ、と思います。哀しい気配も漂っています。

 主催者がどう言っているかはともかく、昭和から平成まで直木賞はエンターテインメントに与えられてきたわけじゃありません。もし「直木賞はエンターテインメントに与えられてきた」なんていう一般的な認識ができあがっていたとしたら、それは直木賞を報道してきた文芸ジャーナリズムの責任です。だけど、そこには踏み込まず、すいすいと先に行ってしまう。うーん、ほんとにそうなんだろうか、と文学賞ごときの話題にいちいち立ち止まったりしないのが、文芸記者の流儀なんでしょう。

 浦田さんが文化部で働きはじめる頃までは、直木賞では『文學界』やら『群像』やら、そういった文芸誌からポツポツ候補が選ばれていました。なぜなのか。直木賞の受賞者が、受賞したあとにそういった文芸誌に作品を発表することも普通にありました。なぜなのか。そういうハナシをばっさり端折って、ほら直木賞出のエンタメ作家が純文学に接近しているじゃん、それが平成の新しい文学シーンなのだあ、と言われても、あんまり説得力がありません。

 しかし、文芸記者に説得力など必要でしょうか。答えは否です。

 その時代に生きている作家や評論家や編集者に、じかに話を聞く。自分が体感する文壇の潮流や耳に入ってくる現場の動きを、逃さず知識にする。そういった同時代におこなわれる生身の文学賞やそのかいわいに関しては、取材力のある文芸記者には敬服のひとことです。。浦田さんの輝きも、そこにあります。べつに説得力など、なくたって何の問題もありません。

 直木賞はエンタメ、芥川賞は純文学、という文学賞観は、たしかに昔の文献には腐るほど出てきます。しかし、よくよく見ると、その時代の人たちが、そうじゃないかと感じて語っていた分類にすぎず、両賞の実態に即しているわけではないことは明らかです。

 実態と、一般に言われる印象にはずいぶんと乖離がある、そこに直木賞の背負ってきた哀しみがあります。どうして乖離が生まれたか。ひとくちで言えば、主催の文藝春秋(日本文学振興会)と、両賞を解説したり報じたりしてきた文芸記者たちが共同でつくりあげてきた乖離です。平成27年/2015年に出た浦田さんの『未完の平成文学史』にも、全編にわたってそのことが拭えず刻印されています。その意味で、直木賞史を見るうえでも見逃すことのできない一冊です。

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2022年5月 1日 (日)

足立巻一(新大阪)。記者時代に知り合ったライバル紙の記者が、直木賞受賞。

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 日本の大衆文芸に、最も功績のあった新聞は何か。ひとつだけ挙げよ。……という設問は、まあ愚問かもしれません。ひとつに絞ることに何の意味もないからです。

 しかし、ざーっと歴史を眺めてみて、大衆文芸というか直木賞に強い影響を与えたトップクラスの新聞といえば、何といっても『大阪毎日新聞』(大毎)は外せないでしょう。菊池寛さんとの親密な関係に始まって、『サンデー毎日』は大衆文芸の懸賞を企画。『毎日新聞』大阪本社となってからは、学芸部から山崎豊子さんという直木賞受賞者まで出してしまう。正直いって、直木賞は文藝春秋社じゃなく「大毎」が創設したとしてもおかしくなかった。そのぐらいの歴史を持っています。

 ところで、新聞、新聞といっていますが、新聞に載った小説が直木賞をとることはめったにありません。時代もずいぶん下った1980年代以降になれば、白石一郎さんの『海狼伝』とか、古川薫さんの『漂泊者のアリア』とか、ぽつぽつと単行本化されたあとに受賞する例も出てきましたが、雑誌の掲載作が候補ラインナップの主流だったそれより以前に、新聞の連載小説が直木賞の場に持ち込まれることなんて、異例も異例でした。

