« 船山馨(北海タイムス)。文芸記者をしていた時代、すぐそばには芥川賞。 | トップページ | 狩野近雄(東京日日新聞、毎日新聞)。第1回直木賞発表のとき、そこにいたかもしれない学芸記者。 »

2022年4月 3日 (日)

光岡明(熊本日日新聞)。早朝に小説を書き、それから出社して記者生活を送る勤勉な人。

20220403

 かつて直木賞は、現役の新聞記者がとるもの、と相場が決まっていました。

 いや、それはさすがに言いすぎです。現役の新聞記者がとっても珍しくない、そんな時代が数十年あっただけのことなんですけど、うちのブログでもそのなかで文芸や学芸を担当していた現役記者を、何人か取り上げてきました。受賞者では司馬遼太郎さん(第42回・昭和34年/1959年下半期受賞)、豊田穣さん(第64回・昭和45年/1970年下半期受賞)、候補者では木野工さん(第47回・昭和37年/1962年上半期ほか候補)、中田浩作さん(第57回・昭和42年/1967年上半期候補)……。

 最近ではめっきり、現役記者の書いた小説が直木賞の候補になることはなく、もはやこれも、同人雑誌とか新書版のノベルズとか、そういうものと同様に直木賞から消えてゆく文化なんでしょう。さかのぼって見ても、新聞社に籍のある記者が直木賞の候補になったのは、おそらく第86回(昭和56年/1981年下半期)が最後かと思われます。

 直木賞の歴史を半分で区切ると、前半と後半の境はだいたい第80回ごろです。要は、現役記者が直木賞の候補になるとかどうとかいうのは、前半の時期にしか通用しない話題なわけですね。昔のハナシです。

 その第86回、「現役記者の直木賞」という文化の打ち止めになったのが、光岡明さんでした。『熊本日日新聞』の人です。

 直木賞を通じてもなかなか面白い受賞者なので、これまで何度か取り上げたことがあります。光岡さん。この人の書くものは、ワタクシも好きなので、受賞作の『機雷』を含めて未来に読み継がれていってほしいな、と思うんですが、まあ新しい読者に好んで迎え入れられるとも思えません。これからも消えるいっぽうの作家でしょう。しゃあないです。

 と、それはともかく光岡さんの「新聞記者」に対する情熱は、やはり特筆しておかなきゃいけません。

 地方紙における記者の人事がどうなっているのか、くわしくないのでわからないんですが、光岡さんの場合、入社してしばらくは市井の事件や社会問題の取材に駆けまわります。昭和34年/1959年、三井鉱山の三池争議を取材したときの経験は、ずっとのちまで書きたいテーマとして頭に残ったそうです。

 昭和41年/1966年から数年、東京支社で編集部長を務めます。大宅マスコミ塾の五期生として草柳大蔵さんに師事したのはこの頃のことですが、はじめ光岡さんの希望はルポライターとして活躍したい、ということでした。じっさいに何が起きたのか、まずは徹底的に調べ尽くして、それを構築して読み手に届ける。それが光岡さんのやりたかったことで、マスコミ塾で学んだことは新聞記者として血肉になっていきます。文芸のことは、あまり優先度は高くなかったようです。

 ところが、草柳さんから「きみはルポより小説のほうが向いているんじゃないか」と言われたり、『日本談義』の荒木精之さんに「小説、書いてみませんか」と誘われたりするうちに、じゃあちょっとやってみるかと乗り気になって、昭和47年/1972年に「棚鳴り」を発表。昭和50年/1975年に同誌に書いた「卵」が、『文學界』の同人雑誌推薦作となったところから、にわかに有望な熊本の作家として注目を浴びはじめます。

 同じころには、文化・学芸の担当記者としても腰が据わって、そうだよおれは地元熊本の文芸・演劇・美術その他カルチャーを側面から応援して盛り上げていくんだ! と使命感に燃え盛ります。気力みなぎる40代。社内でも話題・伝説の人となっていったそうです。

「新聞社に入社したばかりの三十年近く前、昼休みに光岡さんから喫茶店に誘われた。

身を固くしている新米に、既に俊才の誉れが高かった学芸記者は言った。

「おれは新聞記者とモノ書きの二足のわらじを履いている。いずれ文壇で名を成して見せる」

自信をみなぎらせた表情に、「この人はただ者ではない」と畏敬と憧憬の念を抱いた。

未明の四時ごろに起きて、出勤まで執筆する―光岡さんを知る人々にとってその営為は、当時からの伝説だった。」(『熊本日日新聞』平成16年/2004年12月23日「評伝 光岡明さん 「地域で書き、生きたい」記者気質…とことん取材」より ―署名:文化生活部長・龍神恵介)

