田口哲郎(共同通信)。芥川賞を受賞したとき、直木賞の受賞者記事を書いた文芸記者。
およそ50数年まえ、第54回(昭和40年/1965年・下半期)は、直木賞の歴史のなかでも大きな転換となった回です。
これももう、うちのブログでは何度か書いた話です。もはや「おれひとりがそう思っているだけ」感がハンパないんですけど、直木賞の通史を語る人があまりにいなさすぎて、ほんとに単なるワタクシの思い込みなのかも、よくわかりません。ただ、北上次郎さんの『書評稼業四十年』(令和1年/2019年7月・本の雑誌社刊)を読んでいたら、こんな指摘にぶつかりました。
「日本の現代エンターテインメントは、一九六〇年代後半から一九七〇年にかけて、大きく変化したのである。極端に言えば、これ以前とそれ以後では、がらり一転というくらい変わってしまった印象が強い。新橋遊吉『八百長』(引用者注:第54回直木賞受賞作)と、五木寛之「蒼ざめた馬を見よ」(引用者注:第56回直木賞受賞作)という直木賞受賞作の落差を、個人的な才能の違いや作品の違いにするよりも、そう考えたほうがすっきりする。」(『書評稼業四十年』所収「中間小説誌の時代」より)
第54回(ごろ)が直木賞の分岐点になったのだ、と言っています。そう考える人が、自分の他にもこの世にいたんだと知れて、ちょっと安心です。
とまあ、それはそれとして、第54回直木賞。この回は「文芸記者と直木賞」の歴史で見ても、語り落としちゃいけない背景をもっていました。
受賞者のひとり新橋遊吉さんは、生粋の大阪人で、その当時も大阪に住んでいましたが、共同通信で働いていた文芸記者の田口哲郎さんが、当時たまたま大阪支社にいて、関西圏の直木賞の候補者たちに事前取材していたからです。
当日の受賞決定後、田口さんはまず新橋さんについての受賞記事を書いて仕事を済ませます。文芸記者で文学賞をとった人は過去に何人かいたはずですが、自分が受賞したその夜に直木賞をとった他の作家の記事をまとめた人など、まずいません。かなり異例だった、と言っていいでしょう。
「受賞決定の知らせを、共同通信大阪支社で聞いた。自分への知らせを待っていたのではなく、受賞作家のプロフィルを書くため、受賞者が決まるのを待っていたという。同支社で文化、芸能を担当する記者なのだ。この日も、直木賞作家となった新橋遊吉さんら三候補に、あらかじめインタビューし、新橋さんの原稿を書くやいなや、こんどは取材される身となった。」(『読売新聞』昭和41年/1966年1月18日「時の人 第五十四回芥川賞受賞が決まった高井有一」より)
ちなみに「三候補」というのは、新橋さんのほか、直木賞候補の北川荘平さん、芥川賞候補の島京子さんだったようです。
当日だけじゃありません。事前には本人以外の周辺取材もしていたらしく、この回は『VIKING』の富士正晴さんのところに北川・島二人のことを聞きに行った、と大川公一さんの『竹林の隠者 富士正晴の生涯』(平成11年/1999年6月・影書房刊)に出てきます。富士さんといえば、自身も第52回(昭和39年/1964年・下半期)に直木賞、第53回に芥川賞の候補になっています。そのときも田口さんは事前取材をしていた顔なじみです。
もしも田口さんが大阪支社にいなかったら。のちに賞をとるような記者でもなかったら、どうなっていたか。富士さんが直木賞なんてとりたくないよ、忙しくなるし、授賞式に東京に行くのもいやだ、と思っていたことも、あるいはオモテに出ずに終わったかもしれません。
そういう意味では、田口さんが直木賞の歴史を支えた文芸記者だったのは間違いないでしょう。芥川賞の報道のほうで名が残る記者なのかどうかは、ワタクシはよくわかりません。まあ、そっちの賞のことは、いくらでも語れる人がいるでしょうから、おまかせしたいと思います。
○
田口哲郎。昭和7年/1932年4月27日生まれ。平成28年/2016年10月26日没。東京に生まれ、成蹊大学から早稲田大学第二文学部に編入、卒業後の昭和30年/1955年に共同通信社に入社します。文化部に配属されて、芸能を担当したのち、文芸担当になって原稿依頼や取材などで文壇の中心やら底辺を徘徊しますが、昭和39年/1964年には大阪支社への転勤が決まります。
その直前には、立原正秋さんたちが立ち上げた『犀』の同人に加わって、「高井有一」のペンネームで小説を発表していた頃です。文芸記者でありながら、新人の作家でもある。この段階で田口さんもなかなかチャレンジングな人だな、と思います。
ただ、立原さんといえば、文壇進出への欲を隠さず、賞も欲しけりゃ名誉も欲しい、といったタイプの作家です。こういう人とお近づきになって小説を書くのは、職業柄、しんどかったのは事実なんでしょう。大阪への転勤を受け入れたことを、田口さん(いや、高井さんか)はこんなふうに振り返っています。
「文芸関係(引用者注:の仕事)は、芸能と違つてあまり特落ちの心配はなく、その意味で性に合つてはゐたが、やがて、自分が小説を書き始めると、だんだん具合が悪くなつた。三十九年に、同人誌「犀」に加はつてからは尚更であつた。小説を書く文芸記者なんて、ろくなものである筈がない。筆名を使つて極力事実を隠さうとしても、隠し切れぬところは出て来る。どうにかしなくてはならないと考へてゐた矢先に、大阪転勤の話があり、私は渡りに舟とそれに乗つた。要するに態よく逃げたのである。「犀」は三年半の間に十号を出して終刊したが、その期間は、私の大阪にゐた期間とぴつたり重つてゐる。」(昭和52年/1977年8月・筑摩書房刊、高井有一・著『観察者の力』所収「二足の草鞋履き納めの事」より ―初出『文學界』昭和50年/1975年9月号)
直木賞だの芥川賞だの、そういう文学賞の中心は東京にあります。やっている主催者が東京にありますし、当時はとくに交通網にしろメディア環境にしろ、東京とその他の地域には、距離感がありました。うるさい環境から離れたところで、ゆっくりと創作に向かう。そして仕事では、大阪の作家たちやその周辺のことを相手にする。田口さんにとって仕事場を大阪に変えることができたのは、大きな意味があったものと思います。
少なくとも直木賞には、大きな意味がありました。戦後も10年ぐらい経った昭和30年代からは、関西圏の人が、たいてい1人か2人ぐらい予選通過者が出るようになった頃合いです。文芸記者は東京にだけ棲息しているんじゃないんだぞ、というのは、もう司馬遼太郎さん辺りの受賞で、直木賞界隈にも根づいた感がありますけど、なにぶん直木賞は「第二の文学賞」のイメージが沁みついていた時代でもあります。
芥川賞の受賞者が、直木賞の人たちも取材して記事を書いた、という話題は、直木賞にとっても有りがたく、そのうえ、立原正秋、津田信、ちょっと先輩で有馬頼義などなど、その仲間や近しい人に直木賞に縁のある作家がちらほらいたおかげで、直木賞の幅の広さをはっきり世に見せてくれました。大阪にも手を伸ばす直木賞。純文学にも道が通じる直木賞。……田口さんは、そんな直木賞の姿を示してくれた文芸記者でもありました。
| 固定リンク
« 狩野近雄(東京日日新聞、毎日新聞)。第1回直木賞発表のとき、そこにいたかもしれない学芸記者。 | トップページ | 筒井芳太郎(日本経済新聞)。主流とは別のところで独特な文化欄をつくり上げる。 »
「直木賞を支えた文芸記者たち」カテゴリの記事
- 豊島薫(都新聞)。往年の直木三十五よろしく「ゴシップ」書きに長けた男。(2022.05.29)
- 白石省吾(読売新聞)。直木賞と芥川賞のバカ騒ぎは峠を越した、と言ってしまった人。(2022.05.22)
- 平野嶺夫(東京日日新聞、など)。直木賞のウラに、なぜだか関わりのある人。(2022.05.15)
- 浦田憲治(日本経済新聞)。直木賞はエンターテインメントの賞だと言われてきた、と言い続ける。(2022.05.08)
- 足立巻一(新大阪)。記者時代に知り合ったライバル紙の記者が、直木賞受賞。(2022.05.01)
コメント