 90年近い直木賞の歴史を見ても、単行本になる前の新聞小説が受賞したことは、たった一度しかありません。檀一雄さんの「真説石川五右衛門」です。そして、それを載せた新聞が『新大阪』。毎日新聞社が傍系の夕刊紙として立ち上げた新聞で、はじめのころの上層部のほとんどは『毎日』に籍を置きながら出向のかたちで関わっていた、と言います。そういう意味では、これも直木賞と大毎(毎日新聞大阪)との縁の深さです。

 そうなると『新大阪』の文芸記者を誰か取り上げたいところです。だけど不勉強なもので、よく知らないので、ワタクシでもわかる有名な書き手を、今回の主役にしたいと思います。『新大阪』創設期の語りべにして、学芸記者から学芸部長も務めた足立巻一さんです。

 足立さんによると、昭和21年/1946年2月に創刊した『新大阪』の、売りのひとつが充実した学芸欄だったそうです。

「一面に学芸欄を設けた。創刊号には八木秀次と藤沢桓夫が書き、そのあと一流の筆者が署名原稿を寄せた。志賀直哉、谷崎潤一郎、梅原竜三郎、吉井勇の戦後はじめての座談会を京都で開いたりもした。大新聞も用紙不足で学芸欄など持てなかったころなので、この編集は全国的にインテリ新聞という評判を得た。」(『思想の科学』昭和34年/1959年4月号 足立巻一「現代文化の陰極――ある地方新聞の戦後小史――」より)

 一般に抱く夕刊紙のイメージとはかなり違います。

 ところが好調だったのは、戦後まもない短い期間だけで、昭和24年/1949年12月に新聞用紙の統制がなくなると、『毎日』をはじめとして全国紙がこぞって夕刊も出しはじめます。こうなると、毎日系列の夕刊発行紙、という特異性がなくなり、『毎日』本紙の夕刊と競合しないような路線を模索せざるを得なくなります。檀さんの連載が始まったのはちょうど『新大阪』の部数が減り出した凋落のとき、昭和25年/1950年10月1日からです。

 そのころ足立さんは、京都支局に唯一の記者として派遣されていたので、直接連載には関わっていません。後年、「立川文庫」について書いたり、大衆文芸の源流を深く追った足立さんは、石川五右衛門についても研究し、いかに劇化され、キャラクター化されていったか、みたいな文章をいくつか残しました。そう考えると、檀さんの連載に関わっていれば、もっとこの作品や直木賞についても書き残していてくれたんじゃないか、と思い、残念でなりません。

 足立さんには『夕刊流星号 ある新聞の生涯』という小説があります。『新大阪』の興亡を描いたもので、連載小説の話題もいくつか出てきます。ただ、檀さんの小説のことに触れられたのは、下記のくだりのみです。

「第一面には時代小説が連載されていた。檀一雄が『石川五右衛門』を久しく書きつづけ、それが連載途中で直木賞を受けたり映画になったりして紙面をにぎわせたが、檀が前年の暮れに捕鯨船に乗って南氷洋へ出かけるというので打ち切らねばならず、そのあとは社長の瀬田源吉が『八幡船』をやれといい出し、山岡荘八に頼んだ。」(昭和56年/1981年11月・新潮社刊、足立巻一・著『夕刊流星号 ある新聞の生涯』より)

 連載中の小説が直木賞をとったことで、紙面がどれほどにぎわったのか。何しろ昭和26年/1951年の頃のハナシです。『新大阪』の売上が伸びたとも思えませんし、檀さんがそんなことで『新大阪』に恩を感じたこともなかったでしょう。

 作家に紙面を提供して、それが文学賞をとったとしても、光が当たるのは作家のほうです。発行部数が落ちるいっぽうの弱小新聞には、賞を出したからといって目を向ける人も少なく、褒めたたえようという声もありません。まったく縁の下で直木賞を支える新聞メディアの哀しさが、『新大阪』には凝縮されている、と言っていいでしょう。

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