 職業作家じゃない人が、苦しい思いをしてまで小説を書きつづける理由は、いろいろあるかと思います。光岡さんも、人には言えない心の鬱屈を抱えていたでしょう。ただ、光岡さんが文壇で成り上がっていく過程には、いまの職場に絶望しているとか、イケすかない上司や部下をいつか見返してやるんだとか、そういう怨念的なものが何ひとつうかがえません。このあたりが、常人にはなかなか感情移入しづらいところですけど、しかし龍神さんが言うように、畏敬と憧憬を抱かされるのもたしかです。

 少なくとも、サラリーマンとして(あるいは人間として)信頼できる、まっとうな人だったことは伝わります。書いたものからもマジメさが匂ってくる、そんな記者であり作家でした。そりゃあ文学賞でも取らないと、売れもしないし話題にもならないのは、よくわかります。

          ○

 光岡明。昭和7年/1932年11月3日生まれ。平成16年/2004年12月22日没。熊本県上益城郡秋津村で生まれ、熊本大学を出て、昭和30年/1955年熊本日日新聞社に入社。直木賞を受賞した当時は、同社の編集局次長という管理職のポストにありました。現役の記者といっていいのか異論もあるかもしれません。しかし、熊本全域の文化事業や活動などに常に目を配って紙面づくりに従事していた、ということでは、やはり「現役文芸記者としての最後の直木賞受賞者」の称号は、光岡さんにかぶってもらうしかないでしょう。

 ところで直木賞をとった『機雷』なんですが、光岡さんいわく、まったくの創作とのこと。なかで書かれる出来事は事実に即している部分もあるが、登場人物にモデルはいっさいいない、と強調しています。

 作中に、新聞記者がどうのこうの、というハナシが出てくるわけでもありません。そりゃそうです。ただ、小説のなかみがどうであれ、『機雷』と光岡さんを取り上げる直木賞関連記事には、作者が新聞記者であるという背景が、数多く出てきます。

 そのひとつは、記者として培った光岡さんの創作観に、とにかく調べて調べて調べ抜いたうえでないと書けない、というものがあり、『機雷』にはその丹念で綿密な取材成果がよく現われている……というものです。長く記者生活を送ったからこそ書けた一作、と言い換えてもいいでしょう。

 そして、もうひとつは父親に関するエピソードです。

「「陸軍中佐だった父は戦後、時代の波に押し流されるままに生きた。精神的にも経済的にも、自分を助けるゆとりはなかった」という。(引用者中略)その父親も戦争をほとんど語らないまま七十歳で死んだ。「私は新聞社勤め(熊本日日新聞)だが、肉親が亡くなると死亡記事を載せてくれる。私も父の死亡記事を書けといわれたが、どう努力してもたった七行にしかならなかった」。

この“たった七行”は、光岡にとって言葉では表し難いほどのショックだったらしい。如何に自分は父親のことを知らなかったか、いったい人と人は何でつながっているのか、わけても最も身近な関係であるべき父子とは何か、を思い知らされ慙愧に耐えなかった――彼の告白である。その思いはそのまま、父親の人生に激変を強いた戦争、ひいては政治という巨大な力に向けられる。」(『中央公論』昭和57年/1982年4月号「人物交差点 光岡明」より ―署名:(太))

 うんぬん。というわけで、『機雷』で描かれる戦争とか政治とかの根っこには、父親の訃報を書かされた光岡さんの記者体験があるのだ、と紹介されています。たぶん、そのとおりなんでしょう。

 しかし面白いのは、新聞記者が直木賞をとればかならずそのことにつなげたがる周囲の目、のほうです。「つなげたがる」というか、じっさい長年の職業経験が、何ひとつ小説に還元されないほうが異常ですから、直木賞の受賞者に新聞記者としての痕跡を見ようとするほうが健全だとも思います。とくに光岡さんの場合は、受賞してからも社から離れず、早朝に起きて小説を書いてから出社すると、めいっぱい新聞人として働くという生活を継続。新聞記者であることと、小説を書く人、という両面は切っても切り離せない受賞者でした。

 それからもう40年も、そういう人物は、直木賞の場には登場していません。今後も登場しないかもしれません。光岡明、やはり伝説の域です。

|

« 船山馨(北海タイムス)。文芸記者をしていた時代、すぐそばには芥川賞。 | トップページ | 狩野近雄(東京日日新聞、毎日新聞)。第1回直木賞発表のとき、そこにいたかもしれない学芸記者。 »

直木賞を支えた文芸記者たち」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 船山馨(北海タイムス)。文芸記者をしていた時代、すぐそばには芥川賞。 | トップページ | 狩野近雄(東京日日新聞、毎日新聞)。第1回直木賞発表のとき、そこにいたかもしれない学芸記者。